第32話 嫌疑
春桜宮は騒然とした。四妃のひとりである桜妃が未遂とは言え暗殺されかけたのだ。
宮内は睡眠効果のあるお香が焚かれ、侍女たちは皆深く寝入っていた。侍女たちが目覚めたのは朝日の光が差し込んでから。目覚めて、事態を知った侍女たちは顔を真っ白にして桜妃の安否を確認していた。
桃花が意識を保っていられたのは、遊郭で嗅ぎ慣れたお香であり、桜妃は純粋に薬の類に耐性があったのだ。
昨夜は新月で、夜の闇に乗じて姿をくらませた兇者の姿を目撃した者はいなかった。
「――その兇者というのは、桃花様ではありませんの?」
え“ッ、と蛙の潰れたような声が喉から飛び出す。
謂われ無い疑いの言葉に目を見張り、声を発した姫君を見た。
真っすぐな黒髪を背中に流し、背の高い侍女に支えられたつんけんとした顔立ちの姫君は、桜妃の下につく六夫人のひとり、世羅姫だった。
色素の薄い瞳には、嫌悪や疑いが色濃く映し出され、桃花を見据えている。
「なんてことを仰るのですか、世羅姫! 私は、桃花さんに助けられたのです! 誰も助けが来ない中で、桃花さんだけが身を挺して助けてくださったのよ!!」
「それがおかしいと言っているんですわ、桜妃様。どうして、侍女も宦官も深く寝入っていた中で、桃花様だけがはっきりと意識を保っていられたのでしょうか?」
世羅姫は、桃花が桜妃暗殺の首謀者であると言っている。
助けてお礼を言われるならいざ知らず、まさか疑惑をかけられるだなんて思いもしなかった。
春桜宮の応接間には、東南区画に住まう姫君たちと、主上、――そして桃真が集まっている。
暗殺未遂事件は大っぴらにされず、区画内のみで情報が留められていた。明らかに桜妃を狙った犯行であり、情報を拡散して後宮内を混乱させるわけにもいかない。
後宮内では強く気高く美しくなければ生き残ってはいけないが、繊細で儚い姫君もいる。そんな姫君が暗殺事件だなんて耳にすれば卒倒してしまうだろう。
公にしないと言う主上に、桜妃が同意を示したのは今回の暗殺未遂に乗じてさらなる兇者が送られてくるのを防ぐためだ。
室内はしんと静まり返り、桃花に視線が集中する。どの視線にも疑いの色が滲み出ていた。唯一、桜妃側の侍女たちが困惑した表情であり、桃真が感情のない顔でいたのが救いだった。
桜妃は混乱しており、兇者の姿をきちんと目にしていない。桜妃が暗殺者ではないという確証は得られなかった。
「わたしには桜妃様を殺す意味がありません」
「そんなの、どうとでも言えることでしてよ。報酬だとか、養子にしてもらうとか……そう、桃花様は花街の生まれでしたわよね。花売りは、陽の出ている間はお店からは出られないと聞いたことがありますわ。貴女のような卑賎な方は、自由になるためにはどんなことでもするのでしょう?」
「貴女ッ、言っていいことと悪いことが……!」
怒りに顔を真っ赤に染めた桜妃の、振り上げた手を掴んで引き留める。
花街にいれば、心無い言葉を投げられることが多い。卑賎な、と言われても「仰る通りです」と頷けてしまう。
「桃花さんっ、どううして」
「いいのです。実際、わたしは卑賎な身の生まれ。世羅姫様の言うことに間違いはございません」
世羅姫の中で、桃花が暗殺未遂の犯人であると決めつけられていた。
ほら、とでもいうかのように口角を上げ、言葉を発しようとした世羅姫をさえ遮り、静かに音を紡ぐ。
「けれど、いくら金を積まれようとも、わたしが桜妃様を害することなどありえません。春桜宮での生活は、きっと、普通に生きていては体験できないことが多かった。毎日、美味しいものを食べて、夜はゆっくりと眠れ、好きな時に好きな舞を踊ることができる。花街生まれを不幸とは言いません。けれど幸せとも言えません。自由を求めていないと言えば嘘になる。――けれど、わたしは花街に生まれたことを嘆きません。花街に生まれなければ、きっと、わたしは桜妃様とも出会うことがなかった。神に誓って言えます。わたしは、桜妃様を殺そうなどとしていません」
透き通った声は静かに広がり、聞く者の心に訴えかけた。桜妃に感謝はすれど恨みなどない。
ここまで来てしまえば、いつ首と体がおさらばするかわからない。ならいっそ、心の内を開いてしまった方が気持ちが楽だ。
言い切って、短く息を吐きだした桃花に、黙って事を眺めていた王が口を開いた。
「――神に誓うということは、余に誓うということでよいか?」
「王は神に等しく貴い御方でございます。そのように捉えていただいてかまいません」
「ッお待ちくださいませ、主上。桜妃様を暗殺しようとしたものが同じ後宮内にいるだなんて、怖くて昼も出歩けませんわ! また、企てるかもしれぬ者を、桜妃様と同じ春桜宮に留め置くというのはいかがなものでしょうか」
「……では、僕の邸に滞在させましょう。監視役を申し出ます」
「そ、蒼様!?」
難しい表情をしていた顔にパッと笑みを浮かべ、ここぞとばかりに口を挟んできた桃真。どうしてここにいるのかはわからないが、大方主上に連れられてきたのだろう。ただ黙って事を眺めているだけの男じゃないのはわかっていたが、まさかそう来るとは思わなかった。
世羅姫は桃真が口を挟んできたことに目を見張り、顔色を青くさせて口ごもっている。
「あぁ、お前の邸なら警備もしっかりしているし良いではないか。疑いが晴れぬまま帰すわけにもいかないからなァ」
愉悦に歪んだ瞳に映し出された桃花は、盛大に頬を引き攣らせていた。
拒否権などあるわけがなく、桃花の蒼邸滞在が決定した。
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