第34話 独白


 空を自由に飛び回る鳥が憧れでございました。


 母はしがない商家の末娘。気が弱く、器量の悪い娘でございましたが、顔だけは良かった母を見初めた父が娶り、それなりの貴族の第五夫人となりました。

 第一夫人と第三夫人には子がおらず、第二夫人には息子が三人、第四夫人には息子が二人おりまして、わたくしは末の姫として生まれ、大層可愛がられて育てられました。可愛がるとは言ったものの、着るものは侍女たちが選りすぐり、好みの味も好きな料理も決めつけられ、習い事はお習字、お琴、お裁縫と、どこに出しても恥ずかしくない姫として礼儀礼節を躾けられておりました。


 気が弱い母でございましたので、第一夫人と第三夫人によくいびられておりました。可哀そうとは思いつつも、わたくしが口を出せばさらに虐めが激しくなるのでいつも隠れて見ていることしかできませんでした。


 朝廷ではそれなりに高官の父に連れられて、朝賀の挨拶へ兄上様たちと訪れた際――父の考えていることがようやくわかりました。

 後宮に召し上げられたのです。王の妃となるべく、わたくしは育てられました。

 九嬪の末席として入宮し、それなりに主上が夜渡りへいらっしゃいました。得意のお琴を奏でたり、食事を共にするだけの時もあれば、夜を共にすることもありました。

 主上は氷のように冴えた美貌をしておりますが、接してみれば優しく、気配りのできる男性でございました。いつしか六夫人に空きができ、九嬪の末席であったわたくしが六夫人の位を頂戴いたしましたのでございます。

 決められた恋、定められた愛をささやかながらも育んでおりました。


 わたくしにとって、転機が訪れたのは雨続きの中、晴れ間が覗いたあの日でございます。

 雨が続くと気も滅入ってしまいます。せっかくの天気ですから、外へ散歩に出かけました。けれど晴れ間も一瞬で、花園の散策途中で雨に降られたのです。雨粒を払いながら東屋に駆け込んで、侍女が急いで傘を取りに戻った後ろ姿を眺めながら、ぼうっとしておりました。


『おひとりですか? 随分と顔色が悪い。体も冷え切っているでしょう』


 蒼い官服に身を包んだ、主上とはまた別に顔の整った人でございました。射干玉の髪を雨で濡らし、頬に張り付いた髪を払いながら、わたくしのことを心配してくださる御方。誰だかすぐにわかりました。侍女たちが熱を上げている、主上の次期側近と名高い蒼桃真様。

 懐から取り出した手巾で、濡れた頬を押さえてくれる麗しい美貌の人。

 顔が熱くなるのを感じながら、されるがままに口を噤んでしまいます。


『侍女や付き人はどうされたのですか? 僕で宜しければ、棟までお送りいたしますよ。東南区画までそう遠くもありません。狭い傘で申し訳ありませんが、どうぞ、相傘をしていきましょう』


 肩が触れ合うと、蒼様の体温を感じて心臓が大きく高鳴りました。抑えきれない感情があふれ出て、喉から嗚咽がこぼれていきます。困らせてしまっている自覚はありました。けれど、こぼれ溢れる涙を抑えることなんてできなかったのです。

 右も、左も、敵だらけ。父の元から離れ、少しは楽に呼吸ができるかと思えば、父の息のかかった侍女たちが目を光らせ、背筋を緩ませることもできません。たったひとりの時間だったけれど、それが余計に息を詰まらせました。


『――大丈夫ですよ。今は僕しかいません。雨がすべてを流してくれるでしょう』


 後宮ここに来て初めて、裏表のない優しさに触れたと感じました。侍女が来るまで、そっと側に寄り添ってくださり、わたくしの心はころりと転がり落ちてしまったのです。


 主上に伴って後宮を訪れることもあれば、ひとりで花園を散策している蒼様。初めは遠くから見つめているだけでだったけれど、いつしか溢れた感情のままに声をかけ、触れ合いたいと思ってしまうようになったのです。

 それでも我慢できたのは、蒼様がすべからく平等であったからにございます。

 けれど、あの日――花街から剣の舞姫がやってきてから、蒼様は変わられてしまった。舞姫に、桃花様に贈り物をしては足繁く彼女の元へ通い、見たこともない満開の笑みを花開かせるのです。

 言葉を交わすだけで、同じ空間にいるだけでよかったのに、彼女ばかり贔屓されているのを見てしまっては、平穏を保っていた心が憎悪の炎に焼かれ、羨ましく、妬ましく、嵐に荒れ狂いました。


 あの時のわたくしは平常ではなかったと言っても過言ではありません。――いいえ、これは言い訳でございます。父の戯言に耳を傾け、兇者を手引きする手助けをしてしまいました。裏門の、小さな扉の栓を抜き、桜妃様の侍女を買収して香炉を置かせました。

 出世に、野心を抑えきれなかった父は、投獄されることでしょう。死罪にならなかっただけ、幸というものです。


 不思議と、心は晴れやかでございました。桃花様への醜い嫉妬がなくなったかと言われれば嘘になりますが、蒼様にとって、わたくしはそこらへんの雑草と一緒なのだと実感してしまったのです。だって、あんなにも桃花様のことを恋しいと、愛おしいという目で見ているのを見てしまえば、諦めがつくというものでございます。

 父は十年の求刑とされ、投獄されます。わたくしは目をかけられ。お咎めなしで後宮を去ります。


「挨拶くらい、していくものかと思っておりましたのに」

「――葵妃様」

「御機嫌よう。門出にぴったりのよいお天気ね。まったく、貴女ってばもう少し役に立ってくださるかと思っていたのに、わたしの買いかぶりだったのかしら」


 夜の闇を垂らした黒髪を広げ、艶やかな紅色の姫君は扇で口元を隠しながらひとり佇んでおられます。侍女も連れず、出不精の彼女にしては珍しいと目を瞬かせれば、不満そうに鼻で笑われてしまいました。


「せっかく、舞姫さんが手に入ると思ったのに、残念だわぁ。貴女、厄介に引っ掻き回してしまうんだもの……。まぁ、貴女ひとりいなくなったところで後宮は変わり映えなんてしないのだけれど」


 台無しだわ、と憤る彼女に息が詰まります。わたくしひとりの力では、門の栓を抜くことも、桜妃様の侍女を買収することもできなかったでしょう。

 深い紅色のスカートを翻して、踵を返した彼女は「お気を付けていってらっしゃいな。ご健勝をお祈りしているわ。さようなら」と告げて去っていきます。遠くなる背中を見つめながら、止めていた息を吐き出しました。

 主上が、蒼様がこのことに気づくかどうかわかりません。葵妃様はな御方でございますから。


「――さぁ、行きましょう。これから忙しくなりますわ」


 空を、高く遠い空を鳥が飛んでいます。羽を大きく広げて、自由に空を飛ぶ鳥がわたくしは羨ましかったのです。



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