11 藤
「兄さんってもしかして」
泉賊ではないのならば、泉膜を通れる可能性はあの土地の出だからではないか。
軽やかに憶測を述べれば、軽やかに否定されるも。
感じ取れるのは、怯えと拒絶。これ以上、その話題をしてくれるな。これ以上、踏み込んでくれるな。言葉が、視線が、全身が、空気を震わせて伝えてくる。
別段、気に病ませることは言っていないはずなのだが。
内心首を傾げながらも管理人でもある男性は、こちらに背を向けている玖麦を一瞥して、警戒心が膨れ上がっている翠に顔を近づけるように手招いた。
翠は拒絶はしないが、表面穏やか、内心は警戒心も解かず、男性に近づいた。
男性は口元に片手を添えて翠の耳元にこしょりと話しかけた。
「俺の名前は
この瞬間、警戒心の大部分は消え去った翠。目を見開き、しかし、口元を手で押さえた。わざわざこしょこしょ話をするのは訳があると思ったからだ。
「玖麦は俺を覚えていない。つーか、昔からあいつの兄貴と乾師匠しか認識してなかったからな。名乗ったところで、誰ですかって首を傾げられるだけだ。虚しいから、玖麦には言うなよ」
玖麦の昔話が聴きたい。玖麦の兄の情報は知らないか。藤殿もゆいしゃなのか。管理者で生計を立てているのか。
乾殿から何か聞かされているのか。
頷きながらも、訊きたい事が多すぎる翠の頭の中は性急に輪がぐるぐると回り始める。
何を、何から。
頭は上下に、頭の中では輪っかにと動き続く中、若干気持ち悪くなってきた翠に救いの手を差し伸べたのは、藤だった。
名を尋ねた藤に対し、翠は動きを急停止させてから、新鮮な空気を取り入れ、身体の向きを変えて、深々と頭を下げた。
「わしの名前は翠と申す。乾殿の協力もあって、今は玖麦の兄上とわしの花嫁探しの旅をしておる」
「へえ。乾師匠にも会ったのか?」
「うむ」
「ふ~ん。一応、認められてんのか?」
「?」
翠は首を傾げた。藤は一笑を溢した。
「あの人、玖麦を溺愛しているからな。兄さんと玖麦。二人きりでの旅なんて言語道断だろうに」
「ああ。色々と約束事を交わした」
「だろうな」
穏やかな空気が生まれたと感じた翠。冷静さを取り戻しては目元に力を入れて、深く頭を下げた。
真実は言えないが、誠意は伝えたかった。
「……その、すまなかった。事故を起こしてしまって。ただ、棚泉に落ちた理由はわからぬのだ」
「ああ。そうだな。理由追及は専門家に任せるにしても。もう、飛び跳ねるのは元より接触も、禁止にしといた方がいいな。今後落水があったら大問題だ。兄さんは無事に帰ってこられたからよかったが」
「すまない」
「そんなに謝んな。兄さんが無事だったのが第一だし。観光の面でも。今回の件は広まるだろうが、人が来なくなるってことはないからな」
「そう、か」
「危険がある。でも、行かずにはいられない場所、だからな。ここは」
「藤殿も気に入ったから管理者になったのか?」
「いや。ただの金稼ぎ。少しの間、留まっているだけだ」
「では、やはり本業はゆいしゃなのか?」
「ああ。本業はゆいしゃで、ここの管理者のように副業をいくつか、な」
(やはりゆいしゃには金が入用なのか)
翠は金が必要だと言っていた乾を思い出し、次には、玖麦も副業をしているのだろうかと疑問が生まれると、胸がざわついた。
一緒に旅をするようになってから、玖麦はゆいしゃとして毒は集めているようだが、他のことをしているようには見えなかった。
実は稼ぎたいのに花嫁探しに巻き込んでしまったからできないのでは。本当ならば兄探しをしながら細々と稼いでいたのでは。もしかしなくても自分は邪魔ではないのか、との危惧がこの時初めて、翠の頭を過った。
(…棚泉に入った、か)
目を眇めた藤は今一度、玖麦を一瞥、さらに奥の方に見える人物へと視線を向けては翠へと戻し、頼みがあるんだがと、手を合わせた。
「遅いから様子を見て来いって言われて来たんだけど」
管理者控え小屋。案内所からだいぶ離れた場所に建っているその小屋は、通常特定の管理者しか入らないのだが、非管理者であるにもかかわらず、縁は我が物顔で入ってきた。
「暫く帰らないって言っといてくれるか?」
藤は羽織っていた管理者専用ジャンバーを洗濯籠に入れてから、扉に寄りかかっている縁に向かい合った。
「帰れない。つまり、あれを持ち帰れない状態にある。落としたか、盗まれたか」
「…盗まれた」
「へえ~。盗人が盗まれたんだ。へえ~」
ニヤニヤニヤニヤと。それはもう、意地悪い笑みを浮かべる縁。僅かに反撃に出ようかとも考えた藤であったが、止めておいた。
「ああ。だから、取り戻すまで帰らない」
「頭もそうじゃないかって言ってたから。ま。頑張んなよ」
「手伝うって言ってくれないんだな」
「言わないね」
じゃあ頑張んなよー。
終始笑みを浮かべたまま藤に背を向けて歩き出した縁。管理者控え小屋から出て少し歩いて仰いだ先。注視すれば何とか認識できる玖麦に向けて、一言だけ音も出さずに呟いた。
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