1-5 塾講師は鳶職じゃない 結


 三月も、晦日まで数えるばかりとなった。

 駅から続く桜並木の蕾も、日に日にその赤さを増し始める。さながら開花のためのエネルギーを蓄えているかのようだ。

 麗らかな季節の中、来たる新年度に備えて呑気に浮かれてばかりいられないのが教育業界の悲しき現実である。日曜を挟み、意気込んで早めに塾舎へと訪れた翌勤務日の月曜。ティータイムに興じる暇もなく、俺は忙殺の中に放り込まれた。四月に向けて蓄えていたはずのエネルギーはすり減る一方だ。

 加賀美室長は昨日も塾舎に来ていたらしく、その表情から疲れが見て取れる。

「なあ門出君、師走って三月のことだったっけか?」

「違いますけど……なんかそんな気がしてきました」

 ロビーの最奥。俺と加賀美室長はパソコンデスクに向かい、ひっきりなしに手を動かす。冗談交じりにぼやきながらも、室長のペンは走り続けている。

 一体何をしているのかと言えば、昨日行われた模擬試験の答案処理だ。

 業者に頼むことも出来ないわけではないけれど、こちらで済ませた方が試験の分析結果が早く帰って来る。サインペンとマウスを何度も持ち替え、紙面での採点とパソコンへのデータ入力を息つく間もなく繰り返す。合格実績一覧を剥がすことにも増して地味な作業だ。

 おまけに、集中を欠けば加賀美室長の筆記音が気になってしまう。単にペンが走るだけの音なら慣れたけれども、室長のペンにはボールチェーンでアクセサリーが繋がれており、手の振動に合わせて擦れて音を立てる。

「それ、書いてるとき邪魔にならないんですか?」

 どうにも気が散って仕方がないので、俺は尋ねた。

「君が聞いてるのって、これのことかな」

 仕事の手を一旦止めて、加賀美室長はペンに付けられたアクセサリーを指す。

 厚さ数ミリのプラスチックの板だった。赤と桃色の中間のような色で、形状は一辺が一センチ半の小さな正三角形。端の一か所だけくり抜かれた穴に細いボールチェーンが通り、ペンのキャップに繋がれている。

 初めて見る装飾品だった。

「私がこの会社に来る前、別の場所で先生をしていてね。当時の生徒に貰った初めてのプレゼントが、このアクセサリーなんだ。ペンに付けていると多少書き辛くはあるが、なんとなく肌身離さず持っておきたくてな。これがどうかしたのか?」

「……いえ、別に何も」

 誰かの宝物に苦情を付けるような野暮なことはしない。適度に小休憩を挟んだところで、再び作業に戻る。

「よし、峠も超えたことだしイッキに終わらせるぞ。年度の暮れも締め切りも待ってくれないからな。さあ突っ走れ、あの夕日に向かって!」

「室長。まだ昼の二時です」

 言われるまでもなく、既にトップスピードである。



「やっと終わった……」

 パソコンデスクに伏した影が一つ。またの名を、電池の切れた加賀美室長とも言う。

 俺も多少疲れてはいるけれど、まだ幾分か体力に余裕がある。作っておいた紅茶を給湯器から注ぎ、そのまま口内を潤す。まだ少し熱いけれども、酸素と水を渇望していた脳が徐々に満たされていく。

 あれから格闘すること数十分。

 模擬試験の結果データを会社に送信し、答案用紙も郵便局から発送し終えた。ミスが許されない仕事の中、初めてにしては大健闘だったと思いたい。

 とはいえ、後で聞いた話によれば受験期の繁忙さは今日の比ではないらしい。来年の冬に備えて、少しでもこなせる仕事を増やしておきたいところである。

 俺は講師控え室に貯蓄された紙コップをもう一つ取り出して尋ねる。先日の講師控え室は剥がした合格実績の短冊が大量に積まれていたけれど、今日は影も形もない。赤い紙花の厚みのせいで無駄に嵩張っていたそれらが一気になくなると、ぽっかりと出来上がる空間が少し寂しく見える。

「加賀美室長。紅茶、要ります?」

「うむ。頂こう」

 幸い、一限目の授業が控えているのは一時間後。一呼吸つく時間があることは大きな救いだった。加賀美室長も紅茶から英気を養ったようで、ようやく机から頭を浮かした。

「ふう、生き返る」

 熱さと格闘しながらちびちびと紅茶を飲む室長を中心として、ロビーを取り巻く空気は既にまどろみの中にあった。紅茶は熱湯で入れるのが定石だけど、意外にも猫舌を無理してやっている趣味なのかもしれない。激務の後ということもあり、このスピードで流れる時間が一層愛おしい。

 けれども、そう長くは続かなかった。

「よし。一服ついでに、『答え合わせ』とやらをお聞かせ願おうかな」

「……これまた唐突ですね」

「当然だ。何のために仕事を巻きで終わらせたと思っているんだ」

 しっかり整えられた舞台で推理をお披露目させてもらえる津々浦々の探偵たちは恵まれているのかもしれないと俺は思った。

「わかりました。なるべく手短に済ませます」

「そうしてくれると助かる」

 勿体ぶらず簡潔に、そして何よりも分かり易く。指導マニュアルに書いてあった文言を心の中で復唱する。探偵役を気取る前に、俺は塾講師なのだ。

 よし、と気合を入れ直し、俺は紅茶の半分入った紙コップを机に置く。中身が完全に冷め切るまでには終わらせたい。



 さて、と話を切り出す。これが様式美だと聞いたことがある。

「今回は大きく分けて二つ、順を追って話します。一つ目は、なぜ教室内の合格実績を全て剥がさなければならなかったのか。もう一つは、なぜ室長は俺に秘密裏に謎を解くよう仕向けたのか、です。俺が任された仕事はこの二つで間違いないですか?」

 加賀美室長は無言で頷く。

「では、まず合格実績を剥がす目的についてです。俺は最初、誤植か何かを正すためだと思っていました。ですが、それなら全体を剥がすことはせず、誤植のある短冊だけを入れ替えれば済みます。それに見たところ誤字脱字等はありませんでした」

「君、ひょっとして全部確認したのか?」

「いえ。一枚一枚剥がしていれば嫌でも目に入りますから」

「嫌だったのか……」

 終わりの見えなかった作業も、今では苦い思い出である。

「ならば剥がす目的は別にあると考えた方が自然です。そこで注目したのが、室長の『綺麗に取っておいてくれ』との指示でした。とあれば、おそらく剥がした短冊は捨てずにどこかで再利用されるのでしょう」

 そして、それは校舎内であるとは考えにくい。ロビーでさえ猫の額ほどの広さにぴっちり敷き詰めて貼っていたのだ。教室に貼ったとしても生徒の目には着くが、既に壁の大半を本棚が占めており、教室内に貼り替えることは不可能だろう。

 何より、玄関から入ってきた入塾希望者の目に一番止まりやすいのがロビーなのだ。PR効果を期待するならロビーのほかにありえない。

「では、どこで再利用されるのか。俺は遠方という可能性はないと考えています。郵送するなら、さっきの模試と一緒に郵便局に持っていけばいい。室長だって、一日に二度も郵便局を往復したくはないでしょう」

 昨日は日曜。郵便局は閉まっているため、昨日のうちに発送したということも考えにくい。また、この校舎は通行量の多いバス通り沿いに建てられているため、何者かが路上駐車して回収しに訪れたと考えるのも難しい。だから、ここから徒歩で行くことのできる距離であると俺は踏んでいた。

 そのため、相模原校以外の神奈川塾の教室や本社である可能性も低いと俺は見ている。ほかの拠点は全て市外であり郵送が必須だ。何より苦労して作成したPRを損ねてしまうことは会社にとって不利益である。

 加賀美室長は紙コップを片手に無言で聞いている。少し紅茶が冷めてきたのかもしれない。俺は話を急いだ。

「話を少し変えます。一体、近方の誰が短冊を要していたのか。そもそも、この塾内に合格実績一覧の短冊が貼ってあることを知っている見込みのある人間は稀です。俺たち職員を除けば、生徒や保護者、広く見積もって教育関係者くらいでしょう」

 塾舎の内外はすりガラスが隔ているため外からは見えない。必然的に、この塾を出入りする人物にスポットが当たる。

 しかしながら『この時期はどこの塾にも合格実績が貼られている』という想像は容易い。特に中学・高校教育に携わるような教育関係者であれば、塾と密接に関わるという仕事柄上尚更だろう。

「ここからさらに絞り込むには、また動機から推察するほかありません。単純に考えて、日常の中で合格実績一覧の短冊一式が欲しいというケースは皆無です。単に神奈川塾の実績が知りたいなら三百枚の短冊でなくともネットやパンフレットで公開しているデータ集で事足りますから」

 そうだねぇ、と適当な相槌が返ってきた。

「ですが、それはあくまで日常に限った話です。非常下では何が必要になるかは変わってくる。聞けば、近所の教育施設で前代未聞の出来事があったそうじゃないですか」

「日野原中のPTAストライキ騒動だね」

 はい、と首肯する。室長はあらかじめ答えを知っているため、こうした返答がすぐ帰って来るから話を運びやすい。

「それが絡んでいるとするならば、今回頼み込んできたのはいざこざの関係者である中学職員か保護者の可能性が高い。詳しい動機はあとで説明しますが、それを鑑みてもこれ以上は絞り切れませんでした」

「流石だな」

 加賀美室長の目は笑っている。一昨日の帰り道と同じ、凛々しさと温かさを静かに灯して。

「そこまでたどり着けたのなら、あとはこちらで言わせてもらうよ。依頼主は日野原中の教員だ。これは塾というか私のポリシーなのだが、一人の保護者や生徒を贔屓したりは絶対にしない。だから、この件が保護者からの依頼だったのなら引き受けなかっただろうね」

 茶のお代わりを貰おう、と室長は席を立った。

 俺は確信する。やはりこの人は、どこまで行っても塾講師なのだ。

 

 

 すっかり冷めてしまった俺の分の紅茶を一気に呷り、室長の分と一緒に新しく注ぎ直す。長々と喋りすぎた口が潤いを求めていたため、タイミングの良さに俺は密かに感謝した。

「では続きを頼む。動機についてだったかな」

「はい。これが今回の最大の謎でした。亀裂の入った学校側とPTAが、なぜ三百枚近くの合格実績一覧の短冊を欲するのか」

 一度咳払いを挟み、俺は続ける。

「両者は今、一週間後に控えた入学式に向けて和解を試みています。和解できたとして、PTA代表挨拶などは突貫工事で作成しても事なきを得るだろうと踏んでいますが、入学式のPTAが関わる部分で今から動いたのではどうにもならないものが俺の経験上ひとつだけあります」

 ここからは経験に基づいた単なる推測ですが、と断りを入れておく。あくまで俺の出身中学がそうであったため、日野原中が同じやり方をとっているかは定かではないからだ。

「新入生の胸を飾るコサージュ。その製作を、例年ならPTAが担当していたんじゃないですか?」

 俺の卒業した中学では、卒業式と入学式の胸飾りをPTAの有志が製作していたのを微かに覚えている。毎年のデザインが広報誌にて紹介されていたのだ。

「学校とPTAの対立は卒業式の後からです。そこから現在に至るまでストライキが続いているなら、当然製作は間に合いません。ただ『今年度はコサージュなしで』というわけにはいかないでしょう」

 あれは卒業生・新入生を祝福する以外に、在校生と判別するために付けているのだと聞いたことがある。記念にもなって式の運営も助ける、まさに一石二鳥のアイテムなのだ。

「学校側は当然焦ります。職員が仕事の合間に作ったのでは到底間に合わない。何せ地域一のマンモス校ですから新入生もそれなりの人数がいるはずです。完成品を買おうにも余計に出費がかさむ。そこで考えたのでしょう、無料でコサージュに近しいものを人数分確保する方法を。真っ先に白羽の矢が立ったのが、合格実績の短冊に付けられた――赤い紙花だったというわけです」

 紅白の短冊一つ一つに添えられた紙製の花。占めて、約三百個。学校側の狙いは短冊そのものではなかったのだ。

 俺がこのアイデアに至った経緯として、実は心寧の『だってケーキの主役は上に乗ってるイチゴだよ!?』という台詞から着想を得ている。公言はしないが、感謝しておくことにする。

「うむ、概ね正解だ。第一問突破、といったところかな」

 短冊は式が終われば返してもらうことになっている、と呟いた加賀美室長は表情を一切崩さない。第一問、という言い草に催促を感じて、俺は小休止を挟まずに第二問に取り掛かった。

「では次です。なぜ秘密裏に俺に調査させたのかということですが、単に大ごとにしたくなかったんですよね?」

 公立中学と一学習塾の間に貸し借りの関係が出来れば、当然批判の目も向けられるだろう。他塾の職員やそこに通う生徒や保護者はいい顔をしないかもしれない。

 確かにこれで筋は通る。しかし、ただ一人だけ『別に知らなくてもいい人物』が真相に辿り着いた理由だけが説明できない。

「なら、なぜ室長は俺に推理させたのか。見当は付いてますが、これまた憶測の範疇を超えません」

「構わない、続けておくれ」

 ごくりと唾を飲む。この答えを間違えてしまった場合、間違いなく羞恥で立ち直れなくなる。しかし、ここまで来てしまえば引き下がれない。

「神奈川塾の掲げる『自主自立』が関係しているんじゃないですか?」

「ほう」

「自分で言うのもなんですが、俺は一昨日の初授業を前に生徒とのコミュニケーションに自信がありませんでした」

 今なら自信があるかと聞かれれば、そういうわけでもないけれど。

「だから室長は、そんな俺を追い込んだ。是が非でも話を弾ませ、情報を聞き出さなければならないない環境に。即戦力が欲しいとはいえ、とんだ荒療治です」

 生徒との何気ない会話が役に立つことは多い。今回の件もそうだった。

 合格実績の話を自分から切り出せないとなれば、アバウトに探りを入れるしか方法はない。しかしその甲斐もあり、一日で生徒との距離はかなり縮まった。

 ふむ、と加賀美室長は唸る。

「箕輪先生に挑戦権を与えなかったのは何故かな?」

「恐らく性格の違いかと。彼女、俺と違って素直で明るいですから」

 俺がここまで答えた直後、室長はロビーに響き渡る声で笑い出した。抱腹絶倒である。『君がハッ、自分でそれを言うかッ、ひっひひ……』と、優雅に紅茶を嗜む姿からは相当にかけ離れた、腹をよじらせるような笑い方だ。

 目じりに溜まった笑い涙を拭いながら室長はなんとか声を発する。

「性格の違いによる最適な接し方は、長年色々な生徒を見ていれば分かるのだよ。美咲みたいなタイプは肩の力を抜かせつつ自信を持たせる、箕輪先生のタイプなら何気ないテクニックをひとつだけ仕込むとかね。そうすれば彼らは自主的にぐんぐん成長する」

 なるほど。箕輪先生の手腕が巧みだったのは、俺と違った仕込みを室長から伝授されていたからなのか。

「俺みたいなタイプは?」

「時々いるんだよ。純朴と見せかけて腹に一物抱えてそうなタイプ。そういう奴らは挑発して試練を呑んでもらい、熱中させるに限る。下手にあれこれ言うより自分で苦戦して掴んでもらう方がよっぽど効くんだ」

 出来れば聞きたくなかった、恐ろしい矯正法である。

 しかし、似たような経験から成長した試しは幾例か持ち合わせているため、反論が出来なかった。

「第二問、クリアだな」

 試練を乗り越えたはずなのに、まだ室長の掌の上にいる感覚がある。

 ベテラン講師への道のりは、果てしない。



 三杯目になる紅茶を冷ます。電気ポットに火を入れておいたはいいが、予想以上に中身が熱くなってしまっていた。

「今回の件で、俺にもまだ腑に落ちない点があります」

「そうかい? ほとんど正解だったけど」

 室長も同様に、湯気の立つ紙コップを放置させていた。

「イレギュラーとはいえ、一学習塾がここまで中学に献身するものなんでしょうか? 関係性が大事なのは知ってますが、これは度が過ぎているかと」

 先ほどの懸念通り、ことが明るみになっては一大事である。中学との信頼関係を気に掛けるあまり神奈川塾としても相当なリスクを抱えてしまった。数ある塾のうち一校だけが公立中学と親密になるということは、あまり褒められたものではない。

 分かっているさ、と加賀美室長は溢した。

「君も聞いていたかな、あそこには古いダチがいるんだ。学生の頃に散々助けてもらったから、出来る時に借りを返したかったというのが一つ」

 それに、と言葉はまだ続く。

「目を閉じて想像してほしい。桜満開の並木道、希望を抱いて歩む新入生。その胸に光るのは、先輩たちが三年間の苦労を積み重ねて掴み取った合格の証。去り行く者から来たる者へ、思い出とともにバトンが渡る。そんな光景を私も見てみたかったのさ」

 それは紛れもなく、俺が目指した『継承』の形だった。

 踏みしめて歩いた三年間を、次に歩むであろう誰かのために役立てる。

 年長者として道を切り開いても、全く同じ道を歩む人はいない。だから『次は君の番だ』と背中を押す。その先に、彼ら自身しか掴み取れない未来があると信じて。

 室長の凛とした視線が突き刺さった。

「人事課長に代わって、もう一度問う。初日の勤務を経て、君はどんな講師になりたいのかね?」

 ヒントは既に沢山貰っていた。俺は胸を張って答える。室長に。あの時の人事課長に。そしてかつての自分に届くように。

「俺の生きた年月を次の世代に託す。その思いは変わりません。ただ、その中で俺も学び成長すること、信頼関係を築くこと、そして自分の過去と現在に自信を持つことは絶対に貫きます。この教室にいる全員の未来を、明るいものにするために」

 思い出は宝箱に閉まった後も輝きを増し続ける。

 それはきっと、第二の人生として歩む現在もなお続いているのだろう。いつか、俺や他の誰かの未来を明るく照らすことができるかもしれない。

 室長から首肯が帰ってくる。

「最終問題、無事突破だな。おめでとう。君ならきっと辿り着くはずだ。君の描いた通りの、遥かなる高みへ――」

 遠くを見つめ、加賀美室長は茶化すように言った。

「まあ頑張ってくれ。私は無理だけどな、何せ高所恐怖症だから」

 そんな室長に、俺からも報告せねばならないことがある。

「実はですね。あの時は我慢してましたけど、俺もそこまで高い所得意じゃないんですよ。トラウマとかはないですけど。だから鳶職は無理です」

「知ってた。だって君、脚立登ってる時おもいっきり足震えてたし」

 ……そこまで見抜かれていたのか。

 快活な室長の笑い声がロビーに響き渡る。講師控え室で眠る脚立には、どのように聞こえているだろうか。

 ひとしきり笑った後、加賀美室長は俺の両肩にそっと手を置いた。

「今日から実際の教務に移る。君なら大丈夫だ、目標に向かって励みたまえ」

「はい」

「そして最後に改めて言わせてもらおう」

 すぅっと室長は息を吸う。それはおそらく、一昨日のサプライズが成功していたなら聞けたかもしれない言葉。

「ようこそ、神奈川塾相模原校へ!」

 かくして俺は研修の初期段階を終え、正式に塾講師になった。



「あの、お取込み中のところすみません。体験入塾を申し込みに来ました」

 二人とも気持ちが高ぶっていたせいか、来校者への対応が疎かになってしまっていた。室長が慌てて声の主に駆け寄る。俺はというと、諸々を見られていた羞恥で玄関口に顔を向けられないでいる。

「ああ、すまない。来てくれてありがとう……おや、君は一昨日の……」

 室長の口から小さく『シャアザク』と漏れたのを、俺は聞き逃さなかった。慌てて振り向くと、見知った顔がけだるそうな目を俺に向けている。『なあ門出君。彼女が件の三倍速娘だよ』とはしゃぐ室長の声など一切耳に入ってこなかった。

「やっぱり。ここが兄さんの職場だったのね」

「……ああ」

 抑揚の少ない声に、曖昧に相槌を返す。

 兄さん? と疑問を露わにする室長に対し、その少女は恭しく一礼した。

「いつも門出がお世話になっております。私、門出窓太かどでそうた従姉妹いとこであり同居人の、春峰芽吹はるみねめぶきと申します。よろしくお願い致します」

 俺は思わず天を仰ぐ。

 確固たる目標と爆弾をひとつ抱えたまま、塾講師としての日々が幕を開けた。




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