第20話 優しい人


 雨曇りが去り、体調もすっかり元通りに戻った桃花は、与えられた部屋の中で黒い扇子を手に緩やかな動作で舞っていた。

「一週間は安静に」と侍医に言われ、剣を持つことを禁止されていたのだが、黙って寝台に横になっていては体がなまってしまいそうで、密かに扇舞をしていたのだ。


 毒を盛られた、と桃真が苦々しい表情で教えてくれた。まぁそうだろうな、と思っていたので特に驚きはしなかった。

 毒を盛ったのは――玲香だった。嫌われていた自覚がある。何かしたわけではないが、話しかけてくる口調も、向けられる視線も厳しかった。


 医局から持ち出せる薬の量は制限がされている。医官が直接処方するならば別だが、そうでなければ帳簿に所属と名前、薬の用途を書かねばならない。医局で付けている持ち出し管理台帳には、数日に渡って紅山草を求める玲香の名前が記されていた。


「――桃花」


 ぱちん、と扇子を閉じ、伏せた目を持ち上げる。

 笑みを浮かべていない桃真が、入口の柱に背をもたれてこちらを見ていた。怒られるかも、という思いとは裏腹に、声を潜めた桃真は緩やかに室内へと入ってきた。


「剣舞とはまた違った雰囲気だ」

「……滅多にしないから、体に馴染んでないんです。あの……ごめんなさい、」

「自覚があるのは良いことだよ。さぁ、寝台にお戻り」


 するりと手を取られて促される。下手に怒られるより、ずっと気まずかった。桃真は決して声を荒げず、桃花を叱らなかった。どこまでも優しく、穏やかなのだ。

 寝台に腰かけられさせ、桃真自ら沓を脱がせようとすることに驚き慌ててしまう。足首を手のひらが包み、優しく脱がされて、いたたまれない。


 桃真の瞳はとても不思議な感情を映し出している。恋でも愛でもなく、興味でもない。静かな水面に広がる波紋のような、匂いを感じさせない感情だ。時折走る激情にハッとさせられるが、あえて気づかないふりをした。


 優しい感情に慣れてしまう自分が怖かった。

 あと一か月と少しすれば花街に戻る身だ。そうすれば、いつも通りの日常が戻ってくる。昼頃に起きて、夜の舞台の準備をして、夜明けとともに眠り、たまに舞の練習をする。六畳一間の小さな部屋が、桃花の小さな世界だった。

 桃真も、桜妃も、優しすぎて、ぬるま湯につかっているような心地になる。自由に好きな剣舞を舞い踊ることも、お茶会で好きなだけ月餅を食べることも、本当ならできない贅沢だ。


 光雅楼には育ててもらった恩がある。一夜の舞台で大華と同じほどの額を稼いだとしても、年季が明けるまで十数年もあり、座敷に出て馴染みの客もいない桃花は身請けされて自由になることもない。

 夜の花として、一生を過ごすはずだった。ほんの一時の自由が、桃花の心に迷いを生んだ。


 春桜宮にいると、どこぞのお嬢様やお姫様のような扱いをされて、腹の奥が落ち着かなかった。はじめは湯浴みすら侍女たちが手伝おうとするものだから、必死に拒否したのだ。

 太陽が昇ってから起こされて、眠気まなこで身支度を整え、軽い朝餉を食べ、昼餉まで桜妃にお付き合いをして、たまに王様や桃真とお茶会をして――こんなにのんびりと過ごしてもいいのだろうかと、罪悪感に苛まれるのだ。どうしようもなく苦しくなって、特にここ数日はとても苦しかった。胃の奥に汚泥が溜まっていって、ここにいていいのだろうかと、違和感は大きくなっていくばかり。


「桃真様、何度も言ってますけど、わたしはそのようなことをされる身分じゃないんです」

「病み上がりが何を言っているのかな。身分と君はよく言うけれど、そう自分を卑下にするものじゃないよ。君は僕が認めた素晴らしい舞い手なんだから」

「――舞い手だから、桃真様はわたしのことを認めてくれているんでしょう?」


 カチ、と心の奥底に押し込めていた感情が溢れ出す。


「わたしは、舞うことしかできません、舞がなければ、舞えなくなってしまえば、わたしはわたしじゃなくなるんですッ! 今はいい、若くて、それなりに容姿も整っていて、舞台に上がれば金ももらえる。けど! 体が衰え、舞うことができなくなれば内儀様はあっさりとわたしに見切りをつけるだろう! そうすれば、誰ともわからない男に体を売らなければいけない。花街は、そういう世界なんです……」


 蒼い衣を握りしめて、心の奥底に秘めていた言葉を吐き出す。口調が乱れるのも気にしないくらいに心がかき乱される。言葉を吐き出すたびに、自分がどんなに惨めな存在なのか自覚してしまう。


「わたしは、優しい貴方たちが怖い」


 見返りのない優しさが怖い。損得勘定で生きている人間のほうが、よっぽど信用できる。


 手のひらから滑り落ちた扇子が、軽い音を立てて床に落ちた。

 黒い扇子は広げると、透かし模様が入っており、売れば向こう一か月は暮らしていける高価な品物だ。透かし模様は龍と蓮の花に水紋が描かれている。――龍蓮水紋りゅうれんすいもんと言えば、蒼家の掲げる家紋である。気づけば、部屋の中には蒼い小物が増えつつあった。

 たまに見える黄色の簪や帯飾りは桜妃からの頂き物だ。他にも、燕珠姫にもらった装飾品もある。


 多くの物を持つことが嫌だった。この世に未練があるようで、桃花は身ひとつだけで生きていたかった。


「君が、桃花が思っているほど、世界は狭くない。花街を出ようと思えば出られるはずだよ」

「無理に決まってる。……足抜けしようとした遊女たちを何人も見たけど、みんな失敗して、仕置きをされていた。それにわたしは光雅楼に恩がある。育ててもらった恩が。返しきれない恩があるんだ」

「……僕が、」


 言葉を不自然に区切った桃真を見上げる。拍子に、目尻に溜まった涙がこぼれて溢れた。

 親指がそれを拭って、グッと頬を撫でられる。


「僕が、君を身請けしたいと言ったらいくらになる?」


 真っすぐな瞳だった。不明瞭な色彩が取り払われて、光を受けた瞳は煌々と強い意志を持って輝き、情けない顔をした桃花を映し出している。


 わたしは弱い人間だ。狭い世界でしか生きられない、変化が嫌いで、まるで金魚鉢の仲を泳ぐ金魚と一緒だ。与えられる餌を食べ、観賞用に愛でられるだけの存在。

 無性に与えられる優しさが怖い。人を狂わす恋が怖い。注がれる愛が恐ろしい。

 桃真の抱く感情が、恋なのか愛なのかわからない。わからないから怖かった。


 桃真の言葉に、桃花は返事をすることができなかった。





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