第8話 桃真


「いつまで不貞腐れてるのよぉ。王宮にお呼ばれなんて、滅多にない機会なのよぉ? もっと喜んだらいいじゃない」

「……だって、」


 わたしは行きたくなかったのに、と口の中でだけ呟いて、口紅要らずの赤い唇を尖らせた。


 桜妃の賓客として招かれる桃花は、手荷物ひとつで王宮を訪れるつもりだ。寝間着と普段着を二着ずつ。あとは全部、剣舞で使う衣装や装飾品や化粧道具。もちろん、愛剣も忘れずに持っていく。舞い手として招かれるのだから、それらは必需品だった。

 春の間、後宮に滞在することになってしまった(非常に不本意)桃花タオファの日用品の類は全て桃真が用意してくれるとのことだ。なぜそこで桃真とうまが出てくるのかと言えば、本を正せば光雅楼の女たちを舞踏会へ招待したのが桃真であり、それなら最後まで桃真が桃花の面倒を見るべきだ、と言ったのはみんなの姐さん・美美メイメイだった。


 大華には及ばずとも、七日に一度の舞台で半月はんげつ以上の稼ぎを出す桃花は六畳の一人部屋を与えられている。大華ともなれば広々とした一人部屋、半月は二人から三人、小雪しょうせつは四人から六人部屋で、それ以下の禿や新造は中座敷に十人詰め込まれた雑魚寝部屋だ。

 店の裏に遊女たちの住まう棟があり、非番の遊女たちは茶を挽いたり、煙草をふかしたりしている。


「あ、ほら、若様がお迎えに来たみたいよぉ」


 煙管をふかす美美の言葉に、ひとつしかない窓から外を覗く。

 わざわざ店の裏につけられた馬車から降り立つ色男に溜め息を吐く。あのまま居られたら、遊女たちが気づいて騒ぎ出しかねなかった。


「溜め息を吐くと、幸せが逃げてしまうのよぉ」

「なにそれ」

「昨日のお客が言ってたの。溜め息と一緒に幸せも吐き出してしまうんですって。吐き出すのは精だってのに何言ってんだかねぇ」

「まだ朝なんだけど、下の話はやめてよ」

「花街に朝も夜も関係ないわよぉ」


 幸せなんてとっくに無くなっている。花街にあるのはひと時ばかりの夢幻だけ。いつか身請けされることを夢見る遊女もいるが、身請けされた先が幸せだとは限らない。


「アンタ、頭だけで帰ってくるなんてことはやめてよね」

「冗談じゃない。……夏には、戻るから」

「そ、ならいいわぁ。――気を付けて、行ってくるのよ」


 ポンポン、と頭を撫でられ、美美に見送られて部屋を後にする。禿の子に、たまに部屋の掃除をするように頼んで玄関先へと向かえば、姐様たちに大人気の色男が佇んでいた。

 これから出仕のため、深い蒼を基調とした官服に身を包んだ桃真は、そこに立っているだけで品があり、絵師に肖像画を描かせて売りさばきたくなる美貌だった。若い娘からおば様まで、幅広く人気が出るに違いない。


「お待たせしました」

「――、」

「……桃真様?」


 桃花の顔を見るなり、ぽかんと口を開いて目を真ん丸にした色男はどんな顔をしても色男だった。きっと寝起きのむくんだ顔すら輝いているのだろう。なんてムカつく野郎だ。


「今日は、面布をしていないのかい?」

「あれは衣装の一部なので。普段は付けてませんよ」

「……想像していたより、ずっと可愛らしい顔立ちで驚いた」


 惚けて、顔を凝視される。

 やっぱり面布をしてくればよかった。


 後宮に舞い手として招かれるとあって、舞い衣装ほど華美ではないものの、簡素だが上品な服装に、姐によって化粧を施された顔を晒しているのは少しばかり恥ずかしさがあった。

 白粉いらずの白い肌に、凹凸のある目鼻立ち、唇は紅を塗ったかのように赤く瑞々しい。顔を隠さずとも十分人気の出るだろう少女の面立ちに、何よりも美しく煌めく蒼い瞳に映りこむ自身が羨ましかった。大事に大事にしまってしまいたくなる不思議な魅力のある瞳に、心臓が早鐘を打った。


「行かないんですか?」

「君があまりにも可愛らしいから、見惚れてしまったんだ」

「そういうの、誰でもかんでもに言ってるんですか? わたしなんかより、姐さんたちに言った方が喜びますよ」


 褒められなれていない桃花は、ぶっきらぼうに呟いた。姐さんたちに比べれば、わたしなんて可愛げのないちんちくりんな小娘だ。どこをどう見て見惚れたんだか。見る目ないんじゃないだろうか。もしくは節穴か。


 ごく自然な動作で桃花の手荷物を預かり、手を取って馬車に乗せる。

 馬車の中は桃真の焚いている香の匂いに満ちていて、どことなく落ち着かない気分になる。椅子には綿の詰まった座布団が敷かれており、居心地は大変良いのだが、なんだかソワソワしてしまう。


 桃花の桃真に対する印象は、底知れぬ深い夜を笑顔で覆い隠す男だった。ただ、舞を見ているときだけは暗い瞳はきらきらと輝かせて、まるで流れ星を見つけた童のような表情に変わるのだ。

 甘い言葉を囁くが、それが本心だとは思わない。剣舞で演じ、踊ることを得意であると豪語するだけあり、気づいたら人の演技を見破れるようになった。桃真は八割が仮面を被った嘘つき野郎だ。けれど、「可愛らしい」と浮かべた笑みは、どうにも演技には見えなかった。


「君は桜妃様の賓客ということで、桜妃様の所有する春桜宮しゅんおうきゅうの客間で過ごしてもらう。基本的には内廷のみで行動をしてほしい」

「わたしも、何かない限りは外に出ることはないと思うので、それは大丈夫かと」

「おそらく、たぶん、いやきっと! 散歩好きな桜妃は君を連れまわすだろうから、気を付けてもらいたいんだよ。君が滞在すると決まってから、やたら張り切っていたというか、気分が高揚しているようでね」


 はぁ、と額に手をついて溜め息を吐いた桃真に「あ」と声が漏れる。


「どうかした?」

「いえ、別に大したことじゃないんだけど……」

「それが大きな問題に繋がることもあるからね。なんでも言ってくれ」


 ちら、と視線をさまよわせて、姐から聞いたばかりの言葉を口にした。


「溜め息を吐くと、幸せが逃げていくんですって」


 ぱち、と目を瞬かせた桃真は苦笑いをこぼした。


「じゃあ僕は、もう一生分の幸せを逃してしまっているのかも」

「そんなに苦労してるんですか」

「どこかの誰かさんのせいでね。本当にだよ……。……――君が、お茶に付き合ってくれたらその幸せも戻ってくるかもしれないなぁ」


 思わず胡乱な目つきで彼を見てしまった。

 毛虫を見るような目で見られてなお、爽やかな笑顔を崩さない桃真は精神的強者である。狸や狐だらけの朝廷でやっていくにはそれくらい強かでなければ今頃心を病んで地元に帰っていたことだろう。


「だから、そういうのは姐さんたちに言ってくださいってば」

「僕は君がいいんだよ、タオファ」

「……こういう時だけ名前呼びすればいいって思ってるんだろ。その手には乗らないからな。あと、発音が違う。タ・オ・ファ、だ。桃の花と書いてタオファ」


 だんだん面倒くさくなって、気づけば敬語も取っ払ってしまっていた。恭しい貴人になんて口の利き方だ、と多方面から怒られそうだが、馬車の中にふたりきり。もともと敬語なんて性格じゃなかったんだ。

 いつしか座敷に出されないようになった原因のひとつでもある。どう頑張っても、被った猫がすぐにはがれてしまうのだ。舞っているときはいくらでも演じられるのに、舞台を降りれば仮面が外れてしまう。女らしい遊女たちに囲まれて育ったにも関わらず、性格はぶっきらぼうで口調もそっけない。気に入らないことがあれば拗ねてしまう子供っぽさ。だから桃花は舞台上でだけの舞姫だった。


「桃花……。あぁ、なんだかしっくり来たよ。君も桃の名前がついていたんだね。僕も桃の字がつくんだ。桃に真実の真で桃真。ふふっ、お揃いみたいで嬉しいよ」


 くふくふと笑う桃真はどこからどう見ても麗しいかんばせで、美しい姐たちとは違った造形美に落ち着きかけていた背筋がまたソワソワし始めた。

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