5-4 塾講師は完璧じゃない 4


 正解、と芽吹の発した言葉を反芻する。

 高揚も安堵もない。結論を述べた際の緊張は解けることなく、絶えず脳内や全身を巡りながら答えの定まらない自問を続けている。

 真実は明るみになった。

 なら、俺はこれからどうすればいいのか。

 かける言葉を探すも、一向に浮かんで来ない。そんな俺を見かねたのか、芽吹は教室内の数センチほど突き出た窓枠に腰掛け、ぽんぽんと自分の座る右隣を叩いて示した。その手に導かれるようにして、俺も窓枠に体重を預ける。

 足元を見れば、背後から月が運んできた淡い光の中に二つの影が並んでいた。寄り添うでもなく離れるでもなく、今の俺たちにあるべき距離を保っている。

 触れなくても互いの存在を感じられるくらいの間隔。それはそのまま、芽吹の心の最奥までの距離に等しい。

「知ってるかしら。人間の手のひらって、突然棘が生えてくるの」

 ふいに芽吹が呟いた。

 声のする左隣に目を向けても、芽吹の視線は返ってこない。

「手のひらに、棘?」

「ええ。ある時それは急に現れて、たちまち人を傷つける。互いに手を固く握るような関係の相手ほど、棘は深く深く食い込んでいくの」

 思わず自分の手のひらを見やる。骨張ってはいるものの、棘の生えている様子はない。理系講師として、人体の構造的にありえないとは分かっていたけど、確認せざるを得ないほどに芽吹の言い草は真実味を帯びていた。

 だからきっと、そういった類の話ではないのだろう。

「それを教えてくれたのは、東京にいた頃に仲の良かった友達……いいえ、友達だったと言ったほうが適切ね。その子たちから理由も前触れもなく向けられた棘のせいで、私の痛みは日に日に増していったわ」

 ここまで聞いて、やっと理解が追いついた。

 近しかった者たちから突如向けられた剥き出しの嫌悪が、純真だった少女の心に傷を負わせた。それは比喩でもなんでもなく、芽吹にとっては棘そのものだったに違いない。

「学校は助けてくれなかったのか?」

「手口が陰湿だったから、しっぽを掴みきれなくて厳重注意が限度だったわ。むしろこの件が表沙汰にならないように精一杯繕うのに必死だったみたい」

「おじさんとおばさんは?」

「海外転勤を間近に控えてたこともあって、忙しそうにしてた。数日間家に帰ってこないことも珍しくなかったわ」

「……他に頼れる人は?」

「残念ながらゼロ。自分で解決しようにも、私が失態を犯したわけではないから原因がてんで分からない。謝るのも筋違いだし、強く出たところで嫌悪感は増すだけだから。心を殺して日々を過ごすしか私には出来なかったけれど、それにも耐えられなくなってとうとう引っ越すことにしたの」

 ようやく芽吹の瞳がこちらに向いた。

 そこに浮かんでいたのは、深く静かな怒りの色。

「兄さん、ひとつ訂正してもらいたい間違いがあるのだけれど」

「……なんだ?」

「心当たりはないのかしら。ヒントは、今日のお昼休み」

 記憶を遡る。

 確か、模擬試験の合間に答え合わせに付き合わされていた。そこで俺は美咲・心寧と共に間違った答えを確認し、芽吹から訂正をもらっている。その件に関しては頭を下げて心を入れ替えたはずだけど、これ以上何を正せばいいのだろうか。

 時間切れね、と芽吹はため息をついた。

「ほら、渡合さんが言ってたでしょう。『逃げることは簡単だけど改めて向き合うことも大切』って。もしかしたら、それって兄さんの言葉だったんじゃないかしら」

「ああ、そうだけど」

「やっぱり」

 芽吹の目つきが、一層凄む。その様子を見て、俺は自らの過失に気づいた。

「勘違いしないで。逃げることだって、簡単じゃないのだから」

「……すまなかった」

「分かればそれでいいわ」

 耳に届く芽吹の声色から、怒気が薄れる。

 気づけば、床に映っている二つの影は互いの距離を少しだけ縮めていた。

 


 転入を果たした当初、芽吹はひとつの決意を抱いていたという。

「新しい場所では、ひっそり生きていこうと思っていたの。とっつきにくいキャラクターを演じて、誰も距離を縮めてこないように。信頼することも、されることもない生活。結果的にそれは上手くいったわ。ここまで周囲からの興味が早々に薄れた転校生なんて、そうそういないはずよ」

 やっと合点がいった。

 芽吹は意図的に自分を変えようと試みたのだ。だからこそ、三年の時を経て再会した芽吹に俺は違和感を覚え、芽吹は変化することに対して異常な確執を見せた。

「けれど、完璧に孤独な生活はついに訪れなかったわ」

「あの二人がいたから、か」

「ええ。渡合さんと倉橋さんの二人だけは、私がどんなにそっけない態度をとったとしても絶対に距離を詰めてくるの。昼食の時間は机を寄せてくるし、隙あらば頬っぺた触ってくるし。何度突っぱねても、決まって二人ともずっとその手を差し伸べてくれる。まったく、困った人たちだわ」

 そう語る芽吹の表情は、言葉とは裏腹にどこか嬉しそうにも見える。

「でも、本当に悪いのは私。二人がいなかったら『もう一度誰かの手のひらを握り返したい』なんて思うこともなかったでしょうね」

 孤独を貫くと誓った少女。その決意に、綻びが生じた。

 また同じ結末を迎えたくないと望む一方で、美咲と心寧の信頼に応えたい自分がいる。そのジレンマは日に日に膨れ上がり、やがて抱えきれなくなって——爆発の時を迎えた。

「そんな時に家に届いたのが、兄さんの日記帳だったの。全ページに渡って、気の置けない友人たちと過ごす日々が書かれていたわ。それが私にはとても眩しくて、羨ましくて、私も誰かとそんな関係を築いてみたくて……だから、あの二人を明確に信頼できる根拠を探すために今回の計画を思いついたの」

 ああ、と俺は納得する。

 芽吹は美咲と心寧の二人を拒むために疑っていたのではなく、信じるために疑っていたのだ。ゆくゆくは、親友の間柄になれるように。

「まあ、半分は加賀美先生のアイデアなのだけれど」

「……そうだったのか」

 おそらく、計画が練られていたのは個人面談の期間中だ。いつもより早い下校時刻を設けているその期間であれば、自習の名目でいち早く校舎に赴き、室長と長時間の密談を交わすことが可能である。

 何より、その期間中に室長は俺の日記帳を読んでいた。あれは単なるプライバシーの侵害ではなく、芽吹から手帳とともに相談を持ちかけられたことを誤魔化すための言い訳だったのかもしれない。

「最後に。こないだのバスケ部の三人が絡んでいた不法侵入事件に、兄さんが携わったでしょう? それを偶然見てしまったあの夜に、兄さんを私の計画に無理やり巻き込むことを決めたの」

「俺を?」

 確かに、美咲と心寧の芽吹に対する感情を確認することが目的なら、俺を体育祭に呼ぶことも優勝旗の場所を推理させることも必要なかったはずだ。

 三月末の、合格実績一覧の件が記憶に蘇る。

 意図的に巻き込まれたということ。それはすなわち、暗に何かを求められていることと同義なのだ。

 なら、芽吹は俺に何を期待していたのだろうか?

 疑問を浮かべる俺に対し、芽吹はふふっと微笑を溢した。

「別に、特定の何かをしてほしかったわけではないわ。ただ、あのバスケ部三人の件を収めた兄さんを見てると、どうしても希望を抱かずにはいられなくて——」

 月明かりに照らされた芽吹の横顔が、振り向けばすぐそばにある。

「この計画がどこに帰着したとしても、兄さんならなんとかしてくれるかもって。根拠もなく、直感的にそう思ってしまったの」

 眠そうな瞳を空中に漂わせながら、芽吹は俺の左の手のひらに触れた。恐る恐る感触を確かめた上で、微弱な力を握る手に込める。

 触れ合った部分が感じるのは、互いの温もりのみ。

 棘の刺さるような痛みは、微塵もない。



 二日間に及ぶ芽吹の計画は、こうして終幕を迎えた。

 露わになった美咲と心寧の本心に関して言えば、特別目立った裏表は見られなかった。第一、二人が陰口を叩いていたのなら、加賀美室長から送られてきた映像を見た時点で俺は芽吹の計画を見抜くことができたはずだ。

 美咲母も聞いたという『芽吹ちゃんのおかげで変わることができた』との言葉は、映像の中でも加賀美室長の電話口でも美咲と心寧の口から発せられていたという。体育祭実行委員長から芽吹をかばう際に二人が見せた言動は、確かに普段のおどおどした様子や軽薄さを感じさせないものだった。

 それに関して、当の本人は仰天。二人の変化の原因が、まさか自分だとは夢にも思わなかったのだろう。

「明日学校で会ったら、二人にこれまでのこと全部謝らなくちゃ。許してくれるかしら?」

「どうだろう。こればっかりは推論のしようがないからな」

 口ではそう言ったものの、俺はひとつの確信を抱いている。

 逃げるのだって簡単じゃないと明言していた芽吹は、最終的に逃げずに向き合うことを選んだ。二人のみならず、芽吹だって変わろうと努力している。すぐにとは行かなくとも、きっといつかは報われるはずだ。

 こつこつと、廊下に足音が響く。

 姿を見るまでもなく、その主が佐内教諭であることは分かっていた。佐内教諭は加賀美室長との電話を終えたのち、ことが長引く旨を警備員に伝えるべく一時退室してくれていたらしい。

「春峰。あらかたの話は聞いている。その上で、ひとつだけ尋ねたい」

 教室に戻るなり、佐内教諭は間髪入れずに芽吹に詰め寄った。驚くあまり、俺たちは握られた互いの手のひらを反射的に離す。

「何かしら?」

「なぜ私や門出じゃなく、鴻子に頼ったんだ? 私では力不足だったのか?」

 私ならもっと、と言いかけて留まる。その表情には、言いようのない悔しさと無力感が色濃く滲み出ていた。

 珍しく感情を露わにする佐内教諭に対し、芽吹の瞳は少しも揺るがない。

「まさに、そういうところよ」

 ため息まじりに、吐き捨てる。

「兄さんも佐内先生も、相談すれば力になってくれるだろうとは思っていたわ。でも、ひとたび願いを聞き入れたが最後、あなたたちはどんな手段を使ってでも期待に応えようと奮闘するタイプでしょう? たとえ、それが自分の立場すら顧みないような方法だったとしても」

 俺たちは何も言い返すことができなかった。

 思い当たる節はいくつもある。

 バスケ部三坊主の件では、同僚である銀次に忠告しているにもかかわらず勤務時間外に生徒に会うという規律に反する方法で解決を試みた。佐内教諭に関して言えば、学校の外、ましてや居酒屋という場所で三者面談を行ったという行為は、かなりのリスクを背負ったものだったに違いない。

 けれども、俺たちはそんな手段を選んだ。

 同じように芽吹から相談を受けたとしても、よく似た方法に走る可能性がないとは言い切れない。

「そんなあなたたちを邪な計画に利用することなんて、私には出来なかったわ。私のせいで二人の立場が危ぶまれるなんてことがあれば、きっと一生悔やんでしまいそうだから」

「鴻子は違うと言いたいのか?」

「ええ。加賀美先生は情よりも理を重んじる人よ。状況を客観的に見て巧妙に動くけれど、借りはしっかり返す。だから私は加賀美先生に白羽の矢を立てたの。相談というより、商談するくらいのつもりで話を持ちかけたわ」

 芽吹の分析は非常に的確だ。

 加賀美室長がお菓子を振る舞うのは、奉仕的精神ではなくあくまで感想を聞いて今後に生かすため。日野原中に合格実績一覧を送ったのは、佐内教諭への借りを返すため。互いに利が生じ、かつ不平等が生まれないように行動することが室長の信念だとする見解に、おそらく間違いはないだろう。もしかしたら、塾の校舎を経営する立場上大切にしていた考え方なのかもしれない。

 だからこそ謎なのだ。

「なあ芽吹。一応聞くけど、室長に計画を相談するときに何か交渉材料みたいなものは用意していたのか?」

 芽吹も訝しい点に気づいたのか、眠そうな瞳が細められる。

「いいえ、二つ返事で引き受けてくれたわ。それどころか体育祭を利用した計画を最初に提案して、率先して細部まで作り込んでくれたのは加賀美先生よ」

 やはり。

 俺たちは、まだこの事件の全貌に辿り着けていない。それどころか、最大の謎を一つだけ残している。

 最後のピースが収まる穴を指でなぞるように、芽吹はそれを言葉に乗せた。

「なぜ加賀美先生は、一方的に私に協力することを選んだのか——ねえ兄さん、一緒に考えてくれるかしら? だって、このままじゃ収まりがつかないもの」

 事件の黒幕から一変して探偵へ。

 少女の声は、夜の校舎の空気に似つかわしくないほど弾んでいた。



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