1-3 塾講師は鳶職じゃない 3


 教室の中は、独自のレイアウトが施されている。

 中学の教室と比べてやや小さめの部屋に、学習机の面を四台付き合わせた浮島が四つ。浮島同士の間に仕切りはなく、それらを教材の詰まった本棚が取り囲んでいる。個別指導という形態を用いる以上、学校にあるような教室と同様の机椅子の配置と異なるのは必然なのかもしれない。

 通常の授業は生徒二名に対して講師が一人付き、余った机は授業に用いる教材やA4サイズのホワイトボード(解説をする際に使う)を置くスペースになる。しかし今日は人数の関係上、浮島の半面を用いて一対一での授業を行うことになった。

 記念すべきかはさておき、俺の初授業の相手となった女子生徒は、蚊の鳴くような声の挨拶とともにぺこりと会釈した。

渡合美咲わたらいみさきです。よろしくお願いします……」

 ひとたび触れれば壊れてしまいそうな印象の少女だった。緊張しているのか、彼女は俯いたまま押し黙ってしまう。

 さて、どうしたものか。

 手短に挨拶を済ませたのちに、どうすればよいのか分からなくなる。下手に会話の切り口を間違えれば、空気感が途端にお通夜と化してしまうこと請け合いだ。

 現在室長は不在。「少しやらなければならないことがある」と、事務作業に徹してしまっている。助け船は借りれそうにない。

 藁にも縋る思いで箕輪先生(教室内では、先生同士も『先生』と呼称し合う風土である)に目をやると、着信を知らせるスマートフォンのように小刻みに震えていた。

「ヨ、ヨロシクオネガイシマス」

「もう。先生、しっかりしてよー。こっちで古文単語の確認するから、先生は深呼吸でもしてて。十分後に小テスト始めるね!」

 挙句、緊張する箕輪先生から女子生徒が進行を奪う始末。彼女が不安がっておらず、しっかりしていることがもの救いである。これではどっちが生徒か分からない。

 ふふっ、と微笑が聞こえた。

心寧ここねちゃん、流石です」

 出所は美咲だった。

 向こうで繰り広げられている珍妙な光景に、思わず肩の力が抜けた様子である。口元を手で押さえ、儚くもどこか晴れやかな笑みを浮かべている。

 心寧、と呼ばれた女子生徒と目が合った。箕輪先生の肩越しに小さくサムズアップを掲げ、強気な目からはバチンと音が聞こえそうなウィンクが放たれる。あとは頼んだぞ、という無言のメッセージに、俺も親指を立てて返した。心寧に救われたのは美咲だけじゃなく、俺も同じだ。

 彼女、只者ではないのかもしれない。

 だが、これ以上生徒に助けれられたのでは立つ瀬がない。

 ここから先は俺の仕事だ。

「あの子、君の知り合い?」

「はい。日野原中の同学年、倉橋心寧くらはしここねちゃんです。知り合いといっても、よく話すようになったのは入塾してからですけどね」

 笑みを絶やさないまま美咲は答えた。

 綱渡りのような緊張は既に和らぎ、お通夜の片鱗は微塵もない。

 加賀美室長曰く、講師としての第一歩は信頼関係を築くこと。ようやく踏み出せたその工程は、人類にとっては些細な一歩だが俺にとっては大躍進だった。



 雑談もそこそこに授業を進める。信頼関係が大事とはいえ、いつまでも雑談に花を咲かせていたら立派な給料泥棒だ。

 科目は数学。宿題の確認を済ませ、『今日の目標』を立てる。

 目標、といえば大げさに聞こえるが、『授業を通して何が出来るようになりたいかを自力で考えることが自主自立への近道』というのが加賀美室長の方針だ。

「今日は聞きたいことがあったので来ました。この計算問題なんですけど、解き方は分かってるのに何度やっても半分は間違えてしまいます……」

 生徒の手には、既に次の学年の教材が渡っている。学年末試験を終え、現学年の範囲で不安がなければすぐさま次学年の予習に移るらしい。

 美咲の場合、学校よりも早く中三の内容に進んでいた。

「なるほど、分配法則のところか」

「はい。どうも私、この範囲が苦手みたいなんです」

 少ししゅんとした様子で美咲はうな垂れてしまった。

 問題集の開かれたページを改めて見てみる。計算式よりも先に目につくのは、赤いサインペンで書き殴られた『要復習』の文字。貼られた付箋には『解けるまで何度も練習!』と綴られている。問題を写し取り、実際に計算を行ったノートのページにも、所々に付けられた赤いバツが痛々しい。

「あ、あまり見ないでください。恥ずかしいですから……」

 ノートをパタンと閉じて胸元に抱え、縮こまる美咲。ノートが見れないのでは、ミスの理由を分析することもままならない。

 ……この状況で、俺にどうしろと?

 初日から八方塞がりとは、なかなかハードな立ち上がりだ。

 俺はひとつため息をついて、美咲に向き直る。すぐにモチベーションに繋がるような便利な言葉を、新米の俺は知らない。だから、自分が信じてきたものをぶつけていく。たとえそれが、どれだけ捻じ曲がった信条だとしても。

「別に、間違ったっていい」

「……え?」

 見開かれた美咲の大きな目が、恐る恐るこちらに向けられる。構わず、俺は続けた。

「間違うことは悪いことでも悔やむことでも、ましてや恥じることでもない」

「でも……」

「ここで間違えたからって、成績が下がるわけでも死ぬわけでもないだろう? 大事なのは、生きてく中で何回か出会う『間違えちゃいけない時』に間違えないようにすること。今は出来なくても、その時に出来ていればいい。だから、この教室ではどれだけ間違えたっていいんだ」

 おそらく、美咲を苦しめている原因は焦りやプレッシャーにある。苦手意識や、解けなきゃいけない、解けなければ先に進まないと思うことが解ける問題を解けなくしている可能性は否めない。

 まずは、その呪縛から逃れることが最優先だった……それにしては、少し強引が過ぎたかもしれない。

「そうしたら、次は落ち着いてミスの原因を探そう。符号の問題なのか、掛け算で躓くのか、あとは途中式を書き損じるとか。自分の弱点に向き合うのは怖いし疲れるけど、がむしゃらに解くよりかはこっちのが速い……ごめん。少し説教臭くなりすぎた」

「いえ、気にしてませんので……」

 すっかり委縮してしまっている美咲。

 捲し立ててしまったことで逆にプレッシャーになったかもしれない。やっちまったかな、と俺は頭皮を掻いた。

 ここいらで種を明かして、お茶を濁させてもらう。

「あー、なんか赴任初日から色々偉そうに喋ってるけど、実はこれ全部受け売りなんだ。俺が高校生の時にお世話になった先生から教わったものばかりで、俺のオリジナルじゃない。参考にするもしないも、渡合さんに全部任せるよ」

「……なるほど、そうでしたか」

 何に合点がいったのか、美咲の赤い頬に安堵が灯った。守るようにして抱えられていたノートを開き、新しい計算式を書き並べる。快速とまではいかないものの、難題だった式たちは澱みなくぽつぽつと紐解かれていった。

「確かに、あまり新人の先生らしくない言い草だとは思いましたが、それにしては妙に説得力がありました。ひょっとして、先生もその言葉に救われたことがあるんじゃないですか?」

 問題と向き合いながら、顔を上げずに美咲は問う。思いがけないカウンターパンチに、とっさに言葉が出てこなかった。

 高校生だった頃の時間が、記憶の瀬に押し寄せる。

 当時、大学受験に励む俺にひねくれた思想を植え付けた師。真面目な話も、彼の手にかかればなぜか人生になぞらえて語られてしまう。微塵もあこがれを抱いた覚えはないはずなのに、今や指導の際のぶっきらぼうな口調まで似てきてしまっている。彼はきっと今もどこかで、善良な高校生を邪道に導いているだろう。

 この校舎を訪れてからのドタバタで、すっかり忘れていた。

 俺がこの塾ですべきこと。それは――

「先生も沢山間違えて、そのたびに自分に向き合って、正して。そのやり方を信じた結果こうして先生をしているのなら、それはもう門出先生自身の言葉と言っても差し支えないと思いますよ」

 いつしか美咲は回答を終え、解説冊子を参考に答え合わせに移っている。

 正解か否かは、サインペンが曲線を描いて走る音を聞けば十二分に分かった。

「そしてこの瞬間からは、私の言葉でもありますね」

 ノートを埋め尽くす赤い大輪。少女は最後に、柔らかな笑みを咲かせる。

 彼女もまた、切れ者であるらしかった。



 授業も終盤に差し掛かる。

 もうちょっと演習を積ませてくださいと言ったっきり、美咲は計算に没頭した。解消しきれていなかった苦手個所を軒並み潰して回っているらしい。

 閑暇に任せて箕輪先生の方を伺えば、こちらも軌道に乗っているようだ。

「ねー先生。ここの『メロスが激怒した理由を述べよ』って問題、ゼッタイ選択肢『イ』が合ってると思ったんだけど、模範解答だと『ウ』が正解なんだよね。なんでそうなるの?」

「いい質問だね。じゃあ、それぞれの選択肢をおさらいしてみよう! イとウの違いは分かるかな?」

「えっと、それは――」

 開始直後とは打って変わって、だいぶ授業らしくなっていた。

 箕輪先生は喋り倒すようなことはせず、最初は生徒の質問や考えを聞くことに徹している。聞き出すことで、生徒と同じ目線に立ってどこが分かりにくいのかを探るのだ。

 そして、この方法にはもう一つ利点がある。

「――イは『家族以外の人を次々に殺すから』で、ウは『人を信じられないために殺すから』だから……あっ、分かった。先生ー! もう解決したから次の問題に進むねー!」

「はーい。って、あたしが解説する幕ないの!? もしかして、倉橋さんは心の声で解説を聞けるエスパーなの?」

 当の本人は気づいていないようだけど。

 生徒自身が『どこまで理解していて、どこがあやふやなのか』を声に出して伝えるためには、問題に関する情報を一度頭の中で整理する必要がある。不明瞭だったものが鮮明になったことで、あっさり理解が及んでしまうこともあるだろう。だから、今回みたいに解説を聞く前にひらめくということが起こりうるのだ。そうなれば、解説を貰うよりも圧倒的に自信がつく。

 残念ながら、それをうまく引き出すための話術を俺は持ち合わせていない。偶然の産物とはいえ、箕輪先生もなかなかの奇才かもしれない。

 ……この空間、妙な才能に恵まれていない人間って俺だけなんじゃないか?

「計算、丁度終わりました。宿題は今日やった範囲の応用問題でいいですか?」

「ああ、うん。そうしようか」

 美咲の声と授業終了のチャイムが重なった。

 浮かび上がったよからぬ考えは、ウエストミンスターの鐘の余韻に置いていくことにする。



 

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