第38話 花街と

 舞台の準備をしながら、桃花は溜め息を吐きだした。

 後宮から戻ってきて三日。早くも桃花の舞台の日だった。帰ってきて丸一日を寝て過ごした。二日目は荷物の整理をして、今日である。三か月ぶりの桃花の舞台ともあり、客入りは上々。半券は半日のうちに完売。最前列は大華以上の値がついてらしい。

 三か月ぶりともあり、普段なら一曲のところ、三曲を舞うことになっている。序曲・春来歌しゅんらいか。戯曲・蝶々散花ちょうちょうさん。終曲・冬仙天女とうせんてんにょ。どれも得意な舞だ。

 舞台は陽が沈んでからだが、すでに早入りして酒を楽しんでいる客もいる。


「溜め息なんて吐いちゃって、せっかく着飾ってるのにもったいないわよぉ」

「……美姐さん」

「あら、アンタにしては珍しい簪じゃない」

「ちょっと、触んないでよ」


 白魚の指先が、一本だけ挿さった蒼の簪に触れようとして、軽く叩き落とした。


「……あら、あら、へぇ、ふぅん、そういうこと」


 何やら悟ったのか、にやにやと口元に笑みを浮かべた美美から逃げようとするが、一歩遅く首根っこを掴まれる。


「それ、若様から貰ったやつだろう?」


 耳元でひっそりと囁かれ、呻き声が出た。


「う、ぐぅ……」

「ふふん、随分とまぁ、可愛らしい表情かおをするようになったじゃないか。アンタを送り出して正解だったってわけだ」


 年頃の少女らしい、真っ赤に染まったリンゴのような顔をする桃花に姐はイジワルな笑みを浮かべる。悠然な笑みからは慈愛が滲み、妹同然の少女の成長を喜んでいる。


「桃花、最初で最後の大舞台だ。気張ってきなよ」


 頬に唇を寄せて、少女を励ます。

 そう、だ。


「桃花、出番だよ」


 疑問を口にする前に、内儀が呼びに来てしまう。彼女の後ろには、美しく着飾った鈴鈴がいた。腕の中に二胡を抱えており、今夜の舞台の奏者である。 

 鈴鈴に楽器を奏でさせると敵う者はいない、と言わしめるほどにあらゆる楽器を美しく繊細に奏で上げる。


 開始時刻には少し早いが、席は全て埋まっており、今か今かと始まるのを客たちは待ち望んでいた。


 先に舞台へ滑るように現れた鈴鈴は、軽やかに、けれど金細工のように繊細で鮮やかな曲を奏でる。盛り上がるにはちょうど良い、短めの曲だ。曲の終わりごろ、静かに舞台へと現れた桃花は音もなく足を進めて舞台の中心で礼をした。

 白い衣を幾重にも重ね、薄藍の紗が動くたびにひらひらと踊る。しゃらり、と簪が揺れて存在を主張した。


 序曲・春来歌は、春の訪れを待ち遠しく思う姫君の曲だ。わくわくと花が芽吹くのを待つあどけない少女姫の、春を、恋を知る感情を演じるのだ。戸惑い、高ぶり、喜び。幸せに満ちた曲である。

 軽やかに飛び跳ねる。ウサギのように、鳥のように、くるりくるりと回ると紗が後を追いかけて曲線を描いた。

 鞠遊びをするいたいけな少女姫が、徐々に乙女へと変わっていく。大きな振りは落ち着いていき、繊細で細やかな動作へと変化する。細く華奢な手がしなやかに、天へ向かって花開き、二胡の奏でが転調する。ゆったりと、優雅な調べは少女姫の心の成長を表した。

 自らの体をかいなで抱きしめて、音が静かに途切れる。


 一拍の静寂の後、聖だいな拍手が送られた。完成と口笛が響き、また一礼をする。その間に禿が剣を持ってきた。青い房飾りさらさらと揺れて、嫌でもあの男を思い出していしまう。

 面布の内側で頬を噛み、深く息を吐きだした。


 二曲目、戯曲・蝶々散花は一曲目とは打って変わって艶やかな剣舞だった。

 自分が胡蝶か、胡蝶が自分なのか、夢うつつの男は人と思えぬ美しい女と出会う。月夜に咲く一輪の花の如く美しい女は、胡蝶と戯れ、男を惑わした。

 かくん、と背中を反らして天を仰ぎ、いっぱいに伸ばした腕の先でくるりと剣を回す。顎埼を紙一重でかすめていった剣に、観客たちは感嘆の声を漏らした。

 体を反らし、薄い腹が押し出される。面布からちらりと覗いた赤い唇は蠱惑的な笑みを浮かべ、薄絹の黒髪に遮られた。ちらりと垣間見える舞い手の素顔に誰しもが釘付けで、もっと見たい、見せてくれ、と知らず知らずのうちに前のめりになっていた。

 あでやかで、なまめかしく、つややかな舞は、文字通り誘惑する女そのもので、今この瞬間誰よりも美しい女だった。

 たたん、と踏み込んだ右足のスカートを、するすると捲り上げ、白く眩しい太ももが目に入る。パッと、手を放せば隠されてしまう細く柔らかな太ももに「嗚呼」と息が零れた。


 片手を胸に、膝を折る。これで終わったのだと、誰も気が付かなかった。

 魅了され、奇妙な静けさの中、三曲目が始まる。軽やかな春来歌とも、艶やかな蝶々散花とも違う、しっとりと濡れた曲だ。


 終曲・冬仙天女は、冬を司る仙女の緩やかで永い時間の舞である。普通であらば扇舞のところを、桃花は剣舞で舞い踊る。

 ゆっくりと、一寸もぶれることなく一閃する剣。桃花の周囲だけ、時間がゆっくりと流れているようだ。

 内側から足を踏み出す、動きが小さくおしとやかで美しい足運びは物音ひとつしない、深く雪の降り積もった冬を連想させた。冷たく凍える寒さではなく、きらきらと朝陽に結晶が煌めく柔らかな優しさに包まれていた。踏み出す足のつま先を内側に向け、八の字を書くように歩くそれは、大華たちが高下駄を履いて花街を練り歩く道中の歩き方だった。

 舞い手であり、遊女である。しっとりと濡れた雰囲気に唾を飲み込んだ。

 嗚呼、彼女と褥を共にしたい。けれどそれは叶わぬ願い。男も、女も、お客も遊女も関係なく、舞台の主役に目を奪われた。


 蒼く濡れた瞳が伏せられると息が詰まり、白魚の指先が宙をもがくとつい目が追いかけた。


 しっとりと、穏やかに、緩やかに曲が終わる。


 終わってしまうのが惜しかった。もっと長く見ていたい、と誰もが思い、けれど口には出さない。終わりがあるから、次が来るのだ。


「――よくやったね。お疲れ様」


 舞台袖で、珍しく満目の笑みの内儀が褒めてくれる。

 剣を禿に預けていると、軽く汗のかいた額を手巾で拭われた。


「さぁ、桃花は花の間へお行き。お客様がお待ちだよ」

「へっ……!?」

「アンタの知ってる若様さ。さぁ、お行き」


 嗚呼、と。心のどこかで喜ぶ自分がいる。きっと、彼だ。


 足早に階段を上り、はやる気持ちを押さえながら桃の花の描かれた襖の前で立ち止まる。


「……失礼、いたします」


 そっと襖を開け、摺り足で部屋の中で入る。後ろ手で閉めれば――三日前に別れたばかりだというのに、懐かしいと思ってしまう麗しい青年がゆったりと椅子に腰かけていた。


「やぁ、久しぶりだね。桃花。舞、とっても素晴らしかったよ」


 言葉は褒めているのに、声音はどこか不機嫌そうだ。


「お、お久しぶり、です。――桃真様」


 いつものような簡易な装束ではなく、しっかりと着込んだ服に目を瞬かせた。

 深い蒼の衣には細かく綿密に蓮の花が刺繍され、蒼玉の耳飾りに、ほっそりとけれど節のある指には同じく蒼い指飾りがはめられている。これから式典に出席するんですか、と聞きたくなるような装いだ。


 椅子からゆっくりと立ち上がった桃真は、微動だにしない桃花の細い腕を引いて胸の中に閉じ込めた。


「はぁ、やっと、君に会えた」

「桃真様、?」

「たった三日、されど三日。君に会えない日々は冷たく凍えた冬のようだった。結局、最後まで返事は聞けなかったね」


 なんのことを言っているのかわかってしまい、胸に額をくっつけて聞こえないふりをする。


「――だから、迎えにきてしまったよ」

「……え」


 冷たい指先が耳を掠め、髪に何かが触れた。


「簪を贈る意味を、君はもう知っているね」


 それは桃の花だった。美しい透ける蒼の桃の花。蕾と花が織り成し、重なることで深い蒼家の蒼になる。


「桃花、どうか僕と共に生きておくれ」


 はらり、と綿布が落ちる。

 ゆっくりと唇が近付いて、影が重なった。


 心が歓喜している。こんなにも嬉しいと思ったことなどない。

 離れてなお、彼はわたしのことを選んでくれた。




 ――後日、光雅楼より盛大な花嫁行列が成され、花街イチの舞姫は蒼家の若様に身請けをされた。


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