2-1 塾講師は羅刹じゃない 1


 さて。突然ではあるが、ここでひとつ『苦手』というものについての俺なりの見解を述べさせていただきたい。

 苦手な物事との向き合い方は、人それぞれである。

 塾でアルバイト講師をしていれば、この手の話題に触れる機会は多い。その分、苦手を乗り越えてきた人たち各々の対処法も多く耳にする。同僚の箕輪みのわ先生は『諦めずに何度も立ち向かってみる!』と体育会系で、上司である加賀美かがみ室長は『苦手が生まれ次第徹底的に潰す』と少々バイオレンスだ。もぐら叩きが上手そうである。

 それに対し、俺の出した結論は比較的穏やかだ。

 卑屈にならなければいつか克服できるんじゃないか、というのを持論としている。苦手意識が大きくなれば乗り越えるハードルも高くなるから、気楽に付き合っておくべきなのだ。まあ、これも高校時代の恩師の受け売りなのだが。

 もし、それでも向き合いきれない苦手があるのだとしたら。

 自主自立をモットーとする塾の職員としてはオススメし難いけれども、誰かに相談するという手も一応ある。そうすれば、きっとお節介な誰かしらが手を貸してくれるかもしれない。

 このように、苦手と向き合うためにはいろいろな手段がある。だからこそ、どの方法を用いるのかを見誤ってはいけない。

 ひとつ間違えれば、きっと取り返しがつかなくなるだろうから。



 中三の生徒・渡合美咲わたらいみさきは、本日一番乗りで塾舎に訪れた。彼女も先日、苦手を乗り越えたばかりだ。

「こんにちは、門出かどで先生」

「ああ、いらっしゃい」

 丁寧にお辞儀する姿も、かなり見慣れてきた。

 現在、四月上旬。俺が神奈川塾相模原校かながわじゅくさがみはらこうに就いてから早くも半月が経とうとしている。研修期間は既に明け、仕事にもだいぶ慣れた。初回はたどたどしかった授業も少しは改善されてきた、と思いたい。

 靴を脱ぐ最中、美咲は何やら小さなものを拾い上げた。

「先生、ロビーに桜の花びらが落ちてます」

「こいつら換気してると窓から吹き込んでくるんだ。多分、日野原中ひのはらちゅうから飛んで来たやつだよ」

「かもしれませんね。かなり散り始めてましたから。今年の桜も見納めですね」

 慣れてきたといえば、美咲の俺に対する人見知りもほどんど見なくなった。最近はこのように自ら話しかけてくれることも多い。過ぎ去る時間が変えていくのは、季節だけとは限らないのである。

 美咲の背後から、続々と生徒が集まり始めた。

 学校から徒歩五分という立地のため、家に帰る前に制服のまま直接立ち寄る生徒が多い。そのためか、一時限目の開始時刻を十六時半と早めに設けている。それでも中学のホームルームの時間次第では早々に塾に集まることができるため、暫し団らんの時間が生まれるのだ。

 そんな彼らには目もくれず、美咲の声はますます弾む。

「それでですね。この前先生と演習した分配法則の問題、今日学校で同じ単元をやったんです。名指しで黒板に解くことになったんですけど、なんとか解けました」

「そりゃよかった、講師冥利に尽きる」

「先生のおかげですね、ありがとうございました」

 美咲の笑顔が眩しく光る。

 この瞬間を仕事のやり甲斐としている講師も多いと聞いた。俺も嬉しくないわけではない。事実、口元がにやけるのを抑えるのに必死である。

 しかし、気を緩めてはいけない。

「今回は苦手を超える感覚を掴むために手伝ったけど、次は自力で超えられるといいな。何度も試してどうしても難しそうならちょっとは力になるけどさ」

 そう、神奈川塾のモットーは自主自立。

 高校受験を終えて塾を卒業した後も自力で問題解決が出来ることが理想であるため、それを見据えた伸ばし方を心掛ける。頼り頼られが過ぎて依存関係に発展すれば、なにより生徒たちの将来に繋がらない。

 美咲の丸い目は自信の火を宿していた。小さな拳を二つ、胸の前に強く握りしめて気合十分。この様子なら心配いらないだろう。相変わらず美咲の喜怒哀楽は分かりやすくて助かる。

「わかりました、次こそ必ず超えてみせます!」

「うん、その意気だ」

 授業開始までちょっと英単語を見直してきますね、と美咲は自習のできるスペースへとすっ飛んでいった。頼もしくなった背中を俺は見送る。

 自立の瞬間に立ち会えるのは塾講師として誇らしい。しかしその一方で、巣立つ雛を見送る親鳥のうら寂しさにどこか共感を覚えたのであった。



 ロビーに残されたのは俺一人ではなかった。

 美咲を追って、同じ方向へと動く視線が占めて三人分。その正体は、つるりと青い彼らの頭皮を見れば明らかだった。

 この塾舎の名物生徒である、バスケットボール部に所属する中三の男子三名。どこが名物なのかといえば、坊主頭が一人だけでも目立つのに、三人寄れば圧巻なのである。あまりに綺麗な坊主が並ぶ光景に、俺は北海道のマリモの群集を思い出した。

「渡合って、なんだかんだ可愛いよな。おとぎ話の主役って感じで」

「最近ずっとそれ言ってるよね。確かに、どこか現実離れしてるのに不思議とぶりっ子感がないのは可愛いと思うけど」

 二人の会話に対し、異様に背の高いもう一人が無言で頷く。

 彼ら三人は見かけのわりに声も会話の内容も年相応で、見ていて微笑ましい。

「先生もそう思わないっすか?」

「コメントは差し控える」

 講師の立場上、頷くわけにはいかない。

 こんな三人だけれど、日野原中の三坊主といえば相模原市のバスケットボール界では強豪としてかなり名が知れているらしい。

 素早さが自慢のスモールフォワード『エース』こと久慈英輔くじえいすけ

 絶妙なパスが持ち味のポイントガード『ビンゴ』こと備後宗悦びんごむねよし

 鉄壁の巨躯を誇るセンター『シティ』こと市之瀬忠治いちのせただはる

 来たる県大会予選に向けて日々練習に励む三人を、弊校は学力面で支えている。全国出場したらぜひとも神奈川塾の名を日本中へ轟かせてほしい。 

 普段は部活動がある関係で夜遅くの四限目・五限目に授業がある彼らだけど、部活のない曜日は早くに集結している。本日も例に漏れず、マリモの井戸端会議が始まっていた。

 俺はひとつ気になった点を彼らに尋ねる。

「渡合さんって、学校でも似たような雰囲気なのか?」

「そうっすね。場所にかかわらず人見知りでおどおどしてるけど、頑張るときにはとにかく頑張ってる感じっす。昨年度まで一人でいることが大半だったんすけど、最近は転入生の子と一緒にお昼食べてることが多いっすね」 

 質問に食い気味に答えるあたり、さすが速攻の名手・エースだ。

 聞けば、三坊主と美咲、そして美咲の友人である塾生の倉橋心寧くらはしここねは中学にて同じクラスに配属されたらしい。

 それにしたって、発足間もないクラスでよくここまで観察できるものだ。静かに驚いている俺の袖を、ビンゴがちょいちょいと突く。

「渡合さん、倉橋に連れられて一度だけ試合を見に来てくれたことがあるんですよ。接戦になった時、勇気を振り絞って『がんばって!』と叫んだ彼女に魅了されて以来、エースのヤツはぞっこんらしくて――」

「おいバカそれ以上言うな! あと物真似するならもっと真剣にやれ!」

 ビンゴは日頃から仲間の様子に目を配っているようだ。頷きながら黙って聞いているシティにも、無言の安心感がある。いつかは俺も、この三人が活躍する試合を見てみたいと思った。

 渡合さんといえば、とビンゴが切り出す。もう少しこの話は続くらしい。

「最近すごく授業の振り替えが多いって聞きましたけど、何かあったんですか?」

「そうなんすよ! 昨日だって普段は時間帯被ってたからちょっと期待してたのに、初っ端の授業だけ受けて帰っちゃったんすよ! 忙しいんすかね?」

 ぐっと視線が寄せられる。マリモの密度が上がる。

「さあ、俺は何も聞いてないけど……」

 残念ながら、俺は期待に応えられない。

 生徒たちの授業は振り替えの申請がない限り、科目と曜日と時間が固定されている。しかし、どの先生に教わるのか、誰と相席をするのかは当日に貼り出される日付ごとの時間割を見ない限り知ることはできない。

 それは講師も同じで、急な振り替えを当日に知ることも少なくはない。

 誰がその時間割を作っているのかといえば、加賀美かがみ室長だ。彼女なら何か知っているかもしれない。しかし、その室長も本日不在である。

 一体どうしたものか。

 うーん、と唸る俺たちをよそに、予鈴が響いた。一限目は休憩を貰っているため、講師控室に戻ろうとした矢先のことだった。

「おい、さっさと席に着かんか。五分前行動は基本だろう」

 野太い声がロビーに響き渡る。

 名物生徒がいるのならば、この教室には名物先生もいる。加賀美室長? あれは名物を通り越して怪物だ。

 もう一人の正社員にして副室長。人呼んで『現代の侍』。

 普段から『副室長』と呼んでいるせいか、彼の名前をすぐには思い出せない。

 バスケ部三坊主をゆうに超えるその長身は、しゃんとした姿勢ゆえに更に大きく見える。彫りの深い顔には日ごろから難しい表情が貼り付けられており、剣術一家の棟梁と名乗っても納得できる雰囲気を醸し出している。

 外見もさることながら中身も侍そのもので、誰に対しても厳しいと評判だ。

 彼の一喝には三坊主も『はーい』と大人しくなった。委縮した様子で教室に向かうマリモ集団の背中に、頑張れよと念を送る。

 三白眼が、ぎろりとこちらを睨んだ。

「門出先生。生徒と打ち解けたのは良い事ですが、もう少しお時間を気にかけて行動なさってください。我々は生徒の模範となるべき存在なのですから」

「はい、すみません」

 渋い声のまま、侍氏は力強く述べた。喝を入れるとき以外は大抵敬語であり、それがまた剣豪らしい風格に磨きをかけている。聞いているこちらとしては、必要以上に身構えてしまう。

 授業に戻ろうとする侍氏の背中に、俺は深く一礼した。その際、いつぞやに加賀美室長から聞いていた名前をようやく思い出した。

「どうもありがとうございました、土方つちかた先生」

「……土方ひじかたです」

 何が起きたのかを理解して程なく、したり顔の室長の姿が脳裏に浮かぶ。

 こんにゃろうと叫びたい気持ちを抑え、俺は侍氏に再三謝った。



 休憩しようにも、どうも落ち着かない。

 講師控え室を占めるのは大半が加賀美室長の私物であり、そこに講師の手荷物も加われば満足に体を伸ばすことさえままならない。再びこんにゃろうと心の内で毒づきながら、俺はロビーへと戻った。

 教室からは授業の音声が漏れ聞こえている。いつもより若干静かなのは、室長代行として土方先生が目を光らせているからだろうか。ワイワイと騒がしかった三坊主も、授業中ともなれば勢いを潜めている。バスケで培った切り替えの速さがここにも活きているのかもしれない。

「応援してるぞ」

 中にいる彼らに聞こえないよう、そっと呟く。

「ありがとう、兄さん。期待に応えられるよう善処するわ」

 返事は返ってこないとばかり思っていたので、驚いて声を上げそうになる。

 眠そうな瞳が二つ、こちらを見上げていた。

「職場で『兄さん』は禁止したはずだ、

「あら失礼。以後気を付けるわね、

 何か只ならぬ関係にある、というわけではない。

 端的に説明すれば、この少女・春峰芽吹はるみねめぶきは今春から俺のアパートに同居している中三の従姉妹だ。

 しかしながら、加賀美室長との約束のもと塾内ではその事実を秘匿している。

 というのも、他の生徒の保護者に知られれば『家族割で安く授業しているんじゃないの?』『勤務時間以外も手軽に質問できて良いですねぇ』とあらぬ疑いを掛けられ、トラブルになりかねないからだ。つくづく恐ろしい業界である。

「授業中だけど、なんでロビーにいるんだ?」

「この時間は自習で来てるの。さっきまで渡合さんに数学を教えていたのだけれど、疲れたからちょっと休憩」

 知らないうちに俺は仕事を奪われていたらしい。さすがは三倍速娘である。

 芽吹を形容するなら『黒猫』という言葉がしっくり来る。華奢な体躯に丸顔、つやのある長い黒髪は耳にかかる左右一房ずつを結わいてある。ぼうっと開かれた瞳は吸い込まれそうなほど黒い。

 こっちこっち、と芽吹は面談用スペースへと俺を招いた。

 東京から相模原市に転入したばかりの芽吹は、既に塾舎の空気に馴染んでいる。室長の頼んだ通り、美咲と心寧が良くしてくれたおかげなのかもしれない。学校でも同じクラスで、特に美咲とはかなり親しい仲だという情報は先程三坊主から聞いている。

 机に向かい合うと、芽吹は声を潜めた。

「さっき渡合さんの話してたでしょう、男子たちと」

「ああ。可愛いって好評らしいね」

「そのくだりはいいの。もう少し後ろ」

「最近振り替えが多いっていうやつ?」

「そう、その話。彼女、今週の五コマ全てを別の日に振り替えたらしいわ。理由が気になって渡合さんにさりげなく聞いたのだけれど、忙しいからの一点張りで頑なに教えてくれないの」

 それは別にいいんじゃないか、と思わないでもない。美咲には美咲の事情があるのだろう、きっと。俺たち講師も、生徒のスケジュールや家庭の事情などを余すところなく把握しているわけではない。

 しかし、芽吹は未だ眉をひそめている。

「何だか悪い予感がするの。変なことに巻き込まれていなければいいけど――」

「あっ、芽吹ちゃんここにいたんですね。ずいぶん探しました」

「あれー? 一緒にいるのはあんちゃん? めぶきちー、これはどういう密会なのかなー?」

 芽吹の言葉を遮るようにひょっこり現れたのは、美咲と心寧だった。

 両のてのひらを合わせて表情を綻ばせる美咲の横で、心寧は芽吹の頬をふにふにと弄くり回す。当の芽吹は『密会じゃないから。あと、変なあだ名つけないでちょうだい』と静かに抗議を試みるも、頬に関してはされるがままだ。

 じゃれ合う三人娘。彼女らの表情には、一辺の曇りもない。

 果たして、悪い予感など当たりうるのだろうか?

 しばらく考え込んでいるうちに一限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。授業に向けて、俺は腰を上げる。

 そして、席を立つ前にやらねばならないことがあるのを思い出した。侍氏の説教は有難いものの、一日にそう何度も受けたくはない。苦手とまでは行かないものの、そういった類のものは付き合い方を見誤ってはならないのだ。

「次の時間は三人とも授業だから、開始のチャイムに間に合うよう、すぐ移動するように」

 はーい、と元気の良い返事が三つ重なって響いた。

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