第37話 別れ


 あっという間に滞在期間は終わりを迎えた。

 荷造りを終え、馬車に荷物(ほとんどが後宮に来てから増えた荷物だ)を積み終わり、一時の静けさを味わっていた。


 桜妃との日常はとても楽しかった。

 女の園のいざこざに巻き込まれたり(!)、毒殺されかけたり(!?)、暗殺未遂事件の罪をなすりつけられそうになったり(!?)したが、なんだかんだで楽しかったと締めくくることができる。

 健康的な日常生活に、来たばかりの頃よりも少しばかり肉付きが良くなった体に、肌がツヤめいている自身に苦笑いをこぼす。遊郭に戻れば、また不規則な生活で体型も元通りになるだろう。


 姿見に映る自身は薄藍のスカートに白の上衣を重ね、結い上げた髪にを挿している。

 頭の天辺から足先まで、桃真の贈り物で固められていた。有無を言わさず、珀玲に着せられたのだ。文句を言う隙もなかった。眠気まなこのうちに着せられたんだもの。きっと桃真の指示に違いない。

 ――結局、返事をせぬまま後宮を去ることになった。まぁ、帰りの馬車には桃真も同乗するのでそこでひと悶着ありそうな予感がするが、何もないことを祈りたかった。むしろひとりで帰りたい。


「本当に帰ってしまわれるの?」

「桜妃様、ここは、わたしには贅沢すぎる場所でございます」


 眉を下げた桜妃が入り口に立っていた。寂しそうに唇を尖らせて、そっと歩み寄ってきた。


「……簪、よく似合っているわ。貴女の瞳とぴったりよ」

「…………アリガトウゴザイマス」

「あら、何よその顔。梅干しでも食べた顔をして」


 くすくすと鈴の声音で笑う桜妃は相変わらずおちゃめだった。


 暗殺未遂事件の直後は、ひとりで眠ることができなくなってしまったが、今はもうすっかり回復している。根の心が強いのだろう。恐ろしかっただろうに、とても気丈な女性だ。

 事件後はしばらく、毎晩主上が共寝をしてくれたようだが、それはそれで嬉しかったと頬を染めて言うのだから、本当に強い御人である。

 そうでなければ後宮で生き残っていくことも、ましてや頂点の花たる四妃のひとりになることもできなかっただろう。

 とても同年代とは思えない、強く美しい桜妃が眩しかった。


「まるで蒼様の奥さんみたいな格好ね」

「え゛ッ」

「やだぁ、うふふっ冗談に決まってるじゃない。……でも、本当に寂しくなるわ」


 そう思ってくれるだけで桃花は胸がいっぱいだった。

 天真爛漫な桜妃。才色兼備の侍女頭の珀玲や、あどけない少女の燕珠姫。麗しい主上に――花のような桃真様。桜妃に気に入られて招待されなければ一生関わることのなかった人々だ。


「本当に、ありがとうございました。桜妃様には感謝してもしきれません」

「お礼を言うのは私のほうよ。桃花さんの剣舞を独り占めしたいって思ってしまったんだもの。このまま春桜宮にいてくれてもいいのよ?」

「嬉しいお言葉ですが……わたしは帰らなければいけませんから」

「つれないわねぇ」


 小さな沈黙が流れた。どちらともなく、別れの言葉を言いづらかった。


「ねぇ、桃花さん。私ね、お願いがあるの」

「お願い? 最後に、何か舞いましょうか?」

「それも捨てがたいけれど……あのね、名前で呼んでほしいの」


 きょとんと芽を丸くした。

 桃真が羨ましくなったのだと恥ずかしそうに目を伏せて、両手を組んだ桜妃に「最後だしいいか」と軽く了承した。


梨李紗リリシャ様」

「うふふっ、様なんていらないんだけど、ここではそうもいかないものね。ずっとずっと、名前で呼んでほしかったの」

「ふたりきりのときだけですからね。わたしが主上に嫉妬されてしまいます」


 あと数刻で後宮から去るとわかっていながら、ふたりきりのときだけ、と約束をした、それは再会を祈っての言葉でもある。

 妃たちはよっぽどの特別なことがない限り、許可なく後宮から出ることはできない籠の鳥だ、再び、桃花が後宮を訪れない限り会うことは難しい。

 馬の準備ができたと使いの者が呼びにくるまでふたりは他愛ない会話を楽しんだ。




 見送りはなかなかに盛大だった。

 お世話になった春桜宮の人々はもちろん、燕珠姫まで駆けつけてくれたのには驚いた。文字通り駆けつけてきたのだ。裳をなびかせながら、パタパタと駆け足でやってきた燕珠姫が転んでしまわないかハラハラした。


「た、桃花様ぁ〜! わたくし、わたくしっ、寂しゅうございますぅっ! もう桃花様の舞を見られないと思いますと、夜も眠れませんわっ」


 瞳をウサギのように赤くして、化粧崩れも気にせずうるうるぼとぼとと涙をこぼす燕珠姫に誰もが苦笑いだ。


 彼女のほの暗い感情に気づいていながらも突き放せないのはあどけない少女のようで、光雅楼の小さな女の子たちを思い出させるから。本当なら、突き放さなければいけなかったのだろうが結局できずじまい。


「燕珠姫、」

「うわぁ〜ん! 桃花様ぁ行かないでくださいませぇ!」

「燕珠姫!」

「ふあっ!?」

「燕珠姫、よく聞いてくださいね。別に今生の別れってんじゃないんです。生きていれば必ずどこかで会えます。……ほら、主上におねだりをすればいいんですよ。わたしの舞が見たい、って。そうすれば燕珠姫はわたしに会えるし、わたしはお賃金がもらえてウハウハです」


 キリッと言い切った桃花に目をきょとりと瞬かせる。その拍子にぽろりと大粒の涙がこぼれた。


(お金だ)

(お賃金)

(結局お金なのね)


「……桃花様は、わたしに会いとうないのですか?」

「会いたいに決まっています。燕珠姫だけじゃありません。桜妃様にも、侍女の皆さんにも……烏滸がましいことですが、主上に会えなくなるのもとても寂しいです」

「じゃあ!」

「それでも、わたしは帰ります。帰らなくちゃいけない」


 僕の名前が呼ばれなかったなぁ、と思いつつも今ここでは口に出さない桃真。どうせ、帰りの馬車に一緒に乗るんだから問い詰めるのはその時でいいだろう。


 若干の寒気を感じつつ、桃花は深く頭を下げて別れの言葉を口にした。

「さようなら。お世話になりました」――これで、ほんとのほんとにお別れである。


「お手をどうぞ」

「……わたしは姫でもなんでもないので、結構です」


 差し出された手を無視して馬車に乗り込む。隣に桃真が座って、肩が触れ合う距離にちょっとだけ心臓が高鳴った。


「桃花さん、お元気で」

「桜妃様も、お元気で」


 ゆっくりと馬車が動き出す。窓から顔を覗かせて手を大きく振った。

 三ヶ月というものはあっという間に過ぎ去った。


 燕珠姫の賑やかさが懐かしく思えるほど馬車の中はしんとしていた。

 膝の上で固く握りしめられた手は、そっと上から大きな手のひらに包まれている。動いている馬車の中、狭く小さな密室では逃げ場もなく、ただただ桃花は赤くなった顔を俯けていた。


「――本当に、帰ってしまうんだね」

「ぁ、」


 トン、と肩に頭が載せられる。


「これから桃花に会えないのかと思うと、僕は寂しくて死んでしまいそうだよ」

「燕珠姫にも言ったけれど、今生の別れではないのだから」

「それでも、寂しいものは寂しいんだよ」


 するり、と指先が絡まり合い、心臓の大きな音が聞こえていやしないだろうか。ささやかに焚かれた香の匂いが鼻に移って、嫌でも桃真の存在を意識してしまう。

 何にも思っていなければ、意識なんてするはずがない。もどかしい感情に胸を焦がされる。嗚呼、もう、認めてしまえば楽なんだ。桃真のことを好いていると。けれど、その感情に恐怖しているのも事実。――あの人のようになったらどうしよう、と。


「僕は、君を裏切らないよ」


 一体、どんな顔をしていたのか自分でもわからない。痛ましいものを見る目で、そっと頬を撫でられた。

 指先が柔肌に食い込んで、唇のすぐ端に口付けられる。


「っ、桃真様、わたしは、」

「お二方、到着いたしました」


 言おうとした言葉は、御者の言葉に遮られ、喉奥に引っ込んでしまった。

 いつの間にか花街に入っていたようで、馬車は止まり、窓からは光雅楼の裏口が見えていた。


「……さぁ、荷物を降ろそうか。僕も店主殿に挨拶をしなければ」


 あっさりと、いとも簡単に離れていった桃真に唖然とする。次いでムスッと口を噤んで桃花も荷物を降ろすために馬車から降りた。


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