#3 悪徳も欺瞞も見果てぬ欲も覆いつくすのはベープの煙
3-1
『
今日も当たり前のように寝坊したデミルが二階の私室から降りたときには、既に正午を大幅に過ぎていた。玄関扉の窓ガラス越しに昼下がりの陽光が差し込んでいるが、ほかに明かり取りのない店内はそれでも薄暗い。デミルは手探りで照明をつけると、次の瞬間には舌打ちしていた。
カウンターの上には空になったコーヒーカップと、細い小さな透明の筒が三本転がっている。デミルはその筒を一本ずつ摘まみ上げて、その都度鼻を寄せて匂いを嗅ぐ。そして最後の一本を嗅ぎ終えると、彼女はあからさまに顔をしかめた。
「あいつ、また上物を勝手に吸い散らかして」
デミルは三本の空の筒を握り締めると、ダストボックスに向かって力一杯に投げ込んだ。箱の奥で筒が分解されるちりっという音が響く。頭を掻きながらカウンターの表に回ったデミルは、並んだスツールに顔を向けるとおもむろに左目を閉じた。すると右の眼窩に嵌め込まれた義眼を通して、その中のひとつにまだ残っている温もりが、彼女の視覚に映し出される。
その席にはおそらく、つい先ほどまで人が座っていたという痕跡だ。それが誰かと問うまでもない。デミルが店を開ける前から平気でこの店に入り込める人物といえば、彼女以外に店の鍵を持つトビー以外に有り得ない。
『
「店を留守にするなら、せめて片してけっての」
再びカウンターの中に戻ったデミルはカップをシンクに下げると、振り返って背後の壁を仰ぎ見た。壁面の上半分には先ほど彼女が放り捨てたのと同じような筒が、棚の中にずらりと並んでいる。ガラス戸を開いたデミルはその中から一本、薄い紫色の液体が詰まった筒を摘まみ取ると、空いた手でベストの胸ポケットに刺さっていたベープ管を取り出した。
臙脂色のベープ管の、吸い口に近い筒身を親指で擦り上げると、ぽっかりと口が開く。そこに紫色の液体が詰まった筒を嵌め込んで蓋を閉じ、ベープ管を二、三度軽く振ってから、デミルはおもむろに吸い口を咥えた。
すうっとひと息に吸えば、紫色の液体――リキッドを過熱して発生した水蒸気煙が、喉から肺までを満たす。煙が通る際の喉ごしの強い、そのかわり脳味噌を包み込むような靄感は比較的控えめなリキッドが、デミルの愛用するベープだ。
やがて吸い口から口を放せば、息と共に吐き出された一塊の白煙が宙を漂う。リキッドから発生した水蒸気煙は、空気に溶け込むまで時間がかかる。天井でくゆる煙の塊を気にもとめず、デミルは棚の下の壁面に取りつけられたモニタに指を伸ばした。
淡く輝く画面上に現れたいくつもの文字列のひとつに指先を当てると、モニタの隣にあるガラス窓の中でヴンという唸るような電子音が響き始めた。その音も三十秒ほどすれば鳴り止んで、ガラス窓の把手を引けば、中にはコーヒーに満たされた白いカップが鎮座している。
カップを手に取ったデミルは、淹れ立ての香りに鼻腔をくすぐらせてから、ひと口を啜った。
ベープ・バーといっても、ベープのリキッドしか用意していないわけではない。食欲を満たしたがる客には、このコーヒーのように
もう一度口をつけてから、デミルはカップを後ろ手にカウンターの上に置く。そして反対の手に持ったベープ管を再び咥えながら、彼女はガラス戸の奥に陳列されたリキッドの筒たちを見上げた。
ここに並ぶのは全て、デミルが原材料を集めて精製し調合した、彼女の手作りのリキッドばかりである。どれも
彼女の作ったリキッドを再現出来る者は、この星には存在しない。
それはつまり、ザックが中毒に陥っていた違法ベープの出所をたぐれる者は、どこにもいないということだ。
「まったく、いつまでこんなもん作り続けなきゃいけないんだか」
昨夜『ロイヤルサロン』から引き上げてきたトビーが、疲れた顔でことの顛末を愚痴った後、彼女を睨みつけてきた目を思い返す。それはデミルが調合する違法ベープを、あまり大っぴらに流通させ過ぎるなという、彼女に釘を刺す意味が込められていた。
デミルにしてみれば心外もいいところである。わざわざ違法ベープなどを密造して売り捌いているのは、いったい誰のせいだと思っているのか。
「いつまでも
ベープ管の吸い口を噛み締めながら、誰に聞かせるわけでもない恨み言を口にした直後、不意に店の扉に取りつけられたドアベルが鳴り響く音が聞こえた。デミルは思わず肩をびくりと震わせてから、そろそろと扉に目を向ける。
もしやトビーが戻ってきたのではという彼女の予想は、だが暢気な口調の挨拶によってあっさりと否定された。
「よう、デミル。一日ぶりだね」
店の扉を開けて姿を見せたのは、細面に薄い笑みを浮かべた、赤毛に長身の青年であった。
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