第30話 蝶の夢
おとなしく席に戻った
歪んだ表情に、唇を噛みしめる。そうしなければ、枯れたはずの涙が溢れてきそうだった。
「桃花さん、宮へ戻りますか?」
「……すみませんが、そうさせてもらえると、助かります」
ぎゅ、と握りしめた
眠って、感情を零に戻して、そうじゃなければ息すらできそうにない。
盛り上がる宴席を背に、ひっそりと春桜宮へ戻る。護衛の衛士は物言わずに後ろをついてくる。
桃真のことが恋愛的な意味で好きかと言われれば、好ましい方であると答える。面倒くさいと思うこともあれど、好青年であると思う。贈り物は少々度が過ぎていると感じるが、どれも桃花好みで、素直に嬉しい。
つい気が抜けると、口調が素に戻ってしまうのも桃真に絆されつつあるからだ。
恋は怖い。溺れると後戻りができなくて、息ができなくなる。
愛は恐ろしい。感情に支配されて、独りで生きていられなくなる。
髪を梳く指が、ふと耳に触れると気恥しくて目を合わせていられない。頬を手のひらが撫でると、顔が熱くなって落ち着かない気持ちになる。
これが恋か、と言われれば、桃花は頑として「否である」と答えるだろう。――御伽噺の天女のようにはなりたくなかった。一時のぬくもりを感じてしまえば、後戻りができなくなる。
「――ここまでで大丈夫です。わざわざありがとうございました」
一言も発することなく、礼をして踵を返した衛士に嘆息する。にこりともせず、むつっと口を引き結んだ彼の観察するような目がなんだか気味が悪かった。
妃や姫君たちのいない後宮は酷く静かだ。居残りの侍女や宦官たちの潜められた声が時折聞こえるくらいで、桜がささめく音すら聴こえてきそうだ。
目と鼻の先を蝶の翅がかすめていく。黒に黄色の模様の入った黒揚羽は、春桜宮では見ない蝶だった。たゆたう翅に誘われるまま、ふらり、ふらりと足を進める。
夢を見ていた。わたしは蝶で、あの人が遠くにいる。ふわふわの猫っ毛を揺らしながら、ゆっくりと足を進めるあの人は猫のようだった。景色は春から夏に、秋に、冬に変わって、四度季節が巡った頃、ようやくわたしは――桃夜に追いついた。
翅が腕に変わり、脚が足となり地面を踏みしめ、唇が音を紡ぐ。
足を止めた桃夜が振り返り、指先が触れるその瞬間――ぱちん、と夢が弾けて消えた。
――気が付くと、暗い客間の寝台に寝間着で寝転がっていた。いつの間に部屋に戻って来たのか、どうやって着替えたのかすら記憶にない。
ハッとして、頭に手をやる。するりと絹糸の黒髪が指先を滑って行った。夜目は利く方で、暗がりの中、走らせた目が鏡台の前に蒼い簪があるのを認めて短く息を吐きだした。返さなくては、と思いながらも簪に気を取られている自分自身に呆れてしまう。
よほど疲れていたのか、眠ってしまっている間に窓の外は真っ暗な闇に包まれている。
侍女たちも気を使って、夕食に起こさず寝かせてくれていたのだろう。卓子の上には皿に乗ったおにぎりが二つ置かれていた。かすかに温かく、作られてからそれほど時間も経っていないのだろう。
「……
椅子を引いて座り、綺麗な三角おにぎりにかぶりつく。塩が効いていて空腹を訴える胃にはちょうど良い味だった。自分自身で思っていたよりもお腹が空いていたのか、ぺろりとひとつ食べてしまう。
おにぎりは好きだ。まだ舞台に立つ前の頃、いくら練習しても上手くいかない時期があった。大部屋の隅でひとりでうずくまっていると、
塩のついた指を舐め(内儀や侍女の誰かがいればお行儀が悪いと叱られそうだ)、そこでようやく部屋が暗いままだと気が付いて燭台に明かりをつける。
橙色の火に照らされた部屋は静寂を保っており、闇に包まれた窓の外も相まって、いまだ夢の中にいる心地だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます