1-1 塾講師は鳶職じゃない 1
年度の節目が差し迫る、三月下旬某日。
平坦なバス通りの中程にて、俺は一軒の小さな塾舎の外装を物色していた。
真新しい純白の看板に、でかでかと『
神奈川県内に展開する塾ゆえに安直なネーミングだと思われがちだけど、かつて県内に神奈川宿という宿場があったことにも掛けられているらしい。なぜ宿場なのかといえば、『人生という長い道のりの中で、拠り所かつ通過点になる場所を目指したい』という経営者の願いが込められているそうだ。
初めてそれを聞いたときは思わず「おお」と小さく唸った。俺はこういう洒落た謎かけみたいなものにすこぶる弱い。
雑居ビルの一階を占める校舎は、内外をすりガラスで隔てている。中の様子を伺うには、不自然にそこだけ木製になっている引き戸を開け放たなければならない。
「よし」
俺は気を引き締める。
なにも初めてのアルバイトというわけではない。高校生の頃の長期休暇は、コンサートの設営やイベントスタッフの短期バイトを務めたりしていた。
しかしながら、初勤務となれば少しは緊張もする。今までと毛色の違う職場ともなれば、なおさらだ。
今春から通うこととなる大学の入学式に先駆けて、初めて着込むスーツも未だ慣れない。仕事も同様に、手に馴染むまでにどのくらいかかるのやら。
「大丈夫。俺のすべきことはただ一つ。それさえ見失わなければ問題ない」
自分に言い聞かせ、奮い立たせる。
一歩踏み出し、木製の引き戸に静かに手を掛ける。立て付けがいいのか、するりと開いた。
何事も第一印象が肝心だと、どこかの本に書いてあった。デビューに失敗しないように、家を出る前から用意していた挨拶を落ち着いて声に乗せる。
「今日からお世話になります、
思いがけず、気合を込めた挨拶は竜頭蛇尾に終わった。補足するなら、蛇のしっぽがクエスチョンマークを描いているかもしれない。
室内の光景に、俺は目を疑った。
戸を開けた先には猫の額くらいのロビーが広がっている。
その最奥、扉の斜向かいに構えられた事務作業用のパソコンデスクから、パンツスーツ姿の妙齢の女性がひょっこり顔を出していた。
「ん? ああ、君が今日から配属の新人だね」
すらりとした体躯の美人。格好こそフォーマルなものの、くるりと巻いたセミロングの茶髪や胸元の首飾りに遊び心が見える。
珍妙だったのは、右手に握られた学習塾にそぐわぬ白い物体。
「初めまして。相模原校室長の
「はい、こちらこそ。早速ですが、手に持ってるそれは一体……?」
「これか。見ての通り、生クリームを絞るやつだ。正式名称は知らん」
いや、それは見ればわかりますけど。確か『絞り袋』って名称があったはず。
会釈を終えたその女性は間もなく作業に戻っていた。時折、耳の後ろから垂れてくる長髪を恨めしそうに掻き上げながら、白塗りのホールケーキにクリームの山脈を広げている。よく見れば袖や襟にまで生クリームが付着、もとい、不時着していた。
入る店を間違えたかとも思ったけれど、下足箱の上には春季講習の案内パンフレットが並んでいる。紛れもなくここは塾だ。
戸惑う俺を一瞥もせず、室長は口を尖らせてぼやき始める。
「本当は新人たちへのサプライズとして準備していたんだ。それなのに、君の到着が早過ぎるせいで台無しじゃないか」
「そうでしたか。なんか、すみません」
計画もクリームの塗り方も粗雑さが見え隠れするものの、もしかしたら気さくな人なのかもしれない。ここで働くにあたり、とりあえず悪い上司ではないことを期待したい。
「あと十分そこそこで出来上がる。適当に室内を見学しながら待っていておくれ」
「……わかりました」
視線すら合わせず投げやりに言い放つ室長の眼中には完全にケーキしかない。不明瞭なことは多いものの、とりあえず俺は室長に従うことにした。
派手に出鼻をくじかれて幕を開けた塾講師としての新生活。
最初に立てた目標は、『ケーキより優先される人間になること』だった。
待つこと十分。
その間、俺は塾舎の中を見て回った。
イメージしていた内装とは全く異なっており、空間全体を一言で表すなら『秘密基地』がふさわしい。
全体的に木材を基調としたデザインで、従来の学習塾が持つ無機質なイメージからは想像できないような安心感とゆとりを醸し出している。
ロビーを抜けた先には教室が二つと、衝立で仕切られた自習用の机が立ち並ぶスペースがある。机の天板も木製で、小中学校によくある学習机よりもモダンなデザインをしていた。
そして、講師用の控え室は冷蔵庫やオーブンレンジなどの家電に溢れ、学習塾としては持て余すほどの生活感に満ちている。室長の私物ばかりだというのは聞くまでもなかった。
当の室長は先程まで調理台の役割を果たしていた机を挟んで向かいに座り、イチゴが乗った大きなホールケーキをナイフで六等分に切り分けている。袖についてしまっていた生クリームは綺麗に落ちていた。
「さっきのケーキ、今から食べるんですか?」
「ああ。スイーツも鮮度が命だからな。君も一つどうだ? 別に、食べたからって苦役を課そうとかいうつもりはない。純粋に味の感想を聞かせてくれたら満足だ……うむ、我ながら上出来。星三つ、エクセレント」
紙皿の上に六十度に切り出されたケーキを、室長はすでに頬張り始めている。どこまでも、マイペースで自由な人だ。
「お菓子作り、好きなんですか」
「生涯の趣味だ。腕はまだ本職には及ばないが、職場で作り始めてしまうくらいには好きだぞ」
それより早く食べてくれ、と室長の目が催促する。断面やケーキ表層の造形美が崩れるのを惜しみながら、俺はプラスチックのフォークで一角を切り出して口に運んだ。
「……美味しいですね、これ」
自己評価の高さも納得の逸品だった。安直すぎる感想にも、室長は顔を輝かせて喜んでくれている。
「だろう? 甘くしすぎないほうが、紅茶によく会うんだ」
いつの間にか紙コップに紅茶が注がれていた。勤務初日であることを忘れてしまいそうな、優雅な昼下がりである。
本日は土曜日。室内には俺と室長以外、先生も生徒もおらず閑散としている。
二月までは受験生向けの授業で賑やかしかったものの、受験が終われば土日は社員以外誰も来ないという。新人研修の準備と事務作業という名目のもと、室長は業務の合間に高頻度でお菓子作りに励んでいたらしい。
「そろそろ仕事の話に移ろうか。アルバイトの面接と学力試験は、横浜の本社の方で受けたんだな?」
「ええ。なので、実際に校舎に来るのは今日が初です」
「なるほど。あと、メールで送っておいた仕事のマニュアルと研修動画は目を通しておいたかな? 授業の流れとかで不明点はあるかい?」
「いえ、何も。一通り読んでなんとなく掴めたので」
「よし。それなら、改めてこの校舎について話すとしよう」
そこに続いた室長による説明は、簡潔で要点を押さえていた。改めてこの人の本職が塾講師であることを俺は思い知る。
神奈川塾は『生徒の自主自立』を目標とし、学習指導(基本個別指導。受験対策は集団授業も行う)を軸に、県内の小中学生の学力向上ならびに高校受験合格をサポートする事業である。
その歴史は浅く、会社もまだ発展途上だ。校舎の数も、本社のある横浜に加えて県内北東部の川崎、県央の厚木、南部の平塚、南西の小田原、南東の横須賀、そして北部の相模原の計七つと業界ではかなり少ない。
「さらに言えば、校舎名も詐欺寸前だ」
「そんな法に触れるような名前でしたっけ?」
「使ってる地名が、かなりアバウトなんだ。例えば、横浜校があるのは横浜市内だが、横浜駅から電車で三十分かかる」
「なるほど、そういう類の話ですか。ここも『相模原校』と謳ってますけど、実際は相模原駅から二つ離れてますよね」
「本当はもっと市の中心に建てるつもりだったんだが、リニアモーターカーの開発で地価が上がってしまってね。ちょっと場所を妥協して安くて駅近な立地を探していたら、ここに決まったんだ」
確かに、JR
相模原校は、その他あまり目立った特徴はない。
強いて言うなら、開設から一年足らずであること、室長含めて社員が二人いること、去年までいた大学生のアルバイトは全員就職を機に辞めてしまい、現在は俺を含めて新人が二人しかいないことくらいだ。
「それで、次が最重要。うちの校舎のお得意様は地域最大のマンモス校、
「関係づくり、ですか」
「ああ。信用と信頼は財産だからな。変な噂が立たないよう、校舎内外での行動は模範的なものを心がけるように」
行動規範意識以外にも、中学の校門でチラシを配布したりする業務が中学との直接の接点だとマニュアルにあった。室長でさえ、その際は一挙一動に細心の注意を払うそうだ。
「なんか、色々大変ですね」
「特にこの地域は、中学生の親御さんたちを敵に回すとやっていけない。PTAを起点とした凄まじい情報網がある。一人に嫌われたら全員に嫌われたと思っていい」
恐ろしい業界である。
だけど相模原校は一定の好評を得て、既に十人余りの高校受験生を抱えている。誕生間もない塾としては上々らしい。
「だからこそ、生徒や保護者様とのコミュニケーションは一層大事にしてほしい。信頼は相互理解から始まるからな」
「なるほど。不慣れな部分はあるかもしれませんが、最善を尽くします」
「何か不安なことがあれば言ってくれ。何事も段々と慣れていけばいいさ。それでもまだ不安だと言うのなら——」
室長は机越しにぐっと身を乗り出した。何が始まるのかと思えば、お菓子作りを話題にしていた時と同じ目の色をしている。
こういう時の、あまり良くない予感は恐ろしいほど当たる。
「相互理解を図る手始めに、さっきのケーキの感想をもっと事細かに教えてもらおうかな。平々凡々な『美味しいです』で許されるほどこの業界は甘くないぞ? 甘いのはケーキだけで十分だ。さあ、早く!」
「えぇ……」
色々と、前途多難である。
無駄話を挟みながらも、ケーキの完食と同時にオリエンテーションが終わる。糖分を補給したばかりだけれど、気分的には疲弊の方が大きかった。
「大体分かっただろうか? ひとまず取り立てて説明するのはこのくらいだな。何も質問等がなければ、早速仕事に移ってもらうぞ?」
「いえ、今のところは大丈夫ですが……室長? どうかしましたか?」
つまらなそうに、ぶすっとした顔を向ける加賀美室長。何かヘマでも働いたかなと俺は自らの行動を省みたものの、何一つ心当たりはない。準備も態度も、ケーキへの感想だって及第点くらいは貰えるものを用意したつもりだ。
しかし、俺の懸念は百八十度真逆だった。
「君、全ッ然学生っぽくないな。なんというか、挙動もコメントもそつなくて、年相応の可愛げがない。生き急いでるにしても度が過ぎているというか……ホントに二週間前まで高校生だったのかい?」
「ええ、一応そうですけど」
多少カチンと来た。それでも口から出かけた言葉を飲み込む。
そもそも、学生らしさなんて持ち合わせておくべきなんだろうか。
これから始まる大学生活をもって、学生生活は幕を閉じる。その先は、もう一人前として社会で扱われることになる。
なら、その予行練習に大学の四年間を使う方が賢明なのではないかと俺は思う。学生らしさは早く捨てた方が有利なのだ。
何より、俺は高校時代にかなり自分本位な生活を送っていた経験がある。そんな時代の悪い遺産を新生活にまで持ち越したくはない。
反論しようとした矢先、室長が「そうだ!」と大声を上げた。
「よし、君に初仕事を頼もう。あれを見ておくれ」
立ち上がって、ロビーの壁に指を向ける。そこには『◯◯高校 合格!』と書かれた紅白の短冊(七夕の笹に飾るくらいの大きさである)が天井近くまで敷き詰められており、一つ一つに赤い紙花が添えられている。
今時分どこの塾や予備校でも見る光景で、これを貼る意味は無論、塾のPRだ。
「今月の頭に貼ったばかりの、今年度の合格実績だ。もちろんここを含めた七校舎全ての実績だから、かなりの枚数になる。君にはあれを全部剥がしてもらいたい」
「えっ、剥がすんですか? 何のために?」
「明確な理由ならある。それを解き明かすのも含めて、キミの初仕事だ。期限は次の勤務日まで。そして君がこの謎に挑んでること、はたまたその真相を、他の誰にも明かしたり悟られてはならない。この条件を付け加えよう」
ふふん、と不敵な笑みを浮かべた室長は、すっかり機嫌を取り戻している。
……一体、何が狙いなんだろうか。
てっきり今日は説明だけで終わるものだと思っていたが、勢いで厄介な方向へと話が向かっている。
俺はもう一度、壁の一面を占める合格実績一覧を見上げた。少しもズレがなく、ぴっちりと丁寧に貼られている。これを貼るのも相当な手間だったはずだ。
「なんで俺が理由を考えなきゃならないんですか?」
「ケーキ、食べてしまったよね?」
「さっき苦役は課さないって言ってませんでした?」
「このくらいで苦しむようでは、この先講師としての仕事は務まらんぞ」
逃げ道が一瞬で絶たれてしまった。それも、恐ろしく強引かつ理不尽に。
「まあ好きに考えてくれるといい。よし、今から脚立を用意してくるから、低い所の撤去を先に始めておいてくれ」
講師控え室の奥へと消えた室長を視線だけで見送り、俺は再び壁に向き合った。
……とりあえず、やってみるか。
剥がす意味は未だに分からない。しかし、頼まれた仕事はとりあえず終わらせたかった。それに、剥がしてみれば何か見えてくるかもしれない。
「そういう素直な潔さは可愛げに値するかな。期待してるよ、門出君」
背後から聞こえてきた室長の声はとりあえず無視して、俺は撤去作業に徹した。
勤務初日。バイト塾講師としての幕開けは波乱とか華々しさといった言葉とはかけ離れた、地味な作業と珍妙な謎から始まったのだった。
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