第三十二話 ウィングマーク

 二度目の航空祭。


 私は去年と同じように、事前公開の日に但馬たじまさんに招待してもらった。明日は、甥っ子姪っ子達が姉達と一緒にやってくる予定になっている。今年は義兄二人と私の両親も加わることになっているので、かなりの大所帯だ。


「ねえ、本当に良かった? 団体旅行の割引ができそうな人数だよ?」

「小さな子が増えるならともかく、大人が増える分には問題ないよ」


 私のほうは、但馬さんの迷惑にならないかと戦々恐々せんせんきょうきょうとしているのに、本人は平然としている。


「でも但馬さん、展示飛行もあるから忙しいのに」

「飛ぶのは午前中で終わりだし、それさえすめば、俺もゆっくりできることになってるからね」


 そんなことを話しながら私達が向かったのは、但馬さんがいつも飛ばしているF-2戦闘機の前。


「じゃあ行ってくる。音がすごいから耳には気をつけて。それとエンジンの風圧にも。立っている場所が危ないと判断されたら、近くに立っている隊員が離れるように指示を出すから、それには従うように」

「わかってる。隊員の皆さんには迷惑をかけないようにするから」

「よろしく」


 但馬さんはそう言って、見学スペースと戦闘機がある場所を区切ったロープをまたいで、向こう側に入る。すると不思議なもので、それまで柔らかいスマイルを浮かべていた但馬さんが、急に戦闘機パイロットの但馬一等空尉になった。


「服装もなにも変わってないのに、不思議……」


 もしかしたら今のは、但馬さんの中にあるパイロットのスイッチが、ONになった瞬間だったのかもしれない。


 私達見学者が見守る中、但馬さんは立っていた整備員さんと話をしてから、機体のあっちこっちを触ったりのぞいたりし始めた。あれは飛ぶ前の点検をしているところで、整備員さんが点検をした後に、もう一度パイロットが確認をするのが決まりらしい。そして最初に話をしていた人は、機付長きつきちょうさん。あの戦闘機を整備する責任者さん、つまり一番偉い人だ。


「あ、写真、撮っておこうっと」


 両隣でシャッター音がするのに気づいて、慌ててカメラをカバンの中から引っ張りだす。但馬さんが飛ぶところは、なかなか見ることはできないのだ。貴重な瞬間を、たくさん撮っておかなくちゃ。そう考えてカメラを出すと、シャッターを切りつづけた。


 後ろのほうをのぞいているところ、足元をみているところ、そして整備員さんにリストを渡されて署名をしているところ、などなど。なにをしているかイマイチわからないけれど、そこはあとで但馬さんに教えてもらうつもりだ。


 但馬さんがコックピットに乗り込んだ。


 こうやって見ていると、飛び立つまでには本当に色々な手順があるのがわかる。よく頭の中がゴチャゴチャにならないものだと感心してしまった。


「そう言えば、無心でするんだっけ……」


 前に、体が覚えているみたいなことを言っていたのを思い出す。そこまでになるまで、但馬さんは一体、どれだけの訓練をしてきたんだろう。


 エンジンが音をたてて動き出した。周囲には物凄い音が響き渡り、これだけ近くにいると他の音はなにも聞こえなくなる。しばらくして離陸の準備が終わり、機体が動き出した。


 但馬さんが一瞬だけ私のことを見る。バイザーを上げたままになっているせいで見えている目の部分で、いつものスマイルを浮かべたのがわかった。手を振ると、但馬さんはVサインをして合図を送ってくれる。そしてそのまま、ゆっくりと滑走路へと出ていった。


 飛び立つのを待つ間に〝あ〟となる。


「……しまった。さっきの、写真に撮っておけば良かった。ざんねーん」


 但馬さんスマイルのコレクションに加えるチャンスだったのに、惜しいことをしてしまった。


 ゴーッという爆音をあげてF-2が飛び立っていく。鼻先を空に向けてまっすぐ上昇していくと、大きく弧を描くように旋回をした。会場から遠ざかって姿が見えなくなってからしばらくして、右から飛んできて機体をクルンと回しながら滑走路の上を横切っていく。


「はやっ」


 写真を撮ろうと思ったけど、早すぎて無理だった。戦闘機が通りすぎていく時に、後ろで連続したシャツターの音がいっせいにしたけど、ああやって撮らないと、とても飛んでいる写真をおさめられそうにない。


「む、これは撮影技術をみがかないとダメかも……それともいっそのこと、写真はあきらめてビデオ撮影に切り替えるか……」


 写真に撮るのをあきらめて、見ることに専念する私の前で、但馬さんのF-2は、まるでフィギュアスケートの選手がダンスを踊るように飛び続けた。


+++


 青空を縦横無尽じゅうおうむじんに飛びまわっていたF-2が、展示飛行を終えて地上に戻ってきた。滑走路に着陸すると、そのままゆっくりと元いた場所に戻ってくる。


「但馬さん、お疲れさま!」


 私のもとに戻ってきた但馬さんに声をかける。


「ありがとう。俺が飛んだところを初めて見たわけだけど、どうだった?」

「すごかった以外に、なんて言えば良いかわからない。それに早すぎてぜんぜん写真が撮れなかったの。めちゃくちゃくやしい。あんなに早いと、明日でも写真のリベンジするのは無理かも」


 正直にそう言うと、但馬さんは愉快そうに笑った。


「写真に関しては知り合いに頼んであるから、あらためてそれを見せてあげるよ。じゃあ、質問を変える。来年も見たいと思ってくれた?」

「もちろん!」


 そこは間違いない。展示飛行がどんなに難しいものか私にはわからないけれど、但馬さんが飛ばしているって分かっているだけで、他の機体より、さらにはブルーインパルスよりかっこよく見えたし。来年も飛ぶのを見せてくれるって言うなら、喜んで見るつもり。


再来年さらいねんも見たいと思う?」

「もちろん再来年さらいねんも見る!!」

「じゃあ、その次の年は?」

「うん、見る!」


 そう返事をしてから、心の中で首をかしげた。そんなに何年も連続で、展示飛行のパイロットに選ばれるものなんだろうか? 今年の展示飛行は、年明けに航空祭の日程が決まった時に、志願したってことだったけれど。


「ねえ、そんなに何年も展示飛行で飛べるの?」

「さて、どうだろうな。でも、ほなみは、ずっと見たいと思ってくれてるんだよね?」

「もちろん」


 選ばれるかどうかは別して、但馬さんが航空祭で飛ぶなら、絶対に見なきゃ。


「そうか。だったら、この先、ずっと俺が飛ぶのを見ていてくれないかな。そうだなあ……俺がラストフライトを迎える日まで、なんてどうだろう?」

「ラストフライトって、あのバケツで氷水をかけるやつ?」

「そうだよ」


 ラストフライトのバケツシャワー。それはパイロットが、パイロット人生に幕をおろす日に行なわれるイベントだ。そしてどんなに偉くなっても、どんなに寒い日でも、最後のバケツシャワーの水は、氷水と決まっているらしい。


「……でもそれって、ずっと先だよね?」

「まあ、戦闘機のパイロットが現役でいられるのはどんなに長くても、40代までだね。そこからどこまで偉くなれるかわからないけど、なにごともなく勤めあげられたら50代、かな」

「50代!」

「どう? それまで俺が飛ぶのを見続けるつもりは、ある?」


 私の周りにいた人達が、なぜか遠ざかり始めた。これって、もしかしてもしかする?


「但馬さん、そこまで長く見続けるってことは、私、ずっと但馬さんの僚機として、一緒に飛ばなくちゃいけないんじゃないかな」

「そうだね。そうなってもらうことになるかな」

「それって、つまり、私が但馬さんの人生の、僚機になるってことだよね?」


 私がそう言うと、但馬さんは嬉しそうに微笑んだ。


「パイロットらしくていいね、その表現。すごく気に入った。で、どう? 俺の人生の僚機として、ずっと一緒に飛んでくれるかい?」

「私、まだ肩もみの極意も身につけてないけど、大丈夫かな?」

「俺だって、パイロットとしてはまだ未熟で、これからも技量向上に努力することになるんだ。ほなみだって、それで良いんじゃないかな? ま、俺の肩を実験台にするのは、ほどほどにしてほしいけど」


 但馬さんが悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべる。


「私の目的は但馬さんの肩こりをなんとかしたいだけで、べつに実験台にしてるわけじゃないんだけどなー」

「わかってるよ。それで? どうかな?」


 そう言って、私に返事をうながした。


「二人で一緒に日々精進ひびしょうじん、だね。未熟者ですが、末永くよろしくお願いします!」

「こちらこそ」


 私の頭の中に、NOの選択肢は一瞬も浮かばなかった。両親にあきれられるかもしれないけど、私も自分の人生の僚機には、但馬さんしかいないって思えたから。


「でも、どうしてこのタイミングなの?」

「明日、ほなみの御両親と、初めてまともに顔を合わせることになってるから」

「どういうこと?」


 首をかしげながら、但馬さんの顔を見上げた。


「御両親と顔を合わせたら、自然とそういう雰囲気になるだろ? 俺としてはその前に、自分で状況をコントロールしたかったのさ」

「コントロール……」

「いろいろとほなみに先制されちゃってたからね。ここだけは、どうしても自分のほうから仕掛けたかった」


 戦闘機パイロットみたいな言い草に、思わず笑ってしまう。


「仕掛けたかったって、私、なにも仕掛けてないんだけどなあ……」

「そう思っているのは、ほなみだけだよ。……じゃあ、これを渡しておく」


 そう言って、但馬さんはフライトスーツのポケットから、丸めたティッシュペーパーを取り出した。


「こんな状態でごめん。コックピットに持ち込めるものは限られてて、ケースまでは無理だったんだ」


 ティッシュペーパーの中から出てきたのは、翼をあしらった銀色の指輪だった。この形、どこかで見たことがある。あ、これ、但馬さんの胸についている翼と同じ形だ。


「これってウィングマーク?」

「うん。俺の僚機になってもらうわけだからね。その証明に。こういうのは好みもあるだろうから、ちゃんとしたものはあらためて一緒に見に行こう。これはまあ、シャレみたいなものかな。……じゃあ、あらためて」


 但馬さんが真面目な顔をした。


長居ながいほなみさん、俺の人生の僚機になってくれますか?」

「はい、喜んで!!」

「ありがとう。俺もほなみにとって、最良の僚機になれるように、精一杯、努力するから」


 そう言いながら、指輪を私の左の薬指にはめてくれる。それと同時に周囲から、冷やかしやらなにやらの歓声があがった。そこで改めて気がついた。ここ、すっごい見学している人がいる場所の、ど真ん中だってことに!


「さてと。そろそろ、あっちに逃げたほうが良さそうだね」


 周囲の人だかりを見渡して、但馬さんは私にささやく。


「う、うん、そうだね……引っ込んだほうが良さそう」


 私達はそのばから、足早に立ち去ることにした。


「ま、あっちに行っても、本城ほんじょうさんが待ちかまえていると思うけど」


 歩きながら但馬さんが笑う。


「本城さん、このこと知ってるの?」

「いや。前みたいに、うっかりばらすかもしれないから言ってない。でも、あの人も俺の僚機だから。……ああ、そうだ」


 但馬さんが私を見下ろした。


「ん?」

「このこと、明日まで黙っておいてくれるかな。明日の展示飛行が終わってから、ほなみの御両親に、きちんと報告するつもりだから」

「お母さんとお姉ちゃん達はともかく、お父さんがその場で気絶するかも」


 父親も、まさかそんな報告が待っているとは思っていないだろうし。


「大丈夫。この基地には医療施設もあるし、近くには自衛隊の三沢みさわ病院もあるから、なにかあったらしっかりフォローするよ」


 冗談なのか本気なのか、その時の但馬さんのスマイルは、私でも判断つかないものだった。

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