2-3 塾講師は羅刹じゃない 3
新年度が始まれば、やけに一週間が短く感じられる。
今週は大学が始まったということもあり、目まぐるしい日々の中でいつの間にか金曜の夜を迎えてしまっていた。
しかし、あっという間だったとはいえ疲労が溜まっていないかといえば嘘になる。とりわけ個別塾の講師はデスクワークであるため、大学と合わせて週の大半を椅子の上で過ごしているのだ。家路を歩む道すがら、週末は軽く運動でもして体を解そうかと一人企てている。
対して、隣を歩く同僚は疲労よりも解放感が優っているらしい。うーんと身体を反らして伸びた後の顔は非常に晴れやかだった。
「いやー、やっと土日だねぇ。お疲れさん、門出先生」
「箕輪先生こそ……って、あまり疲れてなさそうだけど」
そんなこともないですよ? と言いつつも、そのままスキップで帰りそうな軽快な足取りである。鼻歌まで聞こえてきた。箕輪先生も、体力や余裕の面で仕事への慣れが生じているようだ。同い年とは思えない逞しさが羨ましい。
俺の足取りが重いのは、疲労以外にも原因がある。
やはり頭の内を占めるのは、美咲の書いた謎の手紙の存在だ。一見無秩序に並べられた曜日と数字。それを用いて、美咲は室長に何を伝えようとしたのだろうか。
それを本人に伺うことはできない。加賀美室長は仕事がまだ残っているとのことで未だ残業中だ。
周囲に生徒の影がないかを確認し、前を歩む箕輪先生に尋ねる。
「最近の渡合さんについて、何か気づいたことはあるか? どんな些細な事でもいいんだけど」
「ん、美咲ちゃんのこと?」
歩みと鼻歌を止めて、箕輪先生は振り返った。白銀の朧月に照らされてなお、肌に見る血色の良さは健在である。
「うーん、あたしはあまり授業を担当しないから普段の様子とかははっきり分からないんだけど、今日はすごく楽しそうだったよ」
あっ、思い出した! と箕輪先生は手を叩いた。閑静な住宅街に、ぱちんと音が反響する。
「『今回は箕輪先生が担当なんですね。嬉しいです』って笑顔で言ってくれたの! もうあの子ホントに可愛いね!」
そうだな、と口をついて出掛かった言葉を慌てて引っ込める。
美咲の普段の授業は、文系科目を土方先生が、理系科目を俺が担当している。半月が過ぎてお互い慣れてきたからというのもあるけれど、俺は今に至るまでそんな台詞を頂いたことはない。一体、この差は何に起因するのだろうか……。
これ以上、卑屈に考えるのはよそう。
とりあえず、今日のところ美咲に関して目立って不自然な点はないようだ。尚更、あの手紙の内容が気がかりである。
「美咲ちゃんが、どうかしたの?」
「いや、最近振り替えが多いから少し気になっただけ」
ふーん、と無関心な相槌が返ってくる。
授業の振り替えというものは個別指導塾にとっては茶飯事であり、やはり多いからといって不審がるようなものでもないのだろう。箕輪先生も俺と似たような見解らしく、芽吹が過剰に訝しんでいるだけに違いない。
「ところで、気になるといえばさぁ」
箕輪先生の声のトーンが変わったような気がする。一筋の悪寒が背中を伝う。芽吹が感じたという根拠のない雲行きの怪しさが、少しだけ理解できた。
続く言葉に、俺は身構える。
「門出先生と春峰さんって、どことなく似てるよね」
呼吸が止まりかけた。動揺の色を見せないよう、慌てて冷静を装う。
俺たちが従兄妹であるという関係は他の講師に知られてもさして問題にはならないだろう。しかし、好き好んで言いふらすようなものでもない。箕輪先生を信用していないわけではないけれど、情報はどこに転がるか分からないため用心するに越したことはない。
「……そうかな。どの辺りが?」
「あんまり笑わないところとか、落ち着いてるところとか。あと、一番は雰囲気かも。うまく言えないんだけど、属性が同じ気がするんだよね」
「クールでミステリアスな属性?」
「なにそれ」
苦笑が返ってきた。三坊主に踏まれた足の甲が心なしか痒い。
「二人ともあまり態度に出さないけど、実はすごく他人思いなんだよ、多分。だから周りに人が寄って来るし、時々いじられる。そこが一番似てるかな」
違ってたらゴメンね、と箕輪先生は照れ臭そうに笑いを浮かべている。
俺に関してはともかく、芽吹については言い得て妙だ。
芽吹は声や態度に浮き沈みが少なく、そっけない印象を与えることが多い。けれども、決して人間嫌いということはない。そこに関しては、俺も同じである。
しかし、周囲に人が絶えないのは俺たち自身だけが原因ではないだろう。
「確かに俺たちは不器用で、勘違いされることも多い。だからこそ、一緒に仕事している先生方や生徒たちには人一倍感謝している。もちろん箕輪先生も含めて。本当にありがとう」
「またそんなこと言っちゃって。おだてても何も出ないからね?」
あっ、と箕輪先生は今一度手を打ち鳴らした。
「昨日ママから仕送りでタケノコがまるまる一本送られてきたんだけど、いる? 下処理大変だから、うまく扱えなくて苦手なんだよねぇ」
「俺はそもそも調理法が分からないから、遠慮しておく」
聞いた話によれば、苦手な物事には諦めずに何度も立ち向かってみると言い切った講師がどこかにいたはずだ。俺は健闘を祈ることに徹するとしよう。
アパートの一室。扉をそっと開き「ただいま」と小さく呟く。
返答はない。時刻は二十三時に迫っているため、同居人は既に布団の中である可能性が高い。足音を殺しながら俺は部屋の奥へと向かう。
ダイニングテーブルの照明は灯っている。ラップのかかった食器がいくつかと、『お疲れさま。温めて食べて』との置手紙が照らされていた。仕事が長引いた際の日常風景である。
「ありがとう、芽吹」
どれだけそれが日常に浸透しようとも、感謝だけは忘れないようにしたい。このような際は、翌朝に同じ台詞を本人に伝えている。
週二回、最後のコマまで働く日の夕食は、芽吹が担当してくれている。当初は学業との兼ね合いを心配したけれど、本人曰くいい気晴らしになるとのことで、進んでキッチンに立ってくれているらしい。最近は、俺が料理を担当する日も横から口を挟むようになった。悲しいかな、料理の腕前においては逆立ちしても芽吹に勝てないのだ。
今日の献立であるブリの照り焼きも、例に洩れず食欲を刺激してくる。見た目も、俺が作るものよりはるかに整っている。
料理のほかにもう一つ、ダイニングテーブルに乗っかっている物体があった。突っ伏してうずくまる黒いそれは、幸せそうな表情を浮かべてくうくうと寝息を立てている。
これがクールでミステリアス、ねぇ。
「おぉい、起きてくれ芽吹。布団で寝ないと体痛めるぞ」
「んぅ……あれ、いつの間に寝てたのかしら。おかえり兄さん」
「ただいま。夕飯、ありがとう」
体を起こした芽吹は眠そうに目をこすり始めた。
俺たちの住むアパートの角部屋は2DKであり、各々が一部屋ずつを所有している。しかし狭い部屋ゆえに収納やら布団(芽吹のみベッドである)やらで埋まってしまうため、勉強などはダイニングで行っている。この様子だと、時間を忘れて作業に没頭している最中を睡魔に襲われたのだろう。
その証拠に、芽吹の手には何やら黒い手帳のようなものが握られている。食事の用意が終わっても、俺の関心はそこに向いていた。
「読んでたら寝ちゃったみたいね」
「それ、俺が高校生の時の日記帳じゃないか。どこで発見したんだ?」
「夕方に門出のおばさんから荷物が届いたの。その中に一緒に入ってたわ」
芽吹の指さす先。ダイニングテーブルの下に段ボールが置かれていた。開けてみると、中には立派なタケノコが二本、窮屈そうに収まっていた。
「……流行ってるのか?」
「仕送りじゃなくて試練だから、だそうよ。おばさんの手紙にそう書いてあった」
遠隔で板前修業でもするつもりなんだろうか。
とはいえ、俺は挑戦を叩きつけられれば断れない質である。土日のうちに絶品料理に生まれ変わらせることを固く決意した。
それよりも、目下の問題は日記帳だ。一体何の意図があって、母は実家から発送したのだろうか。
「なんか面白い事書いてあった?」
「ええ。とても興味深かったわ」
そう言いながら、芽吹は栞を挟んであるページを開いた。
月曜日
演劇部長の月本君から、自作戯曲『十一人のシンデレラ~天皇杯編~』のリハーサルで代役を頼まれる。しぶしぶ稽古場に行くとガラスのスパイクを渡された。気味の悪いくらいジャストサイズ。稽古後、月本君から『台詞を噛んでちゃ王子様も相手の強豪校も落とせないぜ?』とのダメ出しと、関係者限定観覧チケットを貰って解散となった。二度と行くか。
火曜日
放送部長の火野さんから、近所の商店街主催のカラオケ大会の司会進行を頼まれる。機材運搬から最高潮に盛り上がった進行まで、問題なく終わったと思ったのもつかの間。配線ミスでカラオケ全曲が全校放送にも流れてしまったらしい。再三謝った火野さんは最後に『来週の腕相撲大会もよろしくね』と上目遣いで頼んできた。二度と行くか。
「高校生って暇なの? それとも単にアホなのかしら」
「俺だって、ゴタゴタに巻き込まれない高校生活を何度願ったことか」
「嘘。ほぼ毎日、懲りずに最終下校時刻まで残ってるじゃない。勉強している日もあるけど、ほとんどこんな感じだし」
ぱらぱらと他のページもめくる。軒並み似たような内容で埋め尽くされていた。どこかの部活動に救援を呼ばれ、必ず無事には終わらないという流れが大半だ。翌週に至っては、演劇部の本番と腕相撲大会にも顔を出してしまっている。
今思えば、疲れてばかりの高校生活だった。
地元・鎌倉を朝早く発ち、高校のある横浜へ。真面目に授業をこなし、放課後は色々な部活に付き合わされる。受験が近くなれば恩師の巣食う進路指導室で自学に励み、友人と将来設計を語り合うこともあった。いずれにせよ地元へ戻るのは遅くなってからだった。
芽吹は肩をすくめた。
「でも、凄く兄さんらしい高校生活だと思う。ずっと誰かの役に立つために当時から奮闘し続けてたから、今も塾で生徒の役に立つべく働いているの。違ったかしら?」
「それはないな。だって俺が東奔西走してたのは全部成り行きだし。手伝いの駄賃に部費の一部を自分の部にお裾分けしてもらうのが目的だったから、あくまで自分本位というか——」
「けれど、こういうのも悪くないって思ってたんでしょう?」
否定の言葉がとっさに出てこなかった。
もし芽吹の発言が本当なら、この日記を書いていた当時こそ、俺の塾講師としての原点だ。頼まれたり挑まれたりすれば断れない性格で、そこに闘志を燃やし喜びを見出す門出窓太は、既に完成していた。
ねえ兄さん、と芽吹が真剣な眼差しを向けた。
「高校って、楽しい場所なの?」
「うーん、そうだな……」
俺は暫し、当時を振り返って考える。
在学中、楽しいと思えていたかどうかは明確ではない。『理不尽だ』『なにくそ』と思ったことは沢山あった。しかし、土日も含めてほぼ毎日高校に長居していたため、高校を滅法嫌っていたわけではないと思う。
そんな日々が総じて宝物になったのは、高校生活最後の日・卒業式だ。その日になって初めて、過ごしてきた三年間を結論づけることができた。
「俺にとっては最高の場所だった。でも高校そのものじゃなくて、そこで過ごした時間が楽しかったんだと思う。日々の中で、仲間や偶然に揉まれながらも少しずつ未来へ進んでいく。その過程に喜びを見出せたら、高校生活は楽しくなるんじゃないかな、多分。あくまで俺の意見だけど」
「ふぅん」
芽吹は今一度、手元の日記に目を向けた。
高校生活は一様ではない。人の数だけ別々の高校生活がある。もしかしたら芽吹は、日記をめくりながら自らの高校生活像を思い描いているのかもしれない。
「要するに、期限付きの時間と場所が与えられるだけで結局は自分次第ってことね。あまり中学と変わらないわ。過度な期待はしない方がよさそうかしら?」
高校受験を控えた中三生の言葉にはとても聞こえなくて、俺は思わず吹き出してしまった。
「そこまでは言ってないけどな。芽吹は今の日野原中での生活、楽しい?」
「ええ、今のところは。執拗に構ってくる悪友が二人ほどいるけど、彼女たちと一緒にいると退屈しないから嫌いじゃないわ。タイムリミットまで残り一年間、悔いのないように過ごそうと思う」
そろそろ寝るわね、と芽吹は席を立った。俺も夕食を完食し、ごちそうさまと感謝を伝える。
「最後にひとつ教えてほしいのだけど。兄さんって結局、本所属は何部だったの?」
「一応、生物部だった。部長も務めてたよ」
「ふぅん。それだけ聞くと、なんだか地味でつまらなそうね」
おやすみなさい、と芽吹は自分の部屋に消えた。
その前に一度、全国の生物部員に謝った方がいい。
「タイムリミット、ねえ」
ダイニングテーブルの上でくたびれている日記を見つめながら、ひとり呟く。
別に悔いはないけれど、高校生活が終わってしまえばもう一度その時期に触れることはできない。思い出は遠く、宝箱の中で燦々と輝くのみである。
思い出に限らず、過去は変えられない。変えるなら、タイムリミットの過ぎ去る前、過去が過去になる前でなければならない。
ふいに、ポケットがくしゃりと音を立てた。
取り出してみれば、その正体はコピーを取っておいた美咲の暗号だった。俺はそれを、手元の日記帳と見比べる。
……そうか。そういうことか。
はっきりと解読できたわけではないけれど、閃くものがあった。
組みあがった仮説には何一つ確証がない。それでも、この仮説が正しければ早急に動く必要がある。俺は携帯を取り出し、加賀美室長へメッセージを送った。
『渡合さんの暗号、解けたかもしれません』
返事は一分と待たず返ってきた。
『奇遇だね、私も辿り着いたよ。月曜日に答え合わせをするとしよう』
よし、と俺は頷いた。
もしかしたら、取り返しがつかなくなることを防げるかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます