10 錆浅葱
玖麦が思わず足を止めて仰いだ先で立っていたのは、蘇芳色のとても短い髪で色白の男性。
目にした記憶があるような、ないような。
脳裏を掠めた疑問も、しかし、今はどうでもいいと放り投げて、軽く会釈をして、止めていた足を動かし始める。
『
泉賊。泉膜を自由自在に操れるかもしれない、棚泉に居を構える盗人集団。
森賊同様に、命を奪わない、怪我もなるべくさせないを信条に盗みを働くが、森賊とは違い、盗む方法に華麗に、という制限もなく、腕に覚えのある者に勝負を挑むこともなく、ただ、淡々と標的を盗む。
標的は限られていて、紫系統の石だけ。そして盗んだものは泉膜を通過して棚泉の底に隠しているそうだ。
ただし、森賊とは違って、実害が声高に広げられることもない上に、泉賊を目にした者はほとんどおらず、国が存在すると公言する鬼同様に、幻想として認識されていた。
曰く、鬼が国全体を守護する存在ならば、泉賊はこの棚泉を守護する存在。
紫系統の石は棚泉を守護する為に必要だから、仕方なしに盗みを働いている、と。
確かに。玖麦は思わないではなかった。
確かに翠は幻想感が多分に含まれている存在だと。
翠自身は鬼だと胸を張って言っているが、実は、泉賊ではないか。
泉の精霊と言われれば、そうかもしれないと納得させてしまう存在である。清涼感があり、愛嬌もある。泉の精霊ってそんな感じ。
(………)
思わず振り返ってみたい衝動に駆られる身体を必死に案内所へと向け続ける。
実は今、ひょっこり姿を現しているんじゃないか、なんて。考える必要なし。
「すみません、棚泉の中に友人が入って、しまって」
「ああ。見ていたからな。知っている」
案内所に駆け込んだ玖麦は少しだけ動揺した。
先程すれ違った男性がそこに居たのである。どうやら管理人だったらしい。注意して見れば、棚泉管理人との刺繍が胸元に施されていた。
無駄な時間を使ってしまった。さっさと名乗ってくれればよかったのに。この緊急時に。
だが恨み言は胸に閉まっておき、どうすればいいのかと答えを求めた。
「いや、どうすればいいって。あいつ、泉賊じゃないのか。なら、助ける必要はない。そもそも棚泉に入ったやつなんていないから、助ける方法など知らない」
あっけらかんと口にする男性の回答に、玖麦はますます青ざめてしまった。
管理人なのに打開策を講じてくれないのかというやるせない絶望感と怒りと。一縷の可能性。
泉賊ではないと、否定はできない。
乾も結局、翠が何者かを玖麦には教えなかった。乾が必要はないと言ったのだ。
だから、もしかしたら、泉賊かもしれない。
(今から師匠に連絡を取れば、)
幸いここは案内所だ。連絡手段はある。
「研究者に連絡を取らせてください」
「やる」
求めていた返答ではなく、突き出されたのは、あやめ色で網目模様のある花の、石。傍目には植物のあやめにしか見えない。
「泉賊に頼めと言うわけですか?」
泉賊は紫系統の石を盗むと言うが、持っていれば誰かれ構わず姿を見せるとも限らないだろうに。幻想と言わしめる存在。可能性が低すぎる。それよりも早く研究者に連絡を取ってほしい。
なんて無責任な。この人に頼っても無駄だ。
憤る反面、話を最後まで聞けと諭す声も聞こえる。
内面からか、男性の訴える声か、判別はできなかった。
「おまえ、ゆいしゃだろ。さっきのやつが泉賊じゃないってんなら、この石に毒を入れて、泉賊を脅せばいいだろ」
「そ!んなことできません」
出現を前提で考えている。何かを知っているのか。今日、この時間の環境ならば、泉賊が現れるという絶対的な確信でもあるのか。
(だからって。毒を入れろだなんて)
警戒心が増す一方、どうしてだろうか。一色に染められない。話を聞けと声が響く。
動揺を最小限に抑えようとする玖麦に向かって、男性は半眼になって、薄く笑った。
「そうだなあ。おまえはまだ毒を入れられない。吸出しかできないひよっこだもんな」
突き放しているようで、繋ぎとめているようで。
踵を返せば、途切れてしまうのではないか。どうすればいいかわからないが、ただ、助ける方法を知っているのではないかとの一縷の思考が浮かぶ。
「…否定はしません。私はまだ吸出しかできません。でも、毒入れができていたとしてもやりません。毒を入れるのは、毒を消す為です。毒は脅す材料ではありません」
「差し迫った状況だったとしても?」
「はい」
「棚泉に落ちたやつだからじゃないのか。大切な相手だったら?」
「変わりません」
探られるような視線を向けられても、痛くも痒くもなかった。
大切な人。言われて思い浮かぶのは、二人。付随して、二人と一匹。あの人たちなら自力でどうにかする。絶対的な確信がある。
慌てる必要はない。
慌てる必要はないのだ。
翠に対しても同様に言えるだろう。
玖麦は自分自身に力が宿るのを確かに感じた。
慌てる必要はない。慌てずに打開策を見つけ出せ。
どうにかできるかもしれなくても、どうにもせずにはいられない。
「助ける方法は本当に知らないですか?」
(怖気づかないのは昔から変わらんが)
むずがゆい。思わず緩みそうになる口元をどうにかして平衡に保つ。
あの兄貴一直線、時々師匠、その他無関心だった娘が、どういうわけか、一人の男に目を向けるようになったのだ。
男性は玖麦から気づかれないように視線を外して、後方へと向けてのち、少しだけ応援するかと思い、口を開いた。
「つまり、さっきのやつも思い浮かんだやつら同様に大切な存在なんだな?」
「引き延ばさないでそろそろ教えてください。助ける方法を知っていますよね?」
あ、まじで怒ってるわ。
これ以上引き延ばしては極まりが悪い。判断した男性は後ろを向けと玖麦に言った。早くと付け加えて。
低くなった声音。素直に聞いた方がいいと、玖麦は振り返った。ら。
棚泉に落ちたはずの翠がこちらに走ってきているではないか。
どうして、どういう。
あったはずの疑問は一切合切消えて、玖麦もまた、翠めがけて走り出した。
「玖麦!」
「翠さん。本当に気を付けてください」
「う、うむ」
案内所から少しだけ離れた場所で再会を果たした翠はしかし、玖麦の先手により、勢いをなくして、心配をかけてすまなかったと小さく伝えた。
「……あそこに管理者が居ますから、状況を説明してきてください。私はここで待っていますから。怪我はしていませんよね?」
「うむ、大丈夫だ。行ってくる」
「はい」
優しく肩に手を置かれてから、翠が案内所へと入っていくのを確認して、玖麦は拳を開いた。
翠が何者かは訊かないし、聴かないと、決めていた。
ただ、花嫁探しだけに付き合うだけの関係。
「…応援したいだけで、兄上と師匠とは違いますよ」
先程の問いの返しを、玖麦は呟いた。
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