16 薔薇
『支暖』内、石造り邸内の一階の客間にて。長い机を挟んで、乾と藤は脚の低く、座り心地のいい椅子に座っていた。
「だから兄さんが泉膜を通れたんですね」
「ああ」
「………」
「………」
「………」
「その殴りたくなる顔をさっさと引っ込めろ」
乾は腕を組んだまま、真正面に座る藤に凄むも、藤は緩めた頬をそのままに口を開いた。
「いや。師匠は本当に玖麦が大好きなんだと再認識しまして」
「当然だ」
「でも残念ながら、玖麦は師匠ではなく、遼雅に懐いてしまいましたね。拾ってきたのも師匠なのに。刷り込み失敗ってところですかね」
「…そもそも、玖麦を見つけたのは私ではないがな」
「へえ。そうなんですか」
「ああ。知人が見つけて、私のところに連れてきた」
「知人、ねえ」
藤は少しだけ緩めた頬を引き締めた。怒りをひっこめさせた乾は、右手の人差し指で、右手の腹で添えていた左腕を小さく叩いた。
「…藤」
「はい」
「私の知っている情報をおまえに聞かせた理由は分かるな?」
藤は合わせた両の手の指先を顎の下に添えた。
「守ればいいんですよね」
「本来なら遼雅の役目だがな。あいつはふらふらしていて、まったく役に立たん」
乾は鼻息を荒く吐き出した。藤は苦笑した。
「いや。俺が余計なことを言ったばっかりに、あいつは玖麦とどう接すればいいかわからなくなったみたいで」
「…なるほど。通りで。あの遼雅の口から結婚云々の話が出てきたのか」
藤は目を丸くした。
「え?あいつ。結婚したいと言ったんですか?」
「いや。ただ、結婚した方がいいのかとこぼす程度だ」
「はあ」
「あいつらがくっつけばいいと。思っていたんだが」
「師匠が認める唯一の相手ですもんね」
「同時に認めたくない相手でもあるがな」
ぷはっ。藤は一笑を噴き出した。
「そんなに大好きなら師匠がもらい受ければいいんじゃないですか?」
「大好きだが、結婚となるとまた別の話だ」
藤は首を傾げた。
「そーですかね」
「自制できん。私ばかり甘えることになるからな」
「………一応考えたんですね」
「ああ。バラ色の生活だ。しかし、玖麦の為にはならんから、私の心の奥底にそっとしまい込んでおく。いいか。他言無用だぞ」
藤は顔の高さまで両の手を持ち上げた。
「言いませんよ」
「ならいい」
苦笑いを表情に刻むにとどめた藤。真顔になって、乾を見据えた。
「……師匠。玖麦の件はまだ不確定なんですよね?」
瞬間、乾の額に血管が浮かび上がった。
「あいつが違うと言っているからな」
「…あの方は兄さんをどうするつもりなんですかね?」
怒りをそのままに、乾はまた右手の人差し指で左腕を小さく一度だけ叩いた。
「さてな。公にするのか、秘匿したままか。あちら側はどうしているのやら」
「…あちら側が来ているみたいです」
乾は目が点になった。
「は?」
「俺の持っていたあやめ石を盗んだのが、あちら側です」
やおら、乾はやわく丸めた右手を口元に持って行った。
「確実か?」
「いえ。断言はできません。なにせ、突風が盗んでいったようなもんでしたから。でも、一瞬捉えられた顔が、玖麦に似ていましたから。可能性は高いです」
乾は眉根を寄せた。
「……棚泉、か」
「恐らく。ただ、船である可能性もあります」
「ああ。だが。どちらにせよ……来てはいけないと叩き込まれているはずだ。しかも、あやめ石を盗む?盗まずとも、大量にあるだろうが。意味がわからん」
「置いていきますか?」
乾は人差し指と親指で眉間の皮膚を掴んで圧迫しながら、しばし目を瞑った。
来るかもしれないし、来なかったかもしれない不確実な未来が、間近に迫っていた。
この考えが違うかもしれないし、合っているかもしれない。
合っている場合、会わない方がいい。互いの為に。
ただ、
(あちら側がこちらの非を知ってしまった場合。すでに、か、まだ、か。どちらにせよ。いや。もしも機を狙っていたとしたら……知らせに来た、のか?)
乾はぐしゃぐしゃと髪の毛を両の手で掻き回した。
「だから化かし合いの政治なんかに関わりたくなかったんだよ」
あいつが王でなければ、
玖麦を連れてきたのがあいつでなければ、
玖麦の愛らしさに心を奪われなければ、
玖麦が、
(玖麦が王族でなければ、)
ただただ研究に没頭していたのに、
「瓜二つかもしれないし、俺の見間違いかもしれませんが」
「そう願いたいがな」
藤の慰めに、乾は意図して短く強い息を吐き出してから、勢いよく目を開いた。
「置いてはいかない」
「いいんですか?これから連れて行く場所も危険ですが」
「里から出した時点で危険と隣り合わせだったのは承知の上だった。ただ、玖麦は逃げ足が速いし、なんだかんだ言っても、あいつらが助けてくれると確信していたからな。状況が変わった今は何とも言えんが」
「俺が遼雅の代わりに守りますよ」
頼もしい言葉に、乾は力を解いた。
「ああ、頼む」
(……そこまで信頼されるとやっぱ、頑張らないとなー)
目を細めて見つめる乾に、少しだけこそばゆさを覚える藤。ただ。と、胸中だけで不安を吐露した。
(玖麦と兄さんをあらゆる敵から守るには、俺独りじゃ、ちと、荷が重い、よな)
「任せてください」
にんまりと笑った藤の脳内では、あいつに連絡して来てもらおうと算段をするのであった。
(玖麦が嫌がるだろうが、仕方ない)
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