5-1 塾講師は完璧じゃない 1


 あの体育祭から二晩明けた、日曜の朝。

 まだ頭に残っている眠気を振り払うように、俺は神奈川塾相模原校の引き戸を勢いよく開いた。

 本日は月に一度の休日出勤。なぜ休み返上で駆り出されるかといえば、毎月恒例となっている中三生の模擬試験の試験監督を頼まれているからだった。

「おはようございます、加賀美室長」

「ああ、おはよう。元気そうだな。体育祭の疲れは無事に抜けきったかい?」

「ええ、何とか。生徒たちの方が心配です」

「彼らなら大丈夫だろう。昨日は塾も学校も休みだったうえに、中学生の体力たるや私たちの比じゃないからね。きっと元気にやって来るさ」

 室長は朗らかに笑った。

 体育祭以来、初夏のような陽気が延々と続いていたためか、室長は早くも夏服仕様だった。体育祭の時も涼しげな装いだったけれども、日焼けの跡などは一切残されていない。芽吹と同様の美白を保っていた。

 俺も芽吹に倣って日焼け止めを借りておけば、などと思わないでもない。

「しかし、君が来てからもう一ヶ月経つのか。早いのかどうなのか、いまいち分からんな」

 言われて初めて気づく。

 俺が初めて相模原校の門を叩いたのは三月の末。月末に行われる模擬試験に携わるのはそれ以来だ。

「ほら、色々忙しかったですから」

「そうだな」

 そして、早一ヶ月といえばもう一人。

「四月頭から体験入塾している生徒たちも、今日の模試で最後だ。春峰さんから、続けるか否かという話は聞いているかい?」

「いえ、はっきりとは。本人の心は決まっているようで、あとは親御さんとの話し合い次第だそうです」

「……そうか」

 加賀美室長からそれ以上の質問はなかった。

 芽吹が入塾の意思があるのかどうかは、俺もまだ聞いていない。

 時折尋ねてはいるものの、『生活のサイクルや志望校のレベル等を総合して考えるわ』と毎度同じ答えが返ってくるのみだった。

 はっきりしないのは、塾の件に限った話だけではない。

 昨日、室長から送られてきた体育祭の録画映像を一緒に観ていた時も、夕食の支度を協力して行っていた時も。芽吹は頑なに、その心の内を明かそうとはしなかった。特に体育祭に関しては、明らかに話題に挙げることも避けていた。

 芽吹は一体、何を……?

 一番近くで生活を共にしているはずの少女が、今は遥か遠い存在のように感じられる。

「おぉい。聞いてるのか、門出君」

 室長に肩を突かれ、振り向く。

 長く伸びた真っ白な指が、俺の右頬に突き刺さった。やり口が古典的すぎて、何が起きたのかを理解するのに数秒を要した。

 十年ぶりくらいに食らった気がする。

「……ぐぇ」

「取って付けたようなリアクションだなぁ」

 加賀美室長は満足げに微笑んだ。その大きな瞳には、無邪気さと温かさの入り混じった光を湛えている。

「そんな浮かない顔をするな。君が気に病む必要はないんだから。それより、さっさと今日のタイムスケジュールを確認しておくれ」

「わかりました」

 何故だろうか。

 室長の他愛のない言動に、不思議と気が晴れていく自分がいる。初勤務から一ヶ月経った現在でも、やはりこの人には到底敵わないのだ。



 手渡された本日の日程を見て間もなく。

 俺の頭に、ひとつの疑問符が浮かんだ。

「ええと、午前中に英国数で、お昼を挟んで理科社会。しばらく空いて夕方に答案返却……なんですかこの不自然な間は」

 印字されたスケジュールには、謎の空白が存在している。

 その他の試験の時間や順序は、本番の公立高校の入学試験に基づいて練られている。だから尚更、その空白が紙面上でひときわ目立っていた。

「ああ、これか。頑張った生徒たちへのご褒美だよ。ほら、昨日今日と日野原中でバザーが開かれているのを知ってるかい?」

 その話は、日野原中の教員である佐内教諭からすでに聞いている。

「昨日は体育祭の疲労と模試の準備で、生徒たちは参加が難しかっただろうから、改めて行く時間を設けているんだ」

 聞けば、バザーという名前でありながらその実態は『地域ぐるみのお祭り』らしい。自治会によるクイズ大会や、日野原中OBによるバンド演奏なんかも催されるそうだ。

 内心、かなり興味をそそられる。

 俺も人並みにお祭りは好きだ。騒々しさの塊のような高校三年間を過ごしたせいか、賑わいの只中にいると不思議と心地が良い。明らかに塾講師向きではないと言われてしまえば、それまでなのだが。

 とにかく、この模試の監督業務が終われば待っているのは祭。自然と心が躍る。

「あ、うずうずしているところ申し訳ないんだが、君は私と一緒に終日残留だから。よろしくな」

「……え?」

 膨れ上がった期待が、一瞬にして弾けた。

「ご褒美というのは建前だ。本当は私たちが採点する時間を稼ぎたかったのだよ。体験入塾の生徒たちは今日限りだから、今日のうちに結果を返そうと思ってね」

「ということは……」

「皆が帰ってくる前に、全員分の採点を終わらせるぞ」

 自分の肩の落ちる音が聞こえた気がした。

 もう一度、手元のスケジュールに目を落とす。先ほどまで空白として認識していたその時間が、途端に窮屈に見えた。

 ……生徒のためであるなら致し方なし。

 後ろ髪を引かれる思いを振り払って、俺は採点業務をやり抜く覚悟を決め込んだ。

 そういえば。

 全くの偶然ではあるけれど、本件に加えて昨日も『謎の空白』と呼ぶに相応しい出来事に遭遇している。

「ところで加賀美室長。昨日はありがとうございました。体育祭の映像、芽吹と一緒に観ました」

「よかった、ちゃんと送れてたのか。ファイルが重くて送れたかどうか心配だったけど、観れたなら何よりだ」

 いや、全編を観ることは叶わなかった。

「それがですね、一部欠けていたところがありまして。校舎の中に優勝旗を探しに行く寸前から、最後の種目にかけての映像がどこにも見当たらなかったんです」

 昨日の『謎の空白』。それは、映像データの中に存在していた。

 録画した映像を送ってくれた以上、文句や難癖を付ける筋合いはない。しかし、どうにもその空白の時間が不自然に思えて、尋ねないではいられなかった。

「そうだったのか、すまなかった。うーん、録画のミスなのか、送信しきれなかったのか……ひとまずスマホで確認するよしよう」

「撮った映像を、携帯で見れるんですか?」

「技術は日々進歩しているのだよ」

 得意げな表情の加賀美室長。

 先日の進路希望調査といい、意外とIT関係には強いのかもしれない。

 パンツスーツや鞄のポケットというポケット全てを確認した後で、室長は苦虫を噛み潰したような表情をこちらへ向けた。

「本当に申し訳ない。スマホは今、手元にないんだ」

 技術の進歩に、肝心な点で追随できていなかった。

「家に帰ってからでもいいかい?」

「はい、大丈夫です。ちょっと気になっただけですから」

 それなら助かる、と小さく呟いた室長の声は、扉の外から聞こえる喧騒にかき消された。程なく木製の引き戸が開け放たれ、十数名の中学三年生たちがぞろぞろと入室を果たす。その中には、学友たちに囲まれた芽吹の姿もあった。

 騒がしくはあるものの、皆それぞれが三月末に比べて堂々たる面持ちである。俺も加賀美室長も、一層気を引き締めた。

「じゃあ頑張っておくれ、試験監督」

「頑張るのは彼らですけどね」

 違いない、と朗らかに笑いながら室長はパソコンデスクに着いた。それを見届けて、俺は試験の行われる教室へと移る。

 この一か月、忙しなかったのは俺だけではない。美咲や心寧、バスケ部三坊主をはじめ、ここにいる生徒たちだって苦難や決断の末に今日を迎えている。

 波乱の四月を乗り越えて。

 様々な覚悟と決断を胸に抱いて。

 各々の挑む、五時間にも及ぶ戦いが今、始まる。



 意気込んで試験開始を告げたはいいものの、生徒たちが問題を解いている最中は限りなく暇だ。英語国語と試験が終わり、三時間目の数学ともなると飽きが来る。

 一応、不正が行われていないか、筆記具を取り落としたりはしていないかと常時目を光らせてはいる。それでも手指や頭を使うことは普段の授業に比べて極端に少ない。ペンを動かす音のみが反響する教室内で気を張り続けるというのは、従来の仕事とはまた違った疲れを伴う。

 ふいに誰かと目が合った。

 反射的に、視線の出所に目を向ける。眠そうな眼をした少女が、頬杖をついて退屈を体現していた。

 もう解き終わったのか……?

 芽吹の手元の解答用紙は、遠目から見ても余すところなくびっしりと埋まっている。本人はそれを誇示する素振りもなく、あくびをひとつ溢して机に突っ伏してしまった。小さな背中がゆっくりと上下する。

 俺の知っている小学生の頃までの芽吹は、確かに物覚えのいい子供だった。けれども、今の芽吹を評するなら『知恵が回る』という言葉の方が相応しい。ただ物覚えがいいだけでは、先日の体育祭での計画なんて思いつかないだろう。

 あれから何度も考えた。

 芽吹以外が優勝旗失踪事件の犯人である可能性を模索したり、芽吹が犯人ではないと言い切れる証拠を探したりもした。それでも、行き着く先はやはり『動機は不明だが芽吹が最有力』という結論だった。

 幸い、被害や混乱は小規模で済んだ。けれども、下手すれば体育祭が中断しかねない事件だったには違いない。それを食い止めたのは、実行委員による迅速な対応と捜索、そして芽吹の機転。

 だからこそ謎なのだ。

 なぜ自ら、自分の計画を暴きに出たのか。芽吹の本当の目的は何だったのか――

「先生、チャイム鳴ってるよー?」

 心寧の声に、はっと我に返る。教室内の全受験生が、怪訝な目で俺を見つめていた。試験終了を告げるチャイムの残響は確かに聞こえる。俺はまとまらない考えを捨て置き、慌てて各々の答案を回収した。

「とりあえず前半戦お疲れ様。これから昼食休憩にします」

 俺の一言で、教室は賑わいを取り戻す。どこからか聞こえてきた『今日のバザー、一緒に回ろうぜ!』との声に、一抹の寂しさを覚えた。ぜひとも俺の分まで楽しんできてほしい。

「門出先生、いま時間ありますか?」

 別室で昼食を取ろうとして、美咲に呼び止められた。

「あるけど、どうしたんだ?」

「さっきの数学の試験で、ちょっと自信ない問題があったんです」

 美咲がそのページを開いて見せる。問題文が目立たなくなるほど、黒々と式が詰め込まれていた。目を凝らして、なんとか暗算する。確かに難問だった。

「ここの答え、x=9であってますか?」

「ああ、多分あってるはずだ」

「そうそう、私も同じになったよー」

 横から覗き込んでいた心寧も、同じ結果だったらしい。美咲の表情がぱっと華やいだ。小さな拳を握り締めて、満足そうに頷く。

 そんな矢先だった。

「違うわ」

 少し離れた席で自作のサンドイッチを頬張っていた芽吹が、自らの問題用紙を広げた。駆け寄って覗いてみると、問題文の下方に走り書きの途中式が数本添えられていた。美咲のそれに比べれば簡素だが、しっかりと順序立てて構成された式は誰の目にも正解であると理解できる。その末行には。

「x=3」

「ええ。解いた後にもう一度計算しても、同じ答えに辿り着いたわ」

 芽吹の計算過程にミスはない。俺たち三人は、目を見開いた。

「先生含めて、三人とも間違っちゃったねー」

「……申し訳ない」

 俺の返答だけ聞いて、心寧は芽吹の机の正面に膝立ちで向かい合った。別の問題の解き方を尋ねている。最初こそ『食事中なのだけれど……』と難色を示していた芽吹も、心寧の理解に合わせて丁寧に解説を始めた。

 些細なことでも信頼の増減に繋がる。入塾当初に加賀美室長から聞いたその言葉を思い出した。小さな失敗を逐一悔やむような質ではないものの、今回のミスはしっかりと心に留めておこう。

「大丈夫です、先生。この塾は間違えてもいい場所なんですから」

「それ、俺の言った台詞」

 美咲は、明るんだままの笑顔を崩さずにそう言った。先ほどのミスに加え、生徒に励まされる先生という図もなかなか恥ずかしい。

 よし、と美咲は意気込んで自分の机へと戻った。

「私、もう一度解いてみます! 誰かが教えてくれた言葉なんですけどね、逃げることは簡単だけど改めて向き合うことも大切なんだそうですよ、先生」

 お弁当そっちのけでペンを動かし始める美咲。

 それも俺の言葉なんだが、という突っ込みは彼女の熱意の前に自粛せざるを得なかった。



 五科目全ての試験が完了して、程なく。

 生徒たちは日野原中で開かれているバザーに出向いているため、塾内はいくらか静寂を取り戻している。しかし、全ての戦いに幕が下りたわけではない。

「門出君! 理科の点数入力は終わったかい?」

「あと少しです」

「遅いッ! もうじき生徒たちが帰ってくる頃合いだぞ」

 俺と加賀美室長による採点と入力作業はトップスピードに到達していた。常に隣席から急かされる中で、再びミスをしでかさないよう慎重に努める。

 俺が試験監督を務めている間に、室長は終了した科目の採点に当たっていてくれていたらしい。そのため、前回の採点業務に比べれば俺の担当する分量は少ない。しかし、夕方までに仕上げる必要があるため作業の手を緩めている暇はなかった。

 それでも、細かな点が目についてしまう。

「加賀美室長。今日はアクセサリのついたペンじゃないんですね」

 先月の採点の際とは異なり、ペンの動きに合わせてボールチェーンの擦れる音が聞こえない。それもそのはずで、室長の手元に収まっていたのは無個性な安物のボールペンだった。

「そうだな。何というか、気まぐれで別物を使いたくなる時があるのだよ」

 そういうものなんだろうか。先月は不便承知で愛用していたというのに。

 室長の筆記具は、使用するとき以外はパソコンデスクに備えられたペン立てに収納されている。その中にも、件の桃色の三角形は見当たらない。

「大切なもの、なんですよね?」

「確かに大切だが……もういいだろう、君は入力に集中しておくれよ」

 それを最後に、室長がペンについて言及することはなかった。怪訝に思いながらも、しぶしぶ手元の作業に戻る。

 すりガラス越しに差し込む光が、長く伸び始めた。

 バザーから戻った生徒が引き戸を開くのと、俺が点数の入力を終えたのは同時だった。息つく間もなく彼らを出迎える。先ほど試験が行われた教室では、室長が答案返却の準備を進めていた。

 おおかたの生徒が揃った段階で、人数を数える。

「15、16……あれ、三人足りないぞ」

 集まった面々の顔を見比べなくとも、誰がいないのかはすぐに分かった。

 渡合美咲、倉橋心寧、そして春峰芽吹。その三人だけが、バザーから戻ってきていない。

「どうしよう、まずは親御さんに――」

「遅れてすみません!」

 各家庭の電話番号を調べようとしたタイミングで、美咲と心寧が引き戸の奥から現れた。二人とも息を切らした状態である。

 教室に入るなり、二人は辺りを見渡し始めた。

「ねえ兄ちゃん、めぶきちって、まだ帰ってきてないのー?」

「一度も戻ってきてないけど……もしかして、はぐれたのか?」

「はい。日野原中で見失っちゃって、時間いっぱい探したんですけど、芽吹ちゃんはどこにもいなくて。先に帰ったわけじゃないみたいですね」

 美咲の声は次第にか細くなっていく。

「電話してみた?」

「何回もしたんだけどさ、ずっと『通話中だからかけ直してください』って音声が流れるだけなんだよねー。メールもSNSも繋がらないし、どうしたんだろうね」

 俺と加賀美室長は顔を見合わせる。

 どうしますか、と喉元まで出かけた言葉は、室長の指示の前に不要だった。

「答案返却は私がやっておく。だから君は、春峰さんを探しに日野原中へ向かってくれ。何かあったらすぐ連絡するように、いいな!」

「はい!」

 一も二もなく俺は塾舎を飛び出した。

 日野原中までは走れば二分とかからない。その間にも、様々な憶測が頭を巡る。

 芽吹は時間を忘れて遊び呆けるような奴ではない。だとすれば、芽吹の身に何かが起きているのか、あるいは――いや、推測よりも辿り着くことを優先すべきだ。

 夕暮れに染まる相模原の町を、俺は一心不乱に駆け抜けた。

 






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