魔女の吹く喇叭
「冗談じゃない。人喰いは究極の美食だ」
ナイフを手にしたグスタフ伯爵は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
わたしは、足が震えて動けない。
「止めませんよ。私は喰い続ける。さあ、茶番は終わりだ。実を言うと私は」
嫌だ、嫌だ。もう聞きたくない。
「私はさっきから貴女達を食べたくて堪らないんだ」
わたしの唇が震えた。
「伯爵。
しかし、姉さんの静かな言葉が、わたしの咽喉が悲鳴をあげるのを止めた。
「……コドク?」
再び、伯爵の心に隙間が空く。
わたしの目に映っていた狂気の怪物が、困惑する人間の顔をした。
――ああ。
それを見て、わたしは察した。
掛かった。
彼は、もう――魔女の呪いからは、逃れられない。
「そう、蟲毒。東大陸の、ある国に伝わる禁呪です。まずは大きな砂壺を構える。蜂、蠍、蛙、蜘蛛、蜥蜴、百足、蛇。古今東西から掻き集めたあらゆる
ああ、嫌だ。嫌だ。
そんなの想像したくない。
「ミス・マレウス。もう貴女の博識は充分に分かりましたとも。ですが一体、このタイミングで何の話です。まさか今まで喰った者たちが私を呪いで蝕むだろうとか、今度はそんな馬鹿な筋書きですか?」
「無論、違います。伯爵、お気付きになりませんか? 阿呆鳥の美味しさと、蠱毒の強さの共通点に。……他の毒を喰らい尽くした蟲が、最も強い毒を持つのです。阿呆鳥は何故あんなに美味しいのでしょう? 阿呆鳥は他の阿呆鳥を喰らうのです。実は幼い阿呆鳥はそこまで美味ではありません。伯爵が先ほど召し上がった阿呆鳥は、今までに何羽もの同胞を喰らって成熟した個体でした。肝臓のソテーでした。最も栄養が集まる部位です。今までに喰ってきた同胞の美味しさがたっぷりと凝縮されていたから美味しかったのです。鳥であんなに美味しかったのです。ならば豚に同じ事をさせてみたら? 牛に同じ事をさせてみたら? アナタが、最も美味いと言い張る、人に同じ事をさせてみたら? 最も毒が強いのは、最も多くの同胞の旨味が凝縮されているのは、果たしてどの個体なのでしょう?」
数秒ほどの沈黙があった。
「…………まさか」
グスタフ伯爵は、震える声で呟いた。
「まさか、
「そういう事ですわ」
姉さんは表情を変えない。
「どうです伯爵。幸せの青い鳥は、こんなにも身近に居たのです」
真っ黒い瞳は、決して伯爵の顔から外れない。
「し、しかし。それは。それを食べてしまえば」
「美食の為なら死んでもいい。それが貴方の持論。そうですわ伯爵。その究極の献立を食す事こそが、貴方の命題だったのです」
姉さんの言葉は、その情報をするりと伯爵の脳に送り込んだ。
「良かったですわね伯爵。遂にアナタの命題が、夢が叶うのですよ」
「め、命題が」
「そうです。おめでとうございます」
妖しく微笑みながら。姉さんは、椅子からずるりと立ち上がる。
わたしは――立てない。
「アナタは見つけたのですよ。世界で一番の、生涯最高の、究極の美味を」
謳うように囁きながら、姉さんは伯爵の脇に立つ。
「究極の、美味」
ごくりと、巨漢の咽喉が鳴った。
それはきっと、緊張や恐怖からではない。
恐らくもっと純粋で単純な生理的欲求によって、グスタフは生唾を飲み込んだのだ。
「さあ伯爵。ナイフとフォークを持って」
「だ、だが、それは最後にすべきだ。私はまだ他のものも食べ足りない。もっと後で、晩年に」
「アナタともあろう食通が何を仰っているのです。老いた肉など食えたものですか。ワタシの見立てでは、アナタの身体は今こそ人生で最も脂が乗っている時期。究極の美味を完璧な状態と鮮度で食べられるのは、今この瞬間しか無いのです」
伯爵は天啓を受けたように姉さんを仰いだ。
「い、今しか……。そうか……それは絶対に逃すわけには……」
「そうですわ。良かったですね、何とか間に合って。……さあ、グスタフ=エル=ヌークリヒ。ナイフとフォークを持って良いのですよ。持ちなさい」
「は、はい」
許しを得たグスタフは歓喜に満ちた瞳で頷き、ナイフとフォークを手に取った。
「どうぞ、召し上がれ」
「戴きます」
その声には、もう何の躊躇も無かった。
じゃくり。
一片の恐怖も迷いもない顔で、グスタフ伯爵は自分の腹をナイフで掻っ捌いた。
「……ッ!」
わたしは、その光景から目を逸らすのが一瞬遅れてしまった。
水っぽい音がして、裂けた肉からそれらのものが噴き出す瞬間が見えてしまった。
それは、どろどろで粘ついていて、赤くて、けれどところどころが黄色くて、
「う……ぷ」
たちまち湧き上がった、微かに鉄の混じった酸っぱい臭いが鼻を衝く。
「……ルナ、大丈夫?」
くちゃくちゃという音が響く中、姉さんは囁いた。
強烈な吐き気に襲われている私を心配してくれたと思ったが、どうやら理由はそれだけではなさそうだった。
「気分が悪いなら、外に出ていなさい」
言いながらも、姉さんの目はわたしを見てはおらず、ただ真正面を凝視している。
単純に、隣で呻かれていると、その光景を見るのに集中できなくて邪魔なのだろう。
「は……はい……」
震える足になんとか力を込めて立ち上がり、わたしはよろよろと部屋を出た。
姉さんの興を削がないよう静かに扉を閉め、冷たい床にしゃがみ込んで膝を抱える。
限りなく無音に阿鼻叫喚の広がる部屋からは、微かに二人の会話が聞こえ続ける。
「どうですか伯爵、お味の
「ああ……初めてだ……火を通してないのに温かくて……強烈にコクがあって……」
「それで?」
「途方も無い刺激が鼻を擽って……しかしそれは、とても甘美な匂いで……」
「それで?」
「濃厚な生命のエキスが……今まで溜め込んでいた沢山の魂が更に凝縮されて……」
「それで?」
「翼の生えた少女が居て……咀嚼する度に……彼女が吹く
「それで?」
「眩しくて……世界が一つになったようで……全てのものが……この世の
「それで?」
「…………
「くははっ」
「
「くははははっ。ははははははは」
やがて唐突に、伯爵の声が聞こえなくなった。
とうとう――究極の美味を味わい尽くしたのだろう。
しかしその後もしばらく、余韻に浸る姉さんの笑い声は止まらなかった。
もう、とてもその場にはいられなくなり、立ち上がったわたしは独りで歩き出す。
ふらつく足取りで階段を上り、わたしは城門へと向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます