18 紫紺

「待ってください」


 両の手に載るその小さな身体の、直毛の顔以外覆うのは幾つも渦を描いているやわらかい灰毛。四肢を折り畳んだ状態時に地面まで届く長い垂れ耳。真珠のような紅の瞳。

 兎である蒼を抱えている、小さな紫紺色の帽子を頭に飾り、紫紺色のイブニングドレスを着るご婦人を呼び止めようとしている玖麦の声が届いていないのか、ご婦人は止まらずに姿勢正しく、水のようにすいすいと人の合間を縫って歩き続けている。


(歩いているように見えて実は走っている?)


 人が壁となって小走りの状態の玖麦。距離を縮めるどころか、少しずつ離され続けている現状に少しだけ焦りだした。


 蒼を見失ったら。

 返してもらえたとしても何かよからぬことを要求されたら。

 正義に何か悪いことが生じていたら。

 縁たちと合流できなかったら。


 何故だろうか。言い知れぬ不安が不安を呼び。負の思考に陥る。

 どうにかなるだろうと、いつものように楽観視できない。


(遼雅さんとの別れがそんなに)


 こんなにも、


(違う。今はとにかく蒼を連れ戻すことだけに集中)


「そこの小さな紫紺色の帽子とイブニングドレスを着飾っているご婦人待ってください」


 玖麦は一念だけを持ってご婦人の後を呼び掛けながら追い続けた。






「あなた。ゆいしゃかしら?」


 どれほど呼び続けたのだろうか。人盛りのある中、縁と共に入った部屋からは出ていない状況下で、突然足を止めたご婦人はくるりと華麗に振り向いたかと思えば、玖麦に尋ねたのだ。


 一つ一つの所作に華がありながら、なおかつ、乾に負けず劣らず迫力がある綺麗な人。

 なのに、か。だから、か。

 眼前で相対して、胸がざわつく。


「どうなのかしら?」


 再度問われた玖麦は、遠のきそうになった意識を眼前のご婦人に集中させて、はいと肯定の言葉を返した。


「優秀なのかしら?」

「いえ、まだ下っ端も下っ端で、できることも限定的ですので、優秀なゆいしゃが必要でしたら私の師匠を紹介しますが」

「その方のお名前は?」

「ゆえの乾と申します」

「彼女なら存じていますので、紹介は結構です。ごめんなさいね。こちらの要件を先に済ませてしまいました。あなたのご用件は何ですか?」


 類は友を呼ぶ。

 乾を知っている発言に、ふとこの言葉が脳裏を過った玖麦は背筋を限界まで伸ばした。


「あなたが抱えている兎は私の知り合いの兎なんです。申し訳ありませんが、お返し願えないでしょうか?」

「そうなの。ごめんなさいね。あまりに可愛らしくて。拾ったところで訊いても誰も知らないと言うので、野生の兎かと思って持ち帰っても問題ないかと判断しましたが。あなた。もう家があったのね」


 ご婦人は蒼の顎下を優しく擽ると、蒼を玖麦へと差し向けた。


「あなた、お名前は?」

「玖麦と申します」

「玖麦さん。私の名前は、ななしと申します」

「ありがとうございます」


 ご婦人、ななしから手渡された蒼を抱えた玖麦は深く頭を下げた。


「玖麦さん。精進なさって、是非優秀なゆいしゃになってください。短期間で」

「努力します」

「お願いしますね」


 蒼の頭を一撫でして背を向けるななしに、玖麦は再度ありがとうございましたと感謝の言葉を述べては、そのまま姿が見えなくなるまで見送り続けたが、完全に視界から姿が消えた瞬間、疲労が怒涛の如く襲いかかってきた。


「ななしさんって、もしかして師匠の知り合いどころか竹馬の友じゃないのかな。種類は違うけど迫力がすごい。激励されちゃったけど。もしかして重圧をかけてたのかな。ねえ、蒼」


 喋られはしないが、言葉は理解していると知っている玖麦は蒼に話しかけた。蒼は小さく首を傾げた。


「そうだよね。下っ端も下っ端。なんて言ったから、そりゃあ、激励するよね。社交辞令だよね。短期間って期限付きが気になるけど。気にしない。よし。師匠を知っているなら、きっと、問題解決も間違いないだろうし。私が気にする必要はない。じゃあ、戻ろうか。縁も正義も居るから」

「「戻る必要はない」」


 二人分の声音が聞こえて振り返れば、そこには、縁と。


「力尽きて眠ったところを狙うとは非道なり。玖麦。漸く対面できて至極嬉しいが、今暫く対談は待っていてくれ。悪人を成敗してくるからな」

「ちょっ。正義!」


 疾風の如く、眼前から消え去った正義の残像だけが居た。


「あいつが言った通り。眠っていただけだ」

「うん。よかった。また居なくなったけど」

「まあ、また頓珍漢なところに行くだけだ。藤とお、翠が戻り次第探してやるから動くなよ。もし蒼と離れたら、おまえを探すのは面倒だからな」

「わかってる。あやめ石は?」

「買えた。おまえ、無駄に金持ってるな。どうせ使い道なんかないんだろう。俺に全部寄こせ」

「誰が渡すもんですか。働けなくなった時とか、老後用に貯蓄してるんだから」

「へっ」

「何よ」

「別に」

「ほんとにむかつく」

「腹を立てる必要なんてないだろう?もう少しで愛しのお兄様に会えるだろうが」


(あーもー本当にむかつく。けど。押さえて、自分)


「ねえ。翠さんと藤さんは情報収集しに行ったのよね?」


(堪えたか)


 縁はちらと玖麦に抱えられている蒼を一瞥しては、すぐに玖麦へと視線を合わせた。


「ああ。さりげなーく贋物のあやめ石について訊きにな」

「開催者に会いに行ったり、とかは?」

「そりゃあ会いに行きはするだろう」

「………藤さんって強いよね?」

「今更だな」


 鼻で笑った縁を凝視した玖麦。肩の力を抜いて、蒼の重みと柔らかさを意識して感じて、真剣な表情を向けた。


「ここに居る間は信じるって決めてるから」

「そりゃあどうも」

「私ができることはもうないんでしょう」

「待つだけだ」

「わかった」


 精神安定剤である蒼を抱いているおかげだろう。渦巻く不安から少しは抜け出せた玖麦に対し、縁はどれだけ貯蓄しているか教えろと言った。


(しかしこいつ。今は遼雅と王子で頭が占められてるんじゃないか)











(2021.7.31)


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