2-2 塾講師は羅刹じゃない 2


 加賀美室長と勤務が重なったのは、その週の金曜だった。

 一時限目に先駆けて出勤すると、室長は既にパソコンに向かっていた。

「お疲れ様です。随分早いですね」

「おお、誰かと思えば門出君か。来週の時間割を組み損ねていたから、今のうちにと思ってね」

 室長が見せてくれた画面には、専用のソフトウェアが映っている。

 横軸に月から金まで、縦軸に一限目から五限目までの五×五のマスがあり、それぞれをクリックすると時限ごとの席割を組めるようになっている。これを印刷して、その日ごとの時間割として教室に貼り出しているようだ。

「今週はいつもに増して振り替えが多くてね。あの美咲から五件も申請を貰ったんだ。組み直すのには相当苦労したよ。それに比べれば、来週は楽だから助かる」

 授業の振り替えに関しては、前の週までに分かっている分は入力し、急な申請はその都度手書きで直している。かなり手間のかかる作業だ。

 エンターキーを軽く叩いた後、室長はうーんと伸び上がった。どうやら一通り組み終えたらしい。

「そういえば、私が休みを貰っていた日はうまく回せていたのかい?」

「はい、問題なく」

 室長に先日のあらましを伝える。土方先生のくだりに差し掛かったところで、返ってきたのは案の定破顔大笑であった。ひっひひ、という例の笑い声が収まるまでかなりの時間を要した。土方先生本人に聞かれたくはないけれど、幸いにも欠勤日だったため救われた。

「いやぁ、よもや君が彼の名を素で間違えるだなんてね」

「……だって皆そう呼んでるじゃないですか」

 土方先生の件に関しては、俺にも言い分がある。

 直接彼が土方つちかたと呼ばれたところを見たことはないけれど、会話の中に出てくる際はなぜか決まって土方つちかたなのだ。『その分野なら土方殿つちかたどのに聞くと良いよ』『土方殿つちかたどのの授業、マジで鬼っすよ……』など、講師生徒問わずそう呼んでいた。

 その件について問い詰めたところ、黒幕はあっさり現れた。

「ああそれ、私が広めたんだ」

「職場イジメですか。見損ないました」

「違う違う。これも意図があってやったことなんだ」

 室長は小さく咳ばらいを済ませる。

 欠勤の間に何があったのかは定かではないけれど、少しばかり威厳が薄れたように感じるのは気のせいだろうか。単に、俺が職場に慣れたからなのだと思いたい。

「土方殿、あの見かけで実は新卒二年目の二十四歳というのは知っているかい?」

 ほぇ!? と素っ頓狂な声が喉の奥から飛び出た。

 即座に侍氏の険しいご尊顔を思い浮かべ、『24』という数字と引き合わせる。いや、どう考えてもマッチしない。

 あの風貌で、俺と五つ六つしか離れていないのか。神秘というものは案外、手近な場所に転がっているのかもしれない。

「入社したての頃は今と全然違ったんだ。なんというか、頑なにイエスマンでね。自分の意見を主張せずに押し殺して、『仰せのままに』と従ってばかりだった。君とは真逆のタイプだな。譲れない考えを持っているように見えて、その実自分の芯すらあっさりへし折ってしまう。つまらない奴が来たと、当時の私も思ったものさ」

 現在の姿からは、到底想像がつかない。

「現場に来てからも目から鼻へ抜けるような仕事っぷりを発揮こそすれど、どうにも張り合いに欠けていたんだ。こんなんじゃ講師は務まらんぞと駆り立てても『最善を尽くします』としか返ってこない。だから色々試したのさ。どうすれば彼は自ら物申すことができるのかってね」

「それで、結局どうなったんです?」

「彼が初めて主張したのが、私がわざと『土方殿つちかたどの』って呼び違えたときに出てきた『……土方ひじかたです』だったんだ」

 なるほど。ようやく合点がいった。

 土方先生も俺と同様に、成長するきっかけを加賀美室長によってプロデュースされたのだ。俺の初仕事とは比べ物にならないほど手荒い方法で。

「ゼロがイチになれば、あとは簡単だったよ。いい持ちネタが出来たおかげで生徒との距離も劇的に縮まったから一石二鳥さ。私が広めたネタのせいで時々生徒に舐められることもあったけど、芯の通った意見を押し殺さず言えるようになってからはそれも減ってきた。まあ、今のレベルにまで尖った成長を遂げるとは、私も予想外だったけどね」

 そう言って加賀美室長は肩をすくめた。

 確かに、先日の土方先生も手馴れたような訂正文句だった。加えて、二度と間違えるなと説教を垂れていた様子もない。

 もしかしたら、誤った呼び方をされるたびに侍氏は初心を見つめ直しているのかもしれない。今なお室長が生徒に土方殿つちかたどのという呼称を裏で広めているのは、それを狙ってのことなのか、はたまた単に面白がっているだけなのか。十中八九後者だろうけど。

 俺は少し、土方先生に対する認識を改めなければならない。

 誇らしげに室長は話を続けた。

「土方殿にはこの四月に本社に異動する話が上がっていたらしい。おそらく入社当初の適性を鑑みての会社の意向だろうけど、それを私が無理矢理引き留めたんだ。これからも彼は私の右腕として、あくせくと働いてもらうよ」

 なんともドラマチックな物語である。

 と、あやうく騙されるところだった。冷静に考えてみれば、土方先生は栄転を先送りにされたに過ぎない。人事の裏で手ぐすねを引いていた存在がいたことを、彼は知っているのだろうか。

「君も覚えておくといい。上役との交渉は、勢いと粘りが何より大事だぞ」

 加賀美室長が本社にも迷惑をかけていないか、甚だ心配である。



 この日の授業も、つつがなく進んでいった。

 基本的に、遅い時間に行われる授業ほど騒がしくなる。というのも、部活を終えた生徒が集まるのが後半の時間帯だからだ。

 最後から数えて二コマである四・五限目を前に、その筆頭たちが集い始める。綺麗な坊主頭が二つほど、ロビーに貼られている本日の時間割・席割の表を前に並んでいた。

「あれ、もう一人はどうしたんだ?」

「あっちでうな垂れてます。理由は……察してあげてください」

 ビンゴの指さす先で、しょげた様子のエースがうずくまっている。心なしか、マリモを思わせる頭皮も青みが欠けているように見える。

 藁にも縋るような表情で彼はこちらを見上げた。

「一応確認なんすけど、渡合さんって教室に来てるんすか?」

「生憎、さっき帰ったぞ」

 ああぁ、と言葉にならない悲嘆がエースの口から洩れる。今まで数多くの試合を共にしてきたであろう他二人も、沈んだ様子のエースを物珍しそうに見つめていた。

「これでもう今週三回目っすよ、折角渡合さんと被ってた時間が振り替えでパアになるの。俺、嫌われてるんすかね?」

 そんなことはないだろう、と一応フォローを入れておく。嫌われているという根拠もいないという根拠もないのだが。

 はぁ、とため息をついたエースの背中を、慰めるようにビンゴが軽く叩く。

「今週は縁がなかったってことで、切り替えていこう。もっといい恋だって転がってるかもしれないし。ほら、うちの転入生とか狙い目じゃない?」

「ああ、あの東京から来た『希望の春!』って感じの名前の子だっけ? 確かに可愛いっちゃ可愛い子だけど……」

 一拍遅れて気づく。ああ、芽吹のことか。

 確かに麗らかな名前だ。しかし、春は春でも『春眠暁を覚えず』という方が本人のイメージに近しい気もする。

 そんな芽吹の眠そうな瞳が、遠くからこちらを覗いていた。

「あら、私の話? どういった内容だったのかしら」

 一度、三坊主を見やる。揃いも揃って首を左右に高速で振っていた。くわっと見開かれた目が『絶対に言うなよ』と語っている。

 そんな状況ならば、余計に言いたくなるのが人間の性というものだ。

「素敵な転入生のおかげで毎日が楽しいんだとさ……痛っ」

 足を軽く踏まれた。三坊主のうち誰が真犯人かは定かではないけれど、後を引くような地味な痛さがある。

 一方、芽吹の方は大して気にした様子もない。

「そう。誹謗中傷の類でなければ、別にいいわ。それより加賀美先生は?」

「電話番を俺に預けて授業に出てる。何か伝言?」

「うん、渡合さんから。これを渡してほしいって頼まれた」

 芽吹がポケットから取り出したのは、小さな紙きれだった。通塾の契約に関する書類の類ではなさそうである。おそらく、保護者ではなく美咲個人から加賀美室長へと宛てたものだろう。

 くるりと裏返す。シャープペンを握り締めて書いたような濃い筆圧は、紛れもなく美咲本人の物だ。しかしながら、そこにあった文言に俺は目を見張った。



 加賀美先生へ

 木2 火2 水4 月3 火5 月5

 水4 金4 火4 水2 月3 水1 金5

 よろしくお願いします。渡合美咲

 


 なんだこれは。

「何かの暗号っすかね?」

 横から覗き込んでいたエースも首をかしげている。

「加賀美先生にしか分からないように書いたって言ってた。人が秘密裏に書いた文書を解読するのも野暮だと思って、私は解読を諦めたけど」

 瞬時に紙片から目を離す三坊主。単純でよろしい。

 俺は加賀美室長のパソコンデスクに紙きれを伏せて置いた。美咲のことだから、悪ふざけで作ったものではないだろう。ならば、本人の希望通り室長に託すことにする。

 その間に、芽吹は帰るための身支度を済ませていた。

 芽吹は一か月間の体験入塾期間の最中だ。取っている授業そのものは少ないけれど、自習に訪れて遅くならないうちに帰るというパターンが頻繁であった。

 丁寧にも、三坊主と俺に軽く会釈をする。

「じゃあお先に」

「春峰さん、もう帰るんだね」

「ええ。遅くに帰宅する家族のために、夕食を用意しないといけないから」

 それは助かる、と出かけた言葉を飲み込んだ。芽吹は明らかに腹の内で状況を面白がっている節がある。俺は静かに頭を抱えた。

 芽吹が扉の奥に消えるのを待って、ビンゴが『感心だねぇ』と呟く。

「春峰さんの家族は、さぞ幸せだろうね」

 巨体の上に乗った首を、シティも無言で縦に振る。

 対して、エースはといえば何やら思索に耽っている様子である。美咲の怪文書に関してかと思えば、そうではないらしい。

「東京の子って、軒並みあんなクールでミステリアスな感じなんすかね?」

 東京は関係ないんじゃないか、と心の内で突っ込まざるを得なかった。

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