花街の剣の舞姫
白霧 雪。
第1話 桃花という女(23.1.8改稿)
花街にある
絹糸のような
蒼玉をはめ込んだ瞳は、空の光を映して煌めく。形の良いアーモンド型の瞳は、目尻がきりっと持ち上がり、毛並みのよい黒猫を連想させた。
女は、剣を片手に舞い踊る。
細い足首や手首に嵌めた銀の環が、しゃらしゃらと清涼な音を奏でた。
鼻から口元を覆い隠す面布が、彼女の神秘性を高めていく。隠された素顔を追い求め、男たちは揃って虜になった。
空中に投げられた剣が、円を描いく。落ちてくる剣の刃を、手のひらを滑らすように沿わせ、しっかりと柄を掴んだ。ダンッ、と踏み込むと、力強さに舞台が震え、空気すらも振動する。
女がピタリと動きを止めると、演奏は止み、静寂が場を包み込んだ。――一拍置いて、ワァッと歓声と拍手が鳴り響く。
剣を片手に、緩慢な動作で舞台から降りた桃花は、深く息を吐いて呼吸を整える。
桃花を育てたのは、光雅楼の女たち。生まれた時から遊郭という狭い世界で生きてきた。
楽器、詩歌、絵画や茶など、様々な分野に精通する女たちの下で芸事を学ぶ。当たり前のように、自身も遊女になるのだと思っていた。
「お疲れさん、桃花。今日も大盛況だったねぇ」
「
緋色の衣に、金糸で大輪の華が咲き誇る着物をまとった、匂い立つ美しい女。光雅楼で一番人気の遊女・
遊女の中でも一等上等な着物を着崩し、大きく開いた襟元は豊満な胸の谷間を強調している。結い上げた黒髪に真っ白な花を挿し、彼女そのものを表しているようだ。
美しい容姿もさることながら、詩歌や文芸に富み、太客を多数持つ光雅楼の稼ぎ頭――桃花に、剣舞を教えてくれた女性だった。
今から九年前。美美が光雅楼へやってきた。
遊郭に売られてくる子供は大体、七、八歳の年頃が多い。十二歳で光雅楼に売られてきた美美は、当時の光雅楼では異質で浮いた存在だった。
没落した武家の娘であった美美は、文武両道で見目も良く、教えたことの吸収も速かった。当時一番人気だった遊女の下に、禿としてつくことになったのも自然なことだった。
当時の桃花は物心もついていない童女であり、ほかの禿より頭ひとつ分小さかった。
禿や新造、たまに非番の遊女に遊び相手になってもらいながら、文芸やこれから必要になってくることを学んでいた桃花の遊び相手に、美美が選ばれるのも必然だった。
美美は物知りで、遊郭の女たちとは違った知識を持ち、桃花に教えてくれた。
その中のひとつが、剣舞だった。
最初はただの剣の握り方や戦い方だったのが、いつしか舞い踊ることに変わっていった。剣を握っている間は無心になれた。風を感じ、日の光を感じ、すべての生命の流れを感じることができた。
楽器も詩歌も全然だった桃花が、たどたどしいながらも、夢中になって剣を振り、踊る。
剣舞は、桃花ができる唯一の特技。
遊女としての才能はないが、手放すには惜し見目をしている桃花。
楽器をかき鳴らせば不協和音を奏で、お酌をしても性格はぶっきらぼうでつっけんどんな上に気は利かない。ただし見目が良く、密かに人気があるものだから、店側も無碍にはできず、扱いに困っていたのだ。
舞い踊る幼子の姿に才能を見出した、楼主の妻である内儀は、舞姫として育て上げることに決めた。
剣の舞姫として顔を隠し、七日に一度だけ舞台に上がる。桃花が舞えば、一夜にして莫大な金が動いた。奇しくも、内儀の思惑通り、桃花は花街で一番の舞い手となったわけである。
舞姫の隠された素顔を暴きたい。もっと彼女を見たい、もっと彼女を知りたい――欲望に素直な男たちは、桃花の剣舞を見るために金を払い、足繁く光雅楼へと通うのだ。
「お客さんは?」
「アンタの舞を見ていたわ。これから部屋に行くところ」
「待たせてるんじゃないの?」
「それくらいがちょうどいいのよぉ。それに、今日の旦那様は新規のお客様だから、そんなにすぐ行ってもねぇ……」
かすかに目を見張った。
美美は光雅楼イチの人気遊女。彼女の一晩を得るために、動く金は途方も知れない。古くから店を贔屓にしているお客か、美美に会うため毎日のように金を落としていくお客でなければ、夜を共にするどころか、顔を合わせて言葉を交わすこともできない。
彼女に新規客を当てるだなんて、どれだけの金を積まれたのだろう。今夜のお客はよっぽどの金持ちなのだろう。
――まぁ、自分には関係ないか。
桃花は興味を失い、「そう」とだけ小さく返事をした。早く部屋に戻って、休みたかった。
光雅楼の遊女には階級が存在する。
下から
客を取らず、舞うことだけが仕事の桃花は当てはまらないが、美美は最上級遊女の大華にあたった。大華の遊女を新規客に充てるなんてまずないことだが、店を切り盛りする内儀様の考えることは、桃花にはよくわからなかった。
光雅楼の楼主は大旦那だ。実質、店の手綱と実権を握っているのは、その奥方である内儀だった。遊女にとって、最も逆らってはいけない女性である。
「美美! こんなとこにいたのかい! お客様がお待ちだよ」
噂をすれば。
黒髪を結い上げ、薄く化粧を施したキツイ顔立ちの美人。
切れ長の瞳は眼光鋭く、そこらへんの若い衆にも劣らぬ負けん気。
大旦那は五十を超えるオッサンだが、内儀は三十半ばという歳の差婚。内儀も元は光雅楼の遊女だったが、大旦那が惚れ込んでしまい、結婚に至ったのだ。大旦那にどこに惚れたのかと聞いたら、「強気で勝気なところに惚れちまったのさ」と小一時間惚気を聞かされる羽目になった。
「おや、桃花もいたんだね。ちょうどいい、お前さんをご所望のお客様がいらっしゃるんだ。ついていらっしゃい」
「へっ!? な、内儀様、わたしは客を取らなくてもいいって」
「舞が素晴らしかったと、大層褒めていらっしゃったよ。話がしたいそうでね、客を取るわけでもなし、美美もつけているからいいだろう。ほら、しゃんとおし!」
バチンッ、と背中を強く叩かれて、全身が痺れる感覚に涙目になる。どんだけ力強いんだ、このババア。
「何か言ったかい?」
「イイエ、ナニモ」
大華の部屋は最上階にある。
ぐるぐると階段を登って、ようやく辿り着く豪華絢爛な部屋。部屋に着くまで、三人の間に会話はなかった。
頭の中を占めるのは「どうして? なぜ?」という疑問ばかり。
桃花は今年で、推定十六歳になる。性格な年齢はわからない。花街に売られてくる子供なんてたいていそんなもんだ。十六、七となれば、遊郭では水揚げされる年頃。まさか、と思わずにはいられない。
「旦那様、お待たせいたしました。当店随一の遊女・美美と、舞姫の桃花でございます」
月夜の描かれた襖を開き、室内へと足を踏み入れる。
「美美でございます」
はんなりと花の笑みを浮かべた美美。隣に並び、ぼけっと突っ立っていると、脇腹に肘鉄を食らった。
「いっ……! タ、桃花でございます」
舞姫と呼ばれるようになってから、座敷に上がることはなくなった。禿の頃は何度か手伝いで座敷に出たこともあるが、それも片手で数えられるほど。だって楽器も弾けなければ、客を楽しませる冗談も言えないんだもの。
遊女として立ち振る舞えばいいのか、それとも舞姫として立ち振る舞えばいいのか、どんな対応をすべきかわからない。
美美の見様見真似で頭を下げる。面布をしているから、表情を取り繕う必要がなくてよかった。
「それではどうぞ、ごゆるりとお過ごしください」
内儀が退出して、部屋の中に三人ぼっち。
新規客は、歳若い、麗しい美貌の色男だった。
遊女顔負けの艶やかな黒髪を背中に垂らし、涼やかな目元が桃花を見る。高い鼻梁に、薄い唇。薄蒼の衣を身にまとい、ゆったりと腰かけていた。
どこかの貴族か、豪商の息子だろうか。そうじゃなければ、美美を指名できる金があるはずがない。お坊ちゃんの豪遊か、とあたりをつけた。
「僕は
「桃真様、本日はご指名いただきまして、ありがとうございます。わたくし、驚きましたわ。新しいお客様につくなんて久々ですもの」
「まぁ、君を呼ぶためにそれなりに積んだからね」
何を。金をだ。
ふんわりと笑って事も無げに言う桃真は、金を使うことに慣れている御人であるのが見て取れた。
新規であろうと客は客。金さえ払えば浮浪者でもお客である。金が払えないならそれ以下だ。
金を払った(美美を指名できるほどの!)桃真は客で、それも上客になりうる客。
たぷん、と豊かな胸を揺らしてそばへ侍る美美に、ギシリと体を固くする。先にも述べた通り、座敷に上がるなんて数年ぶりだ。当時とはまた
「あらあら。桃真様がイイ男だからってそんなに緊張することないわよぉ」
「ち、違う! そうじゃない!」
「おや、僕はお眼鏡には適わなかったのか。これでも顔は良い方だと思っていたのだけれど」
「あ、そういうことじゃなくって……!」
揶揄われている。
イジワルをする姐を睨めば、「怖や怖や」と肩をすくめて鈴を転がし笑い声をこぼした。
「そうねぇ、酒でも持ってきてちょうだいな。お酌なら、アンタもできるだろう。ついでに剣も置いてきたらいいさ」
白魚の指先が指し示すまま、これ幸いと足早に部屋を出た。
桃花がいなくなった途端、香の匂いが強くなった気がした。
若く麗しい御人の胸にしな垂れかかった美美は、声に甘さを含めて囁く。
「――それで、どのような御用があってわたくしを指名したのでしょうか?」
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