9 蘇芳




『あんまり構い過ぎると嫌われるから。気をつけろよ』



 幼馴染を思い出して注意散漫だったのは否めない。

 面倒なことになった。今は空を抱き呟いた男の眼前には、日を浴びて燦々と輝く世界が広がっていた。


「飛鏡、か」








「玖麦!見てみろ!」


 泉の上で軽やかに飛び跳ねる翠を見て、泉膜の効果か、翠自身の身体能力がなせる業か判別がつかない玖麦であった。



 月流道、三都の一つである飛鏡。



 長閑な空気が流れるここは、今も昔も観光業で賑わいを見せていたが、名物である棚田のような泉、略して棚泉の規模が年々大きくなってきて以降、設けられる場所がなくなってきてしまい、店や宿は元より住宅も激減。以前は首都である銀兎に負けず劣らずの経済の活気を見せていたが、日帰りが主となりつつある今、重きを置かれているのは環境観光、景観保持であった。



 ほとんどの観光客が食事やおやつを持ち込みする中、ごみは店で引き受ける場合もあるが、大概が持ち帰る。この地の動植物は持ち帰らない。泉の水に触れない、飲まない、持ち帰らない。

 泉の水に触れない、飲まない、持ち帰らないもまた、しない、という観光客の積極的な意思行動も過分にあるが、そもそもが、不可能なのである。



 泉の上には膜が張ってあって、水に触れられないのだ。

 この泉膜は強い弾力性と柔軟性があり、どれだけ力を込めて、時に道具を使って突き破ろうとしてもできず、トランポリンみたい軽やかに浮き沈みすることができた。

 遊具や運動器具として活用すれば、経済の活気に一役買うのではと考える者も居たが、結局は景観保持が支持されて頓挫した。



 安全面も考慮した結果だろう。

 なにせ、棚泉が大きくなるにつれて、泉膜は勝手に形成されていたのだ。

 規模が大きくなる棚泉同様、研究は続けられているが、この泉膜も原理は不明であった。

 ただし、或る者たちは究明しているのではと考えられている。




「翠さん。気を付けてくださいよ」



 研究場、及び、体験場として、一か所だけが開放されている小さな棚泉で、気持ちよさそうに飛び跳ねる翠を見て、あぜ道に立っていた玖麦は、このまま空に吸い込まれてしまうんじゃないかと、少々不安になってしまった。



「玖麦も一緒にしよう!」



 翠が手を伸ばすも、玖麦はいいえと素っ気なく返し、そろそろ花嫁さん探しを再開しましょうと促した。翠は口をへの字にした。


 どうやら玖麦には花嫁探しを積極的にしているように見えていないようだが、違うと断言できた。

 ただ、花嫁探しも玖麦との旅も、当初のままに、全力で楽しむだけ。叶えるだけ。

 今もほら、遊んでいるようにしか見えないだろうが、飛び跳ねながら全方位くまなく探し続けている。

 あそこには、三人の親子連れ、五人の友人、二人の老夫婦、二人の親子、年齢層が幅広い十人の観光客集団、だろう人々がちらほら。



 観光時期ではないのか、偶々なのか、想像していたより人は少ない。

 見晴らしがいいので、もしここに居てくれたのなら、すぐに見つけられたのに。



 まあそうそう容易くは無理かと気を取り直し、飛び跳ねながら捜索を続けるも、確かにそろそろ順番を譲った方がいいだろうと、下りようとした瞬間、一人の男性に目が奪われたかと思えば、空の色とは違う、透明感がある水色に包まれていた。



 翠さんと、驚いた玖麦の声だけが頭の中で木霊する中、必死に戻ろうと身体を上へ上へと動かし続けるも、突如として、意識が閉ざされた。




 一方、音も飛沫もなく棚泉の中へと静かに沈んでいった翠を引き上げようと腕を突き出したが、跳ね返された玖麦は顔を青ざめ、次には、案内所へと駆け走っていた。



 泉膜ができて以降、この棚泉は入ろうとしても入れない上に、落水事故も一件たりともなかった。

 けれど安全だと安心して、翠みたいに思い切り飛び跳ねる者はそう居なかった。

 落ちるかもとの危惧の下、軽く触れる程度に留めておく者が大多数であり、数少ない挑戦者も、管理者が用意している安全器具を付けた上で、だった。



 翠も同様に安全危惧は付けていた。だから引き上げればいい。だがそうしたくてもできなかった。繋がるはずの鎖が断たれてしまった。



 甘かった。

 棚泉の上に鋭利なもので切られたかのような分断され力なく横たわる鎖がどうしても頭から離れず、後悔する玖麦の脳裏に、一瞬間だけ、過るのは。



「泉賊かもしれない、な」



 過ろうとした人物から発せられた言葉。

 思わず足を止めて仰いだ先には、一人の男性が立っていた。










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