第三話『地獄悪鬼チュパカブラ』

断章『思えば遠くにきたものだ』

二つの月が、両の目玉のように大地を見下ろす夜だった。


『それ』はじっと息を潜め、森の中に身を隠していた。

に見つからないように。

あの、いけ好かない、人間どもに見つからないように。


――やはり、自分はこんな所にやってくるべきではなかったのか。

『それ』は今さらながらに考える。


昔の居場所に不満があったわけでは、全くない。こんな遠いところまでやってきた理由は、単純な好奇心だけである。世界の大きな何かを変えたいだとか、大切なものを探したいだとか、そんな小奇麗な目的は無かった。


ただ、退屈な日常から少しだけ羽ばたいてみたかった。それだけ。


たったそれだけの理由で、まさかこんなところで死ぬ事になろうとは。

馬鹿馬鹿し過ぎて、滑稽にすら感じてしまう。思えば遠くにきたものだ。

つい最近まで住んでいた場所が懐かしい。もう帰れる事はないだろうけれど。


「誰か……いるの?」


突如聞こえたその声に、消えかけていた『それ』の意識が覚醒した。


数秒間の記憶がない。死の淵で微睡まどろんでいるうちに、知らず音を立ててしまったのだろうか。


「ねえ、誰かいるの? いるんだよね?」

『それ』は、声の正体について考える。

か?

いや、違う。なら、そもそも誰か居るのかなどという警告は発しない。何も言わずに殺しに来るだろう。


という事は……民間人?

隠れていたくさむらからごそごそと頭を出すと、一人の少年が『それ』を見つめていた。

「……わあっ!?」

一拍の間を置いたあと、少年は怯えた声を上げる。

「き、きみは……その姿は、一体……」


驚いて当然だ。こんな異形のモノなど、少年は生まれて初めて見ただろう。


『それ』は返事をする代わりに、喉の奥から掠れた声を漏らした。既に、口から何かの音を発するのは不可能なほどに衰弱している。後は死を待つだけの状態なのだ。


「……弱ってるの?」

そう。弱っている。だが、まだ絶対的な死のラインは超えていない。今すぐ大量の養分を補給すれば生き長らえる可能性はある、と『それ』は自覚していた。


「……おなかが減ってるの?」

そう。お腹が減っている。



『それ』は蛞蝓ナメクジのような速度で、ゆるゆると少年に近付いてゆく。

「うーん……」

少年はしばし逡巡していたが、すぐに顔を上げた。



「いいよ」


二つの月の下で『それ』が見たのは、一点の曇りもない笑顔だった。

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