5 茜
師匠に助力を仰ぐ。と、意見を一致させたので、早速連絡を取るべく、翠と近場の休憩所へと向かった玖麦は思いもしなかった。
滅多に里から出ない師匠とまさかまさか、遭遇するなどとは。
(…人違いの可能性もあるけど、)
茜色なれど藤を思い起こさせる、細かく編み込まれた髪の毛。漆黒に染まっている一房の前髪。白い肌に、感情が読み取れない表情。玖麦と同じくらいの身長の人物は、姿勢や肌の色艶から玖麦と同年齢に見えるものの、その達観した雰囲気から、外見以上の年齢を想像させた。
(でも、これで、)
玖麦は息を詰めながら、師匠と思しき女性の下へと歩を進めた。
疑い半分、安堵半分。
覚悟はできたものの、きっと、連絡を取ってから待っている間は、地獄のような時間だったはず。
ならば、その時間を抹消できたことを喜ぶべき。
この状況を前向きに捉えた玖麦ではあったが、あと数歩で女性の視界に入るだろうというところで、突如として顔が向けられ、あまつさえ合ってしまい視線に、一瞬で緊張が頂点を突破して、身体がその負荷に耐え切れず動作を急停止、心臓も止まってしまった。
宇宙の彼方へ弾き飛ばされた意識が数秒間その場に漂う中、不幸にも感覚だけは身体と繋がっているようで。この肌を刺すような威圧感は、正真正銘師匠だと身体が認識した途端、意識は身体へと引き戻される。
意識と身体が合致。すれば、眼前に見えるのは、無表情の師匠。
『里を出ていい。ただ、』
兄を追いかける為に、里を出たい。
師匠に申し出れば、有難いことに、信じられないことに、許可を与えられた時、頭の中は兄のことでいっぱいになっていて、次に続けられていた言葉を聞き逃していたのだ。
しっかりやれよ。
激励の言葉で見送られた日も、やはり、兄のことでいっぱいだったので前途洋洋で旅に出たのだが、里を出てから二年が経った頃。
何がきっかけだったかは不明だが、唐突に許可を与えられた日の師匠の言葉が気になってしまった。
曖昧ながらも、確か、何か、条件が出されていたようなそうでないような。
師匠に訊く。という選択肢はなかった。そんなことをすれば、即強制送還である。
どうしよう。顔面蒼白になりながら、考えた。考え抜いた。その結果。
素知らぬ顔をしよう。連絡も取らないでおこう。
そうして、さらに二年が経ったのであった。
そうして、今に至るのであった。
(条件って、)
「今から五時間以内にこの紙に記してある毒の採取」
いつの間にやら眼前に佇む師匠から手渡されたのは、所狭しに毒の名前が書かれた一枚の紙。
玖麦は片側の口の端を引き攣らせながらも、はいと返事をした。しかし、早く行けとの無言の視線には臆さず、矢継ぎ早に翠のことを話して、力になってほしいと願い出てから、返事を聴かずに、翠に暫く傍を離れることを謝罪しながらも、師匠に話してほしいと告げて、その場を後にした。
二人から離れたところに居たが、玖麦からそう言われた翠は、不安になりながらも、師匠に近づいた。師匠もまた、翠に近づき、小さな声でも聴き取れる距離に縮まったところで、小さくお辞儀をした。
(玖麦が師匠に何を話しているのかは聞いていなかったが、確実に、わしの正体も話している。玖麦は師匠が力になってくれると言ってくれたが、どうなるかはわからないな)
不安は尽きない。けれど、逃げの一手には出ない。
(反対されようが、わしは)
玖麦に大変世話になったこと。人探しの協力の申し出。今暫くの自由を許してほしいとの懇願。
翠がそれらの言葉を発する前に、師匠が端を発した。
「玖麦はあなたを食い逃げだと思っているようですよ、翠王子」
「食い、逃げ?」
目が点になった翠は少々時間を要してその言葉の意味を飲み込んでは、正体がばれるよりは食い逃げの方がまだ幾分か、少しは、ましだろうと胸を撫で下ろしたのだが、間を置かず、王子という名称に目を見開いた。
「そなた、は」
「紹介が遅れました。玖麦の師である、ゆえの
淡々と告げた乾は素早く翠の腕を掴み、城に帰りますよと告げた。
「できない」
翠は腕を掴まれた状態のまま、毅然とした態度で告げた。
「…あなたの境遇には同情を禁じ得ませんが、そう時間はありません。王子の役目と諦めてください」
どこまで知っているのだろうか。
翠は疑問に思った。
己のことをどこまで知っているのか。
否。どこまでという程度の問題ではない。
その曇りなき瞳はすべてを知っている。
そう認識した途端、身震いが襲う。周りの長閑な喧騒は遥か遠くの世界で起きているように思えてならなかった。
独りぼっちだと、思えてならなかった。
「……研究には結構なお金が必要なんですよ」
「?」
淡々とした声音は変わらず。けれど先程の突き放したような温度とは違い、今は優しさを伴っていた。
その温もりに励まされた翠は、苦手に思える乾の両目をしかと見つめた。
すれば、遥か遠いままの喧騒にも、不思議と不安は感じない。
何がどうとは言えないが、大丈夫だと、翠は思えた。
翠から怯えがなくなったと感じながら、乾は片手の親指と人差し指で円の形を作った。
「あなたを城に連れ戻せれば、結構なお金を出してくれると、あなたの父親であり、私の憎い支援者でもある国王から言われましてね。引き受けたんですけど。玖麦が、私のかわいい愛弟子が力になってくれと懇願するものですから。仕方ないですね」
喜色満面になった翠が前のめりになって礼を告げるより先に、乾は言葉を紡ぐ。
「王子の権利を使って、研究費を上げると、今、約束してくだされば、力になりましょう。なに。微々たる金額でも構いませんよ。ただその場合、私がこの旅が微々たるものだったのだなあ、と認識するだけですから」
開いた口を即座に一文字に結ぶ翠。微々たるものではないと反論したいが、研究費は国費で出している。自分だけでどうこうできる話ではないし、そもそも。
「わし個人ができることはないか?」
今の自分は王子であって、王子ではない。王子の力は使いたくなかった。例えばそれが微々たるものでも。
「…あなた個人ができることなど、せいぜいその脚力を使った食い逃げだけですよ」
「わしは食い逃げはしない。食った分はきちんと労力で返す」
「……玖麦の推測もあながち間違いではなかったわけですね」
翠は微かな乾の溜息に、口を尖らせた。
「王子のくせにと思っただろう」
「言ったでしょう。あなたの境遇には同情を禁じ得る。と。あなたに自由に持ち出せる金がないことくらい知っています。王子としての力がないことも。それでも、国王はあなたを可愛がっていますから、あなたのお願いならば聞いてくれるのではと考えての提案でしたが」
「……あの方がわしを可愛がっているなど、あり得ない」
暗い顔をする翠を見ながら、乾は小さく首を傾げた。
「そうですか?私にはそう思えませんが、あなたがそう思うのも無理はありませんよね。今までのことも、これからのことも考えれば……そうですね。期限は一か月。玖麦の傍を絶対に離れないことが条件です」
「え?」
翠は目を丸くした。
「戻ってくるつもりでしたか?」
「…一応、は」
「ならば、私が一か月の自由は保障しますよ。とは言っても、国の妨害を止めさせるだけです。すべての危険からあなたを守ります。なんて、戯言は吐きませんよ」
「いい、のか?金は」
「よくないので、別の手段を考えますよ」
「ありがとう」
すまない。真っ先に浮かんだ言葉はそれだったが、違うだろうと頭の中で訂正した言葉を口にした。
「一か月間、玖麦の傍を絶対に離れない」
凛々しい顔もできるじゃないですか。
思ったが言わないまま、乾は玖麦には知られないようにと口にして、次いで、玖麦が戻ってくるまでの間、今までのことを聴いたのであった。
(さて、では、王子の身柄を無事に引き渡してほしければ、金を寄こせ路線に変更しますか)
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