第15話 賓客
後宮の妃たちの宮を訪れるのは王としての立派な責務である。春桜宮にばかり行っているように思えるが、しっかりとほかの三宮も巡っているのでなんら問題ない。
天真爛漫な
最も可能性があるのは三日に一度の夜渡りがある葵妃と、それに次ぐ桜妃だ。六夫人であれば、こうしてのんきにお茶を飲んだりはできないだろう。真昼間から裸体を絡めあっていたことだ。こうして優雅にお茶を楽しめるのも、桜妃としての余裕の表れだった。
近頃は、桜妃の賓客という物珍しい存在に、葵妃よりも夜渡りが多い。喜ばしいことだった。
外の者を招き入れることに侍女頭の珀怜は難を見せていたが、ひと月も過ごせば自ら進んで桃花のお世話をするほどに。もちろん、第一優先は主君たる桜妃だが。
「彼女は酷く、曖昧な存在だな。まるで地に足がついていない。桜に攫われてしまいそうだ」
「主上もそう思いますのね。私も、気づいたらいなくなってしまうんじゃないかと不安に思うんです」
春桜宮にて、桃花の評判は上々だ。表情が薄く、ぶっきらぼうなところもあるが、礼儀礼節をきちんと弁え、なによりも美味しいものを食べたときに固い表情を緩めて「おいしい」と笑みを綻ばせるのだ。
薄味を好むようで、最近は侍女たちが茶菓子づくりに没頭しては、桃花にあげているのを見ると、餌付けされている猫のようだった。
「剣舞しか自分にはないと言うんです。口下手で、表情も豊かとはいえないけれど、教えたことは一生懸命にこなすんですのよ。同年代というよりは、人見知りの童を相手にしているような気持になります」
「裁縫を一緒にやっていると聞いたが」
「えぇ、主上に差し上げる手巾を刺繍していましたの。桃花さんも、珀怜に習いながら桃の花を縫っていましたわ。ふふ、きっと、蒼様がお知りになったら欲しがるでしょうね」
「あれは見ていて非常に愉快だ」
「昔からモテるくせに、他人の好意には鈍感でしたから」
懐かしい。三人で城下町へと繰り出し、買い食いをしたのは良い思い出だ。自分の足で街中を歩くのはとても難しくて、大変疲れた記憶がある。結局最後は、
「失礼いたします。蒼様と桃花様が御戻りになられました」
「そうか。なら四人で茶にしよう」
「
礼をして給湯室へ向かう侍女を見送り、珀怜は追加の椅子を用意する。
「失礼いたします。主上、桜妃様」
「……失礼します」
ふたり揃って入ってきたが、どこか様子がおかしい。桃花は視線をさ迷わせて落ち着かないし、桃真はいつも通り笑みを浮かべているのに醸し出す空気が凍え切っている。桃花の手首を掴んで離さないのにも目を丸くした。
「どうした。何かあったか?」
「えぇ、ありましたとも。主上、桃花は桜妃様の賓客ですよね? その方を侮辱するということは、桜妃様への侮辱にあたるのではないかと僕は考えるのですが、どうお考えでしょうか?」
その一言で、何があったのかを察した王は、目元をキツく眇めて「怪我は」と短く問うた。
「ありません。僕が間に入ったので」
大事になりそうな予感に桃花は溜め息を吐きたくなるのを無理やり飲み込んだ。
「あの、桃真様がかばってくださったのでわたしは怪我もありませんし、こういうのには慣れているので」
花街にいれば、やっかみなんて日常茶飯事だ。
光雅楼の舞姫として人気が出始めてからは嫌がらせも多々あった。客を取られただの、内儀に贔屓されているだの、陰口も多かった。大華の
気が強くて、自尊心の高い遊女だった。近頃は月に一度客を取れば良い方で、滅多に部屋から出てくることもなくなってしまった。病に臥せただの、気が狂ってしまっただのと、密かに囁かれているが真偽は定かではない。
彼女の嫌がらせに比べれば、侍女たちの嫌がらせなんて些細なものだった。実害がないのだから、かわいいものだ。
「……慣れるものじゃない。慣れちゃいけないことだ。僕が間に入らなかったらどうするつもりだった? 受け身も取らず、甘んじて受け入れるつもりだっただろう」
眉根を寄せ合わせ、心配を浮かべた瞳に困惑する。
それの何がいけないのだろう。下手に抵抗しては、相手が逆上して火に油を注ぐことになりかねない。それならば一発ぶたれておいた方が後から言い訳もしやすいだろう。先に手を出してきたのはあっちなのだから、正当防衛としてやり返してもいいはずだ。
おとなしい見目の桃花が、まさかやり返すことを考えているだなんて思いもしない桃真は、純粋に心配をしていた。
先に披露した天女の舞で、浮世離れした演技を見たのもある。ひらひらと衣装をたなびかせ、瞬きをする間に桜に攫われてしまいそうな舞に、無性に胸の奥を掻きむしりたくなった。
初めは、ただのお気に入りの舞い手だった。つい毎週通ってしまうくらいには気に入っていた。通っているうちに、彼女の虜になってしまったのだ。遊女とその客という枠を超えた関係になりたいとすら思ってしまった。
後宮に滞在するとなって、一番喜んだのは自分だろう。主上にくっついて春桜宮を訪れれば桃花がいるのだから。
武闘会での、あの気の抜けた笑みを見た瞬間、心を鷲掴みにされた。美しい舞姫――僕の舞姫。彼女が傷つくなんて、考えたくなかった。自身の身を顧みない彼女が許せなかった。
「でも、所詮わたしは花街の一遊女でしかありません。後宮にお勤めされる侍女に敵うものでは……」
「違うわ、桃花さん。貴女が遊女であろうとなかろうと、私の大事な大事なお客様なのよ。いくら姫に仕える侍女であろうと、貴女を
椅子から立ち上がった桜妃は、常なら花の笑みを浮かべている
ささくれひとつない滑らかな、お姫様の手。剣舞の稽古でできたタコや、節くれだった手が恥ずかしくて、白魚の手から引き抜こうとしたのを力を込めて止められる。きゅ、と柔く握られた手を胸元に引き寄せられて、言葉に詰まった。
「心配くらい、させてください。私のお客様ということは、私の庇護下にあるということです。桃花さんが嫌がらせを受けているなんて、知らなかった私を責めてください。ごめんなさい。申し訳ありません。不自由をさせないと言ったのに、抵抗もできなかったでしょう。――もう、そんな目には合わせないので、安心してください」
キリ、と瞳に強い意志を秘めた桜妃に、曖昧に頷くことしかできなかった。
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