1-4 塾講師は鳶職じゃない 4
「
「ケーキは生憎と品切れ、紅茶ならまだあるぞ。あと兄ちゃんって呼ぶな」
ロビーの一角、個人面談用スペースにて。俺の向かいで件のケーキをぺろりと平らげたのは、箕輪先生の担当していた生徒・
授業が終わって程なく。生徒たちを帰して終わるはずだった業務は、本日何回目か分からない延長戦に突入した。
原因の一端は、目ざとく加賀美室長の特製ケーキを発見してしまった心寧にある。流しにクリームの付いた洗い物が溜まっていたのが仇となった。
そして、今に至る。一体いつになったら俺は帰れるのか。
授業以外の勤務時間はタイムカードに一分単位で記録されるため、この時間も給料は入る……おそらく。目下一番の心配はそこだが、生徒たちを前にしている以上賃金のことは話題に出せない。話を聞こうにも、加賀美室長は未だ事務作業に徹しているため奥に引っ込んでしまっている。
「それで、箕輪先生は?」
「疲れ果ててあっちで伸びてます。何でも、心寧ちゃんが質問攻めしたとかで――」
「あの先生、正直すぎて全部答えてくれたからねー。太宰の生涯から先生の出自、ひいては好みのタイプまで。どう? 兄ちゃんも知りたくない?」
「いい。あと兄ちゃんって呼ぶな」
かくして孤立無援で始まった初めての面談は、一人の生徒に完全にペースを握られて幕を開けた。書くまでもないことだが、既に俺も疲れ始めている。一時間強を戦い抜いて伏した箕輪先生は敬服に値する。
この心寧という生徒、根はしっかりしているものの、自分が引っ張っていく必要のない時は自由奔放の塊と化してしまう。相対的な立場をはっきりさせて態度を変えていく様は、さながらイヌか何かのようだ。
ケーキを完食するまでのわずかな時間。それが終われば二人を家に帰し、長かった初勤務日に幕が下りる。濃密な一日だった。室長に放置され、ケーキを食わされ、合格実績の短冊を剥がし――
あっ、と小さく声が漏れた。
今の今まで忘れていた。まだ、片付けておかなければならないことがある。
「ねえ、二人とも。ロビーに貼ってあったごうッ……」
慌てて思い出す。直接その話を聞くのは御法度だった。
「どうかしましたか?」
「……最近、何か変わったことはないか?」
我ながら、かなりアバウトな探りである。生徒とのコミュニケーションを重ねるにつれ、こういった話術もいつかは上達するのだろうか。
「変わったこと、ねー。あっ、美咲のケーキの食べ方!」
びしっと指をさしながら心寧が叫ぶ。当の美咲は、綺麗に切り取られたケーキの一角を口に運びながら小首をかしげた。
「へ、変ですか?」
「変だよー! だってケーキの主役は上に乗ってるイチゴだよ!? 真っ先に食べてあげるのが供養ってもんじゃないのー?」
そんな話は生まれて初めて聞いた。
シシャモやたい焼きは頭からというのは度々聞くけれど、ケーキの上のイチゴを供養する輩がいようとは。まあ、イチゴも次の世代を芽吹かせると考えれば、供養する必要がないとは言えない。
「食い方は人それぞれでいいんじゃないか?」
「あと兄ちゃんも変っ! なんか新人さんっぽくないしー、世の中の酸いも甘いも一通り嚙み分けてきたおじさんみたいなことばっかり言うし」
「心寧ちゃん、それ以上は……確かにそんな感じではありましたけど」
ひどい流れ弾を食らったような気がする。
室長からは学生らしくないと詰られ、生徒からは新人らしくないと宣われ、はてさて俺はどんな心構えで教務に臨むべきなのか。そして美咲、なだめるなら肯定するな。
彼女らも無自覚だろうけど、存外生徒は俺たち講師をよく視ている。だから、心寧に言い当てられた時は内心かなり焦った。心寧は今もなお、兄ちゃんって何者なの? とこちらに視線を寄越す。兄ちゃんって呼ぶな。
これ以上踏み込まれるのが怖くなり、俺は話を畳んだ。
「講師としての在り方も人それぞれでいいんじゃないかと言いたいところだけど、違和感や不満があったら何でも言ってくれ。これからも講師を続けていく以上、可能な限り君たちの役に立ちたいからさ」
「そんな台詞を落ち着いて言えちゃうところも年の功なのかなー? まあ、それも兄ちゃんの持ち味だよ。私は嫌いじゃないよー、そういうの。今後ともお互いうまくやっていきましょうや兄ちゃん」
「だから兄ちゃんって呼ぶな」
結局、合格実績の謎に関する収穫を得られないまま、生徒たちを玄関先へと見送る運びとなった。
未だ復活しない箕輪先生にさすがに負い目を感じたのか、心寧は心配そうにロビーで介抱に当たっている。玄関口には、俺と美咲が残された。
「今日はありがとうございました」
「いや、こちらこそ。休日なのにご足労ありがとう」
「いえいえ。家にいるよりも楽しかったです。本当は、もう少し残っていたいくらいなんですけど……」
美咲の表情が曇る。
「家で何かあったのか?」
「……はい。今、お母さんがちょっとピリピリしてて。うちの母、PTAで役員やってるんですけど、先輩たちの卒業式の後から様子がおかしいんです」
「あー、その話私も知ってるー」
ようやく体を起こせるようになった箕輪先生を引き連れて心寧が姿を現した。未だ足取りがおぼつかない講師の肩を支えて歩く様を見ていると、またもやどちらが先生なのか分からなくなる。まあ、箕輪先生がぐったりしてしまった原因は百パーセント心寧にあるのだが。
「卒業式中のトラブル対応に関して教師と保護者の間で揉めに揉めて、いまPTA活動は絶賛ストライキ中なんだってさー。私が言うのもなんだけど、お互い頑固で子供っぽいよねー」
心寧の話によれば、きっかけは細事だったという。
卒業生に在校生、保護者来賓とおびただしい人口密度で行われた卒業式。卒業証書を渡す呼名の最中に、酸欠で在校生のひとりが倒れてしまった。早急な換気の必要性が来場した保護者たちから叫ばれる中、あろうことか学校側は呼名を続けてしまったらしい。幸い、倒れた在校生はすぐに保健室で療養し、一時間弱で回復。式もその後は粛々と続行した。
式の終了後、抗議の色を示した保護者への学校側の対応がさらに不評を呼び、現在の状態になったのだという。
卒業式から一週間が経過した今なお、一触即発の状態が続いているらしい。
「入学式までに折合いがついてくれるといいんですけど……」
「それなら心配いらないよ」
パソコンデスクの奥に鳴りを潜めていた加賀美室長が、いつの間にか背後に立っていた。口を開いた瞬間に放たれる圧倒的な存在感に、軽く驚く。
皆の視線が彼女に集まった。
「学校側はもう既に謝罪の用意を始めている。入学式のPTA代表挨拶までストライキされては困るからね。代表を中心とするPTA幹部たちも事態の収束に向けて動き始めたらしい。新入生たちの親御さんに示しがつかないことになるのはどうしても避けたい手前、今になってお互い焦り始めたんだな。これ以上、関係が悪化することはないだろう」
「だってさー。よかったね美咲」
「……はい!」
陰っていた表情に明るさが戻った。美咲は心寧に比べて口数こそ少ないけれど、喜怒哀楽が直接顔に出るからわかりやすくて助かる。
ようやく箕輪先生を自力で立たせることに成功した心寧が、ちょいちょいと俺の袖を突いた。
「そういえばさー、あの子ってどうなった?」
「あの子?」
「うん。軒先で入塾書類をぼーっと見ている女の子がいたから連れてきたんだけど、あの後どうなったのかなーって思って。先生は知らない?」
ああその子なら、とまたもや割って入ってきたのは加賀美室長だった。この人に知らない物事はないのかもしれない。フリー百科事典のライターでもやっているのだろうか。
「とりあえず入塾テストを解かせてみたんだが、なんと英数合わせてものの二十分で完答してしまったんだ。こちらがケーキを用意する間もなく『入塾はもう少し検討させてください』とだけ残して帰っていったよ。この辺じゃ見たことのない不思議な子だった。きっと春の幻か何かだったんだろうね」
入塾手続きに失敗した言い訳がメルヘン過ぎますよ、室長。
確かに、幻じみた現象である。入塾テストに設けられた時間は、英語数学占めて一時間。分量も少なく基本問題しか出てこないとはいえ、まさか三倍速とは。
赤いジオン軍のモビルスーツがテストを受けている光景が脳裏に浮かんだ。
「まあ、きっとまた来てくれるだろう。その時はぜひ君たちに迎え入れてほしい。君たちと同じ新中三だそうだから、どこかで会うかもしれないしな」
はい、と二人の生徒は強くうなずいた。会釈をし、木製の引き戸に手を掛ける。授業開始時よりも彼女らの背中は心なしか大きく見えた。
「じゃーね兄ちゃん!」「今後ともよろしくお願いします」
引き戸が締まりきるまで、俺たちは暮れなずむ町の中へと遠ざかる二人の姿を見送った。全快した箕輪先生は手をぶんぶん振り、加賀美室長は腕を組んだまま仁王立ちを続けている。雰囲気に当てられて、俺も小さく手を振った。
暫しの静寂。それを突き破ったのは、室長の拍手だった。
「これで今日の業務は終了とする。二人とも、お疲れさん」
一気に全身の力が抜け、俺と箕輪先生は地べたにへたり込んだ。終業を告げるチャイムが、さながら試合終了のゴングのように響き渡る。
何に勝って何に負けたのかは、俺にもよく分からない。
ふと、アルバイトの面接での一幕を思い出した。
本社ビルの会議室。四十代くらいの男性(覚えてはいないけど、多分人事課長だった気がする)の向かいに座るのは、卒業式から一夜明けてなお、学生服姿で肩を強張らせた二週間前の自分。
――門出窓太君だね。とりあえず、応募した動機を聞かせておくれ。
抑揚のない声で最初に投げかけられたのは、当たり障りのない質問だった。履歴書に書いてあるのだからそれを読んでくれ、と不平を垂れることはせず、俺も淡々と機械的に返した。
『高校三年間は、完全に自分のために時間を使いました。刺激的な日々を過ごし、学習面もそれ以外も概ね充実していたように思います』
面接官は相槌を挟みながら親身に聞いてくれている。
『だから、自分の享楽のための時間はもう終わりにして、これからは未来を担う若い世代のために時間を使いたいと考えています。第二の人生というやつです』
人生の第二タームです、の方が良かっただろうか。余生の嗜み感覚でバイトに来られても困惑するだろうと思いつつも俺は言い直さなかった。
案の定、面接官は眉をひそめている。
――なるほど。僕からすれば君もまだ相当な若造だが……まあいい。じゃあ、次の質問に移ろう。どんな先生になりたいのか、簡潔に教えてほしい。
この質問に対しての答えも、あらかじめ用意してあった。
『指導方法に関しては現場の先輩を参考にしながら、最善のものを提供できるよう努力します。ですがそれ以前に、生徒の模範になれるよう、学生気分を捨てて信頼のおける社会人としての振る舞いを心がけようと思います』
面接官の眉間のシワの数が増えた。今にしてみれば『なんだコイツ』と口に出さなかった彼を褒め称えたいまであるが、当時の俺は自分の台詞に一切のむず痒さを覚えなかったのだ。
なぜこの人は不満そうなんだろう? 不審に思い、俺は言葉を続けた。
『そして――していくことが――私の役割です。違いますでしょうか?』
それを言い終わるころには、面接官の眉間のシワはすべて消えて無くなっていた。
壮絶な初日を経た今ならわかる。
この後に続いた言葉が、採用を勝ち取ったのだ。
誰かの話す声がノイズのように脳内に走り、意識が現実へと引き戻される。
「それにしても加賀美先生、PTA絡みの事情なんてよく知ってましたね。あたしじゃ絶対にあんな受け答えできなかったなぁ」
「なに、偶然だよ。怒涛の保護者面談期間を終えたばかりだからお母様方の愚痴はあらかた聞いているし、日野原中の教員にも古いダチがいるんだ」
茜空の下。平坦な相模原の町を歩く上司と同僚の姿が目に入った。
聞くところによれば二人とも徒歩通勤であり、家も俺の住むアパートの近所であるらしい。仕事を終えて駅から住宅街へと向かうサラリーマンの緩やかな波に身を委ね、途中まで同じ家路を三人で辿る。
この光景もいつか、新たな日常になっていくのだろうか。
「そういえばさぁ、門出先生って実はベテランだったりするの? アドバイスとか、生徒との距離感とか、なんか凄く手馴れてる感じだったし。何よりも、終始落ち着いてたのが凄いなぁって思った」
前を歩いていた箕輪先生が振り向きざまに尋ねる。ショートボブの髪に夕日が差して、稲穂のような黄金色に染まっていた。
「いや、今日が初めて。加賀美室長には信じてもらえなかったけど、ついこないだまで高校生。授業だって、箕輪先生の方が何枚も上手だ」
「そうかな? 緊張してうまくできた自信がないんだけど……」
「あそこまで生徒の親身になってくれる先生はなかなかいない。俺も今度から箕輪先生を見習って精進するよ」
いやぁ、そこまで褒めなくても……と体をくねらせて大げさに照れる姿は、見習わないことにする。
箕輪先生の場合、天真爛漫な普段の姿と授業中とで頼もしさには雲泥の差がある。だけど、不思議とそこにギャップやスイッチのオンオフに近しいものは感じない。彼女が素の状態で見せる無邪気な明るさが、生徒と目線を合わせて悩みに寄り添うための近道なのかもしれない。
遅れて振り返った加賀美室長は、俺たち二人を見比べてふっと笑みを浮かべた。
「私も少し授業風景を覗いていたのだがね。無論、君の授業にも美点はあった」
浅くまどろむような春の夕日の中でも、加賀美室長の双眸はぴりっとした凛々しさを湛えている。と同時に、漏れ出でる光は仄かな慈しみを含んでいるようにも見えた。まるで自らの生徒に向けるような、厳しくて優しい目。
「……美点、と言いますと?」
「君自身の人生を糧に、言葉を届けたことだよ。自分で気づいていなかったのかい?」
恩師からの受け売りのくだりのことだろうか。
窮地で必死に探した言葉。それが借り物だというのは、今でも力不足な気がしてならない。でも、それは美咲の言った通り、俺が信じて糧にしてきた言葉だった。一人の人生を変え、支え、今なお生き続けている教えはその重みを保ったまま、次の世代へと受け継がれる。
「私たちは『先に生まれた』と書いて先生だ。中国語なら『老師』と書くらしい。偉そうな肩書に見えるが、単なる年長者という以上の意味はない。だから私たちは、ちょっと長く生きてる分だけちょっと多く知っていることを、ちょっとだけ言葉に込めて伝えるのが最低限かつ最大限の仕事なんだ」
ふいに、幾つもの言葉が蘇る。
『選択が正しかったかどうかは、その後の人生が答え合わせをしてくれる』
『それはもう門出先生自身の言葉と言っても差し支えないと思いますよ』
『まあ、それも兄ちゃんの持ち味だよ。私は嫌いじゃないよー、そういうの』
ヒントはずっと傍にあった。
二週間前、面接の最後に放った言葉。力強く念を押したものの、あの時は自分の中でまだ迷いがあった。『違いますでしょうか?』と締めくくったのが、何よりの証拠だろう。自らに向けられたその問いに、やっと答えが出せる。
『そして、学生らしくあることを捨てたとしても、学生として今に至るまで生きてきた人生を捨てるつもりはありません。自らが得た知見や導き出した答えをもとにして、羽ばたくための力を次の世代へと継承していくことが、高校生活を全うした私の役割です。違いますでしょうか?』
シワの消えた面接官は、違うともそうでないとも言わなかった。
――そうか。君は大層素晴らしい高校生活を送ったようだね。
はい、と二週間前の俺は大きく頷いた。
……継承?
その言葉に、今まで燻っていたものとは別の引っ掛かりを覚えた。
「あっ」
不鮮明だった思考を、一条の光が貫く。そうか、そういうことか。
「どうした、門出君」
急に立ち止まった俺を不思議そうに眺め、加賀美室長が尋ねる。
果たして、推理モノの名だたる主人公たちのような決め台詞はどのようにして生まれてきたのだろうか。即座にスベらないクオリティのものを思いつく才能を俺は持ち合わせていないので、手短に言いたいことだけ伝える。
「室長。次の勤務日、少しだけ早く出勤します。答え合わせをさせて下さい」
いいだろう、と力強い首肯が返ってきた。
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