第二十六話 朝の一コマ

「おはよう」


 片目を開けたと同時に、但馬たじまさんの声が頭の上でした。目をそっちに向けると、但馬さんがいつもの五割増しの甘いスマイルを浮かべて、私のことを見つめている。こんなふうに感じるのは、きっと昨日のことがあったからかも。


「えっと、おはようございます」

「大丈夫?」

「……なにが?」

「んー、いろいろと」

「但馬さんは?」

「大丈夫すぎて、すぐにでも離陸できそうな気分かな」


 たしかに但馬さんの笑顔は甘いだけではなく、いつもより楽しそうだ。


「すぐに離陸できそうかどうかはわからないけど、私も大丈夫だと思う」

「そっか。それならいいんだ。なにせ初めての相手となんて、それこそ初めてだったから」

「但馬さんの体験談なんて、聞きたくないですからね」


 但馬さんの年齢からして、私のほかに付き合った人が存在しても不思議じゃない。そこは認めるしとやかく言うつもりはないけど、その話を聞きたいかとなれば話は別だ。


「そう? ずっと前のことだけど」

「過去のことは過去のこと。大事なのは今です」

「たしかに。俺も過去のことより、今のほなみちゃんのほうが大事だよ」


 そう言った但馬さんに、しっかりと抱きしめられた。お互いの肌と肌がちょくせつ触れ合うのがくすぐったい。そこで、ふと大切なことを思い出した。


「あれ? 但馬さん、今日のお仕事は?」

「今日も普通にあるよ」

「え、じゃあ、そろそろ時間?!」


 外はまだ暗いようだけど、いま何時だろう?と慌てて時計を探す。


「そうだなあ……あと二十分ぐらいは、お布団の中でほなみちゃんとこうやっていられるかな」


 そう言って体を起こすと、私のことを見おろした。


「?」

「あと二十分もあることだし、もう一度、飛んでみる?」

「え?!」


 きっとその時の私は、ものすごく変な顔をしたんだと思う。但馬さんは私の顔を見て、声をあげて笑った。


「やめておいたほうがよさそうだね。じゃあ、ちょっと早いけど起きようか。朝ご飯、多分なにかあると思うよ? ああ、その前にシャワー浴びたほうがいいかな」


 そう言いながら、但馬さんはベッドから出た。そしてエアコンのスイッチをいれる。


「ほなみちゃんは、部屋があたたまっててからシャワーを浴びたらいいよ。俺は出る準備があるから、先にいってくる。……それとも一緒にシャワーを使うかい?」


 振り返った但馬さんが、悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべた。


「え?!」

「それも、やめておいたほうがよさそうだね。じゃあそれは、また次の機会ってことで」


 そう言って笑いながら、部屋を出ていく。


「なんだか起きてから〝え〟しか言ってない気がしてきた……」


 ベッドの下に落ちていた、借りたTシャツを拾い上げて身につけた。ベッドに座って、但馬さんがシャワーを浴びている音に耳をすませる。シャワーの音を聴いただけなのに、なぜか昨日の夜までは知らなかった但馬さんの体が、脳裏にポンッと浮かんだ。


「うわっ、はずかしすぎっ、なんてこと考えてるのっ、ストップストップ!」


 脳裏に浮かびあがる映像を慌てて打ち消す。自分でも顔が赤くなるのがわかる。


「こういう時は余計なことを考えないように、なにか別のことをするしかないよね!」


 自分に言い聞かせると、そのままキッチンへと向かった。余計なことを考えないようにするのは、体を動かしていたほうがいい。まずは、朝ご飯になにができるかチェックしてみよう。そう考えて勝手に冷蔵庫の中を調べさせてもらう。


「食パンに卵にチーズ、納豆に……チョコに海苔の瓶詰……あとは牛乳に野菜ジュース……?」


 もしかして但馬さん、朝ご飯しかここで食べてないんじゃ?と思うような内容だ。これならたしかに〝朝ご飯、多分なにかあると思うよ〟な状態かも。


「あ、タマゴトースト、作れるじゃん?」


 そう気づいて、準備にとりかかった。まずはお鍋にお水を入れて、コンロにかける。そして卵をその中に放り込んだ。但馬さんはいつもタマゴトーストを頼むんだから、今日だってタマゴトーストでも文句は言わないよね?


「あれ、ほなみちゃん、ゆっくりしててくれたらいいのに。朝飯ぐらい俺が用意するから」


 お風呂から出てきた但馬さんが、キッチンでゴソゴソしている私を見て目を丸くする。


「だって目が覚めちゃいましたから。二度寝なんてしたら、お昼まで寝ちゃいそうだし」

「別に、俺が帰ってくるまでいてくれてもいいんだよ? ああでもそうなると、昼飯の用意ができないか」


 冷蔵庫の中の状態を思い出しのか、申し訳なさそうに微笑んだ。


「たしかに但馬さんちの冷蔵庫の中身だと、お昼ご飯は難しそうですね。冷凍庫は見てませんけど」

「冷凍庫には、氷とアイスぐらいしか入ってないよ」

「但馬さん、もしかして甘党?」


 私の指摘に、少しだけ恥ずかしそうに笑う。


「そうかもね。でも……今はこっちの甘いもののほうが気になるかな」


 そう言って私を後ろから抱きしめると、耳の下にキスをする。


「!!」


 いきなりのことに、頭のてっぺんからつま先までゾワゾワとなった。でも、イヤじゃないゾワゾワだ。


「心配ないよ。別にキスマークをつけるつもりでやったわけじゃないから」

「なにも言ってないじゃないですか!」

「あれ? だったらつけてもいいってこと?」

「よくないです!」

「だよね」


 但馬さんの体温と石鹸せっけんの匂いにつつまれながら、お鍋の中の卵をじっと見つめる。昨日まで、自分がこんな朝をすごすなんて考えもしなかった。


「それで、なにを作るつもりでいるんだい?」


 私がこんなにドキドキしているのに、但馬さんはまったく気にする素振りも見せず、普段通りの口調で話しかけてくる。だから私も、精一杯さりげない口調で答えることにした。


「もちろんタマゴトーストですよ。但馬さんの朝ご飯といったら、これしかないじゃないですか。もちろん、お店のとまったく同じってわけにはいきませんけどね」

「じゃあ俺は、コーヒーの用意をしようか。ああ、ほなみちゃんはお茶のほうがいいのかな?」


 コーヒー以外になにか買っておけばよかったねと、申し訳なさそうに言った。


「牛乳があるので、コーヒーで大丈夫ですよ」

「了解した。あと、その卵は固ゆで?」

「はい。あと少なくとも五分はかかるかな」


 なるほどと但馬さんがうなづく。


「その後は?」

「カラをむいて、軽くつぶしてからマヨネーズと塩コショウで味つけをします。その間に、パンを焼けばいいですよね」

「それも了解した。じゃ、シャワーを浴びておいで。タマゴのカラむきぐらいなら、俺でも問題なくできそうだから」

「え、でも、あとちょっとだし」


 但馬さんがおかしそうに笑った。


「ほなみちゃん、俺はこれから仕事に行かなくちゃならない。その可愛らしいお尻と足を出したまま目の前でうろうろされたら、誘惑がいっぱいで困るんだけどな」

「あ、しまった!!」


 言われて気がついた。Tシャツのままただったことをすっかり忘れていた!


「理解してくれたようでなにより。じゃあそういうわけだから、シャワーへどうぞ」

「急いで浴びてきます!」

「ゆっくりでいいよ。俺は卵を監視しながら、コーヒーの用意をのんびりしてるから」



+++++



 朝ご飯を食べた後、但馬さんが職場に行く前に私を自宅まで送ってくれるというので、少し早めに部屋を出た。


「朝早くに追い出すみたいでごめん。次の時は、きちんとそのへんのことを考えてから誘うよ」

「大丈夫ですよ。次に誘われた時は、ご飯の買い出しをしてからお邪魔しますから!」

「つまりそれは、俺が帰ってくるまで待っててくれると?」


 但馬さんは、私の申し出に嬉しそうに微笑む。


「ただし、夕ご飯の準備は期待しないでくださいね。私もそこまで料理が得意ってわけじゃないので」

「栄養士の資格をとるぐらいだから、得意だと思ってたよ。タマゴトーストも美味しかったし」

「栄養素の知識があるのと、料理の腕はまた別物ですよ。それにタマゴトーストぐらい、誰でも作れるでしょ?」


 そりゃあ、調理実習的なものもあるにはある。だけどそれは栄養士として必要な基礎的なものばかりで、料理の上達には、あまり役に立ってくれそうにないものばかりだった。


「でも、あまりにもお粗末なのも困りものですよね。これからは母親に、簡単にものから教えてもらうようにします。私が作ったものを食べて、但馬さんがおなか壊しちゃったら困るし」


 自分の食べたいものを作るのと、但馬さんにご飯を作ってあげるのとはわけが違う。タマゴスートーストはお店のより美味しいって言ってくれたけど、それだけを作り続けるわけにはいかないし。これからは自分が学んでいる栄養学の知識を最大限に利用して、美味しいものを作れるように頑張らなければ。


「そう言えばほなみちゃんのお母さんって、たしか……学校の先生だったっけ?」

「はい。私が生まれるまでは小学校の先生をしてました。今は退職して、専業主婦してますけどね」

「そっか。……お母さん、俺と付き合うことに関してなにか言ってた?」

「べつになにも。素敵な笑顔の優しそうな人ね、ぐらいです」

「そっか」


 どうしてそんなことを急に言い出したのか分からなくて、但馬さんの顔を見上げる。


「どうして?」

「ん? いや。なにも言われてないなら、それでいいんだ。なんていうか、自衛官と付き合うことに対して、いい感情を持たない人もいるからね」

「そうなんですか? うちの母親も父親も、なにも言ってませんよ。父親は、但馬さんの仕事をちゃんと理解してあげなさいとは言ってましたけど」


 それに、と付け加える。


「父は消防士ですし、姉達の旦那さんは二人とも警察官です。仕事の内容は違うけど、皆それぞれ但馬さんと同じで、国民の生命と財産を守るお仕事です。但馬さんが自衛官だからって、いい感情を持たないなんてことはないですよ」

「そう言ってくれるのは嬉しいよ」


 但馬さんはそれ以上はなにも言わなかった。だけどその表情から、きっと今まで色々と言われてきたんだろうなというのを、ひしひしと感じる。


―― ああ、それでお母さんが先生だってのを気にしてたのか…… ――


 なんとなく、但馬さんが言いたかったことが分かったような気がした。


「少なくともうちの家族は、但馬さんにいい感情を持ってますから安心してください。それと、私は但馬さんにいい感情以上のものを持ってますよ?」

「いい感情以上のもの?」


 但馬さんが私のほうを見る。


「はい。肩こりひどくなってないかなとか、頭痛に襲われてないかなとか。あと、変な外国の飛行機に脅されてないかなとか。もうこれはいい感情以上のものですよね?」


 私の言葉に、但馬さんは声をあげて笑った。


「期待していたのと違うけど、たしかにこんな近くで、自分のことを気にかけてくれる人がいるってのは嬉しいな」

「でしょ?」


 そうこうしているうちに、我が家のある団地が見えてきた。


「じゃあ、今日はここまでってことで。階段下までじゃなくて申し訳ないけど」

「すぐそこだから大丈夫ですよ。但馬さんも今日のお仕事、頑張ってくださいね!」

「ありがとう。仕事が終わったらメールを入れておくよ。次にみたい映画の相談もあるしね」

「はい。じゃあ、行ってらっしゃい!」

「うん。行ってきます」


 そう言って但馬さんは私に背中を向け、もと来た道を引き返していく。その背中を少しの間だけ見送って、私も階段へと走った。階段を駆け上がりながら少しだけ憂鬱ゆううつな気分になる。


「二人とも寝ててくれたら良いんだけどなあ……」


 今の今まで忘れていたけど、どんな顔をして〝ただいま〟って言ったら良いのやら。こうなったらなにも言わずに、さっさと自分の部屋に引っ込んだほうがよいかもしれない。


「まさか、おねーちゃん達がいたりしないよね……」


 たとえいなくても、今日か明日には二人して押し掛けてくるような気がするのは、考えすぎかな……。

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