1-2 塾講師は鳶職じゃない 2


 最初は苦戦していた合格実績一覧を剥がす作業も、段々と手指が感覚を掴み始めた。脚立の上でバランスをとりながら、高所の短冊を撤去していく。

「間違っても落下するなよ。責任問題で私の首が飛びかねないからな」

 加賀美かがみ室長は脚立を押さえている。俺の身体よりも、自分の立場の方が心配らしい。

「だったらポジション代わってくださいよ」

「すまないが、それは出来ない。昔、小学校の社会科見学で東京タワーの上で怖くて失神したことがある。それ以来、高い所はてんでダメなんだ」

 筋金入りの高所恐怖症だった。

 仕方なく手元の作業に戻る。手慣れてくると、段々と飽きてきた。脚立を上がって手の届く範囲の短冊を外し、一旦降りて脚立をずらしてはまた上がる。

 それにしても、枚数が多い。

「こうして見ると、高校ってかなりの数ありますね」

「ああ。県内だけでも二百以上ある上に、県外の私立を受験する生徒だっているからな。あと、同じ高校でも学科ごとに別の短冊を作ってるから三百枚近くあるぞ」

 実数値を聞いて、二度驚かされる。

 これだけ沢山の高校がある中で、受験を終えた生徒が通うことができるのはたった一つだけ。自分の学力と将来の展望に合った高校を、後悔のないように選ばなければならない。

 加えて、九年にも及ぶ義務教育を受けてきた中学生たちが初めて次のステージを選択する瞬間でもある。

 俺はこの仕事の重みを改めて実感した。

 これから人生一度きりの選択を迫られる生徒たちを、果たして俺は正しく導くことができるだろうか?

「どうした? 不安そうな顔して」

「いえ。一抹の不安が脳裏を過った気がしましたが、おそらく勘違いです」

 怪訝そうな顔で脚立の下から見上げている室長と目が合った。

 その表情は、しばらくしたのちに納得の色を帯びる。

 どこか温かく、それでいて懐かしむような眼差しを双眸に湛えて、室長は全てを悟ったようにゆっくりと言葉を紡いでいく。

「なるほど。それは誰しもが通る道だね」

 優しい声色に、思わず視線が室長の方へと向いた。

「選択の自由には大きな責任が伴う。彼らがそれを最初に学ぶ機会こそ、高校受験だ。そこに立ち会う以上、私たちも慎重かつ全力で仕事にかかるのが望ましい」

「はい」

「だが、あくまで最終的に将来を選ぶのは彼らだ。選択が正しかったかどうかは、その後の人生が答え合わせをしてくれる。だから、彼らの選ぶ道を信じて支えるのが私たちの務めだ。私たちは私たちなりに出来ることを可能な限りやる、ただそれだけさ」

「……そうかもしれませんね」

 俺が頷くと、室長は満足そうにふふっと微笑んだ。その一撃が止めを刺したかのように、心に痞えていた不安が癒えていく。

 加賀美室長はメチャクチャな人だけれど、しっかり室長としての器を持っている。この人の元で高校受験に挑める生徒たちが、少し羨ましくなった。

「ありがとうございます。今後ともご指導ご鞭撻の程、宜しくお願いします」

「おうともよ! ——あっ」

「室長? どうしました?」

「一通り喋ってから言うのもなんだが、途端に恥ずかしくなった。頼む、さっきの言葉は全部忘れてくれないか?」

「今更無理です。『選択の自由には』——って、ちょっと! 脚立叩かないでくださいよ! 落ちます! 落ちますから!」

「うるさい、手が止まってるぞ! さっさと剥がし終われ!」

 前言撤回。

 この人に振り回される生徒たちや他の先生方が少しだけ不憫に思えた。



 合格実績一覧の短冊をようやく撤去し終え、一息つく。

 と言いつつも単純作業の繰り返しだったから長く感じていただけで、実際には十分そこそこしか経過していない。

「お疲れさん。報酬は……現物ケーキで前借りしてるからなしでいいか」

「労基が黙っていませんよ」

「冗談だ。君もなかなか言うようになったね」

 子供のようにころころと笑う室長は、大層ご機嫌である。

 一方、俺は消化不良感が否めなかった。

 最後の一枚を剥がし終えてなお、短冊を撤去する必要性が見えてこない。

 貼られていたのは今年度の真新しい合格実績。合格発表の時期から半月しか経過していないため、貼り変えるからというわけでもなさそうだ。また、逐一確認しても誤植の類は見つからず、貼ってあった壁面にも手掛かりになるものは何も見当たらない。

 完全に振り出しに戻ってしまった。

 本当に、理由なんてあるのだろうか?

「また難しい面下げて。年取ったときに小皺が増えるぞ」

 室長は紅茶のお代わりを注いでいる。麗らかな日差しをそのまま閉じ込めたような芳醇な香りが鼻腔を刺激し、考えるより先に手が紙コップに伸びた。

 悠久のような昼下がり、再開である。

「うちも一応客商売なのだよ。無理に強要はしないが、スマイルって大切だぞ?」

「今は推理に集中させてください。ほかに誰も来ないことですし」

「いや、もうじき来るぞ」

 へぇっ? と気の抜けた声が出た。

 受験も落ち着いた三月の、土曜の午後。ホワイトボードの時間割が貼られるスペースにも『本日休業』の紙が代わりに貼られている。またもや冗談の類かと室長の顔色を伺うも、だまくらかそうという素振りはない。

「本来なら君と一緒にオリエンテーションを受けるはずだった新米講師がもう一人いるんだ。遅刻の連絡をもらっているから、そろそろ着くと思うのだが――」

 バァン、と木製の扉が唐突に鳴いた。開いた、というよりは何かが衝突したような響き。少し遅れて、するすると扉がスライドする。

 額を抑えた小柄な女性の姿がそこにあった。

「いいタイミングだ。彼女が新米の――」

「引き戸かよ! ――じゃなかった、遅れてすみません! 本日から勤めさせて頂きます、箕輪楓みのわかえでです。よろしくお願いします!」

 勢いよく頭を下げる彼女に倣い、俺たちも軽くお辞儀を返す。

 多分、『元気』という概念がビジネススーツを着込んだらこうなるのだろう。見ているこちらまで、竜巻を口にぶっ込まれたような勢いが伝わる。さすがの室長も、そのエネルギーに気圧されながら「おお」と言葉にならない声が漏れてしまっていた。

 嵐は二度訪れる。

 顔を上げた箕輪さんは、暴れ散らかしていたショートボブの髪を整えながら弾かれたように喋りだした。

「あの、此度の遅刻、大変申し訳ありませんでした! あたしの家はここから近いんですけど、越してきたばかりで詳しくなくて、『相模原校』と聞いていたので間違えて相模原駅まで出ちゃったんです! 以後気を付けますから、どうかお許しを……」

 あちゃあ、と室長が額に手を当てる。

 見事に、校舎名詐欺の弊害である。三十分の遅刻となれば大ごとだが、これでは責めるに責められない。

「ここが横浜校じゃなくて助かったな」

「……はい?」

「次から気を付けてくれればいいさ。さて、二度手間になってしまったがオリエンテーションを始めよう。ついてきたまえ」

「お許し頂けるんですか?! ありがとうございます! 一生ついていきます!」

 いそいそとパンプスを脱ぐ箕輪さんに、俺は心の中で小さく『やめておけ』と呟く。あの人に一生を捧げたら命が幾つあっても足りなくなるに違いない。オリエンテーションが終わるまでに疲れ果ててしまわないことを祈った。



 俺一人が暇を持て余したので、もう一度短冊と睨み合う。何度見たところで閃くものはない。加賀美室長から「綺麗に取っておいてくれ」と頼まれたため、再度つなぎ合わせたり引きちぎったりはできない。依然、謎は謎のままである。

「門出君、ちょっと来てくれないか」

 粛々とオリエンテーションが行われていた個人面談用の区画から、室長の声が上がる。俺は短冊の謎に向き合うのを諦めて席を立った。

 改めて箕輪さんと互いに自己紹介を済ませる。

 聞けば、彼女は春から大学の同期になるらしい。学部こそ違うものの、越してきたばかりということもあって似た境遇でもあった。助け合って生きていきたい。

 片や、俺の自己紹介は室長が雑に締めくくった。

「何を隠そう、彼は市内有数の脚立の使い手だ。鳶職が必要なら彼を呼ぶといい」

「違います。たまたま本日、高所での作業を頼まれただけですから」

 おー、と箕輪さんが目を見開く……ケーキを頬張りながら。

 この文化、大切にしていきたい。

「じゃあ、今度うちの電球も変えてもらおうかな。鳶職さんに」

「その意気だ、どんどん使ってくれ。今なら教室の脚立も貸そう」

「ありがとうございます! 実はあたし高所恐怖症で、小さい頃に田舎の崖から落ちて以来、高いところダメなんです」

 お前も高所ダメなのか。

 体は擦り傷で済んだんですけどね、と箕輪さんはなぜか朗らかに語る。ライオンの部族のような生活環境と超合金の体を併せ持った生物に、俺は初めて出会った。

 箕輪さん本人曰く、彼女はテンパりやすく、緊張すると声のボリュームが上がるタイプだという。少し慣れてきたのか、先ほどのような勢いも声量もすっかり抜けてきた。

「でも良かったんですか? ホールの六分の一もケーキ貰っちゃって」

「構わない。二ホール用意してあるからね。君と私たちが食べたところで、まだホールケーキ一つと半分残る。遠慮せずに食べておくれ……多かったか?」

「いえ、甘いものは別腹ですから」

 皿の上のケーキがみるみる減っていく。俺でも苦労したのに、一体この小柄な体のどこに収まるのだろうか、と疑問に思うほどであった。

 咳払いを挟み、加賀美室長が再び口を開く。

「君たちにはこれから、授業を行ってもらう」

「……随分と急ですね」

 これには俺も、ケーキに夢中だった箕輪さんも驚く。

 一般的な流れはマニュアルと映像で予習している。だが、相模原校で実際に授業が行われている風景をまだ見たことはない。さらに言えば、生徒と一度も会ったことはないのだ。

 室長曰く、原因の一端は人手不足にあるという。今年度の高校受験を支えた先輩バイト講師が軒並み離れてしまった今、それに代わる講師の育成は急務だった。

 会社としても異例な事態のため、特例で研修期間の短縮許可を貰ったということらしい。

「もうじき新中学三年の女子生徒が二名来る」

「いきなり実践なんですか!?」

「ああ。二人とも平日が忙しいから、振り替え授業を今日で消化するということで合意してもらっている。君たちが担当するのは、その二人だ。今日は初回だから、マニュアルに沿いつつ好きにやってみてくれ。もしまだ難しそうなら今日は解散にして次の出社日にするけど、どうするかい?」 

 ちらりと横を見る。

 戸惑いつつも、箕輪さんは小さくうなずいた。俺もそれに続く。

 ここで働く以上、いずれは通る関門だ。それに、もしかしたら合格実績一覧に関する情報を生徒から聞けるかもしれない。

 覚悟は決まった。

「決まったな。それじゃ、健闘を祈っているよ。門出、箕輪

 慣れないその呼び名を、いつか誇れる日が来ることを祈って。俺たちは教材の準備に取り掛かった。

 

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