第31話 刺客


 かすかに、甘い匂いが鼻をつく、遊郭で散々嗅ぎ慣れたお香の匂いだ。眠りの浅いお客様の部屋に焚く、睡眠を促す香である。ふと、静かすぎる後宮内に胸騒ぎがした。

 ただ、誰かが眠れずに香を焚いているだけならいい。けれど、それだけなら客間まで匂いが届くはずがない。侍女たちの部屋は応接間を挟んで反対側にあり、匂いが届くはずがなかったのだ。


「……」


 不穏な気配に、壁に立てかけていた愛剣を手に、扉を開けてこっそりと廊下を覗き見る。しん、と音の落ちた廊下に人影はなく、うす暗い闇が漂っている。

 愛剣の刃は間違って人を傷つけないように潰されており、殺傷能力は皆無だが、殴りつけることくらいはできるはずだ。剣舞の元となる、剣の扱い美美に習っている、いざとなれば相手取ることもやむを得ない。

 女は度胸、と自らを奮い立たせ、舞いの足遣いで音を立てずに廊下へと体を滑り出した。


 摺り足で、なるべく足音を立てずに廊下を進み、応接間にたどり着く。徐々にお香の匂いが強くなり、白くたゆたう煙すら目視できた。口元を袖で押さえながら、窓や出入り口を開け放ち、室内に停滞する煙をできるだけ外へと逃がした。

 不気味なほどに静かな宮内に、不安が大きくなる、静けさの中、息をしているのが自分だけで、ひとりぼっちで世界に取り残されてしまったかのようで、まるで土の中に埋もれた幼虫みたいだった。


 桜妃の安否を確認した方がよいかと、宮の奥へ続く廊下へと足を進める。どんどん匂いは強くなっていき、桜妃の私室の前まで来ると霞が勝っているようだった。


「……桜妃様、いらっしゃいますか」


 トントン、トントン、と扉を叩き、声をかける。


「桜妃様、わたしです、桃花です。いらっしゃいますか? ……入ってもよろしいですか?」


 しばらく待って、返事はなかった。

 王の妃の寝室に勝手に入ってよいものかと思案して、扉に耳を当ててみる。物音を一切聞こえず、侍女たちを連れてきた方がよいと判断して、踵を返した。その直後。


「きゃぁぁぁッ!!」


 劈く悲鳴と、何かが落ちる音がして、桃花は扉を蹴破っていた。


「桜妃様ッ!!」


 真っ白い煙でいっぱいの室内、扉を蹴破ったことで一気に煙が流れ出し、黒い影を二つ捉えることができた。床にうずくまっている小柄な影が桜妃で――細長い何かを振りかぶった影は、桜妃を害する兇者ころしやだった。

 真っすぐに振り下ろされた細長いそれ――剣を、桃花は体を滑り込ませて受け止めて、力の限り大声で叫んだ。


「誰か!! 桜妃様が危ない!! 誰か来てッ!!」


 ギリギリと刃が悲鳴を上げて、力で押し負けそうになる。


「た、桃花さんなのっ? 誰かぁ! 来てちょうだい!!」

「くっ……! 桜妃様っ、お逃げくださいっ」


 刺客は桃花よりも体格が良く、力も強い。男だろう。煙が晴れれば、はっきりと顔を見ることもできたが、今で室内は白く曇っている。


 宮の外が騒がしくなる。夜警の宦官や衛士たちが悲鳴に気づいたのだろう。バタバタと騒がしい足音が近づいてくると、刺客は一転して身を翻し、窓から飛び出していった。すぐに後を追おうと窓から身を乗り出すが、ぎゅ、と腕を引かれて足を止める。


「桃花さん、桃花さんッ、怪我はない? 大丈夫なの!?」

「お、桜妃様、兇者を追わないと、」

「ダメよ!! 危ないわ!! いえ、違うの、そうじゃなくって……桃花さん、助けてくれてありがとうございます」


 そう言って、胸に手を引き寄せた桜妃は、かすかに震えていた。気丈に、いつも通りを装おうとしても、まだ十七歳の少女だ。寝込みを襲われて、恐ろしくないはずがない。ひとりにしないで、と言われているようで、桃花は掴まれた手をそっと握り返した。

 衛士たちが来るまで、桃花は桜妃に寄り添って、恐怖を拭ってやることしかできなかった。


 あと一歩遅ければ、桜妃は殺されていただろう。舞以外でも役に立つことができた、と不謹慎ながらに思ってしまった。

 だからまさか、桜妃暗殺の容疑者のひとりに数えられることになるだなんて、思ってもみなかったのだ。


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