保護法をぶち破る

皿を持って厨房を出ると、伯爵は待ちかねていた様に立ち上がってわたしたちを出迎えた。


「ほう、それが」

顔面の僅かな部位を占める両目が、食い入るように皿を見つめる。まるで知らない玩具を見つめる幼児のように無邪気な表情である。


「どうぞ、お召し上がりください。お口に合えば良いのですが」

姉さんは言った。


無論、合わなければ非常に困るんですが。

わたしは心の中で付け足した。


姉さんは、音を立てないように皿を食卓に置く。伯爵は切るのももどかしそうにフォークを刺すと、まだ微かに煙の上るソテーに思い切り噛り付いた。

「…………」

眉をひそめてゆっくりと咀嚼し、咽喉から何とも言えぬ音を発して飲み込むと、伯爵は急に目を見開いて姉さんを見た。


「伯。如何いかがで」

「美味い!!」

姉さんが訊ね終える前に、伯爵は食卓に拳を叩きつけて絶叫していた。


「こ、こ、こ、これは何だ!」

頬肉の震えは食卓から部屋全体に伝わり、ちょっとした地震さながらに揺さぶった。皿が滑り落ちないように慌てて食卓を押さえながら目を白黒させる。


「美味すぎる!」

再び皿を引っ掴んで持ち上げると、今度はフォークも使わずに肉を口腔に流し込み、凄まじい速度で咀嚼し始める。皿まで飲み込まなかったのが奇跡と思える勢いで肉を平らげると、伯爵はまた子供のように無邪気な顔で姉さんを見た。

「もっと食べたい」


「残念ながらもうありませんわ、グスタフ伯爵」

姉さんが丁寧にそう言うと、伯爵は見失っていた自分の立場を再認識したらしく、小さく咳払いをして椅子に座り直した。


「いや、これは失礼。少し動転してしまいました」

「それは、ワタシどもの料理にご満足頂けたと受け取っても宜しいのでしょうね?」

「無論。無論です。大変に結構でした。実のところ、感服です。私も数多あまたの料理を食べてきましたが、これほど美味いものは片手で数えるほどしか知らない。ミス・マレウス……是非教えてください。一体、これは何の肉なのです」

姉さんの黒瞳が妖しく煌めいた。

「伯。という生き物をご存知ですか?」

「あほうどり……?」

虚を衝かれ、グスタフは眉を顰める。

「あほうどり……阿呆あほうな、とり、ですか?」


「そう、阿呆鳥アホウドリ。正式な学名はアルバトロスと言うのですが、その名称で呼ばれることはほとんど無い。極東の大陸諸島の一部にのみ生息する鳥です」

「……初めて聞きますな」

眼を瞑ってしばらく記憶の引き出しを探った後、グスタフは答える。

「もう世の食材のほぼ全てを食べ切ったと思っていた私が、初めて聞く名です。……ふうむ。アホウドリ。なかなか愛嬌のある名前だ」

「そうでしょう。いま召し上がって頂いたのは、そのアホウドリの肝臓のソテーなのです」

「……ほほう」

その小さな瞳が、ビー玉のように煌めいた。

「極東の一部にのみ生息するアホウドリ、ですね。……よくぞ教えて頂けました。これからは毎週輸入する事にしましょう」

満足げな笑みを浮かべるグスタフに、しかし姉さんは首を振る。


「残念ながら、毎週は不可能ですわ。そんな事をされれば、彼らはあっという間に絶滅してしまいます。何しろ個体数が極端に少ない鳥ですので」

「何ですと?」


そう。わたしも姉さんから、アホウドリがの鳥だと聞いている。

普通なら捕まえる事は違法行為、あまつさえソテーにして食すなんて、稀少動物保護法をぶち破った、とんでもない犯罪なのだ。

「何しろたちは、この惑星に数千羽しか生息していないのです。今日なんとか一羽持ってこれたのも、このワタシのツテがあったから」

そう。姉さんが老マクスウェルを通じ、その限りなく黒い人脈を行使して密輸したのだ。


「なるほど。それは滅多な事では食えない。しかしミス・マレウス。この私ですら聞いた事のない稀少な食材を、よく見つけてこられましたな」

「大声では言えませんが、ワタシもこの業界は長いもので。世界中の闇市場ブラックマーケットに、そこそこ顔が利くのです」

「なんと。実に羨ましい」

グスタフ伯は心の底から羨ましげに言った。

「私にも紹介して頂けませんか」

「残念ながら、非合法かつ閉じた世界です。アスクレウス伯ともあろう御方に実態を明かすような真似は出来ませんわ」

「なんと。実に悲しい」

グスタフ伯は心の底から悲しげに言った。


わたしにも何となく、この風船玉のようなおじさんの人となりが分かってきた。

書物・食物・薬物・動物。あらゆるが売買される闇市場ブラックマーケットの存在を好意的に解釈するだなんて、一城の主としては許されないことなのだが、こと食物が関わると、彼の感覚は麻痺してしまうのだろう。


「ならミス・マレウス。私が、せめて貴女あなた個人とになりたいというのも、やはり許されざる願いでしょうか?」


「くははっ」


姉さんは、嗤った。

「それは全く別の問題です、グスタフ伯爵。ワタシとしても、西大陸美食協会の会長様とは是非お近づきになりたいと思っております」

伯の言うとやらが色恋やロマンスとは無縁の意味を秘めているというのは、わたしにも簡単に推測できた。


「契約成立というわけですな」

「ええ。これから伯には、こっそりと先ほどのアホウドリを献上いたします。アホウドリだけではありません。4年に一度しか生えない虹色茸マタンゴ殺人蜂キラービーの女王だけが吸える凝縮蜜、脂の乗った雪白熊スノーベアの掌、丸々一匹の大怠蛇ネガコブラを15年以上も瓶に漬けた酒。恐らく伯ですら未だに味わったことのない数々の食物を振る舞わせて頂きましょう。もちろん相応の見返りは頂きますが」

「おぉ、おぉ……」

姉さんの言葉に、伯爵は目を輝かせる。

大陸きっての美食家の耳には、姉さんの言葉はとても魅力的に響いたのだろう。

正直、わたしの食欲が刺激される単語は一つも出てこなかったけれど。


「素晴らしい。どれもこれも、聞いたことのない食べ物ばかりだ。ミス・マレウス。貴女は今まで、それほど数多くの珍味を味わってこられたのですか」

「まあ、人並み以上の美食家グルメだとは自負しておりますわ。……ああ。もちろん、伯爵ほどではございませんけれど」

「美食は人類の生み出した最高の文化です」

伯は真面目な顔で言った。

姉さんが最後に付け足したお世辞は、そもそも耳に届きもしなかったようだ。


グスタフ=エル=ヌークリヒ伯爵という人間のおおよそが、わたしに飲み込めた。

お世辞やお金や地位や芸術や恋愛なんて、どうでもいいのだ。

この人は本当に、おいしい食べ物以外の事象はどうだっていいのだ。


どんな名声をちらつかせても、どんな大金を積んでも、どんな美女に誘惑させても、たぶん、この人の心を動かすことはできない。


――つまり。逆に言うと。


この人の心は、おいしい食べ物を餌にすると、簡単にってことだ。


なるへそなるへそ。

そういうことですか、姉さん。

今回のを心の中で反芻し、わたしは姉さんの企みを理解した。


「いやはや、本当に素晴らしい。私は心から、貴女のような方を待っていたのです」

伯爵はしばし黙った後、ゆっくりと顔を上げる。


「どうでしょうミス・マレウス。我々の出会いを祝う余興も兼ねて、お近づきのしるしに一つ、私とをしてみませんか?」


いい年こいたおっさんは、いたずらっ子のような眼をしていた。

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