エピローグ
五月上旬。
世の中は大型連休の最中であり、俺の勤め先である神奈川塾相模原校も例に漏れず数日間の休校となっている。忙殺の日々を忘れ、過ぎゆく一日一日を羽を伸ばして浪費しながら迎えた連休最終日。
ひっそりと続いていた安寧は儚くも崩れ去った。
人で賑わう相模原市内の河川敷にて、集まっているのは私服姿の職場の面々。塾舎から遠く離れたこの場所で何をするのかといえば、中心に置かれた一枚の金網を見れば明々白々である。
「全員、グラスは持ったかい?」
加賀美室長の声は野外でもよく通る。
四月中に開催が叶わなかったために急遽企画されたのが、本日の『新人講師歓迎BBQ』だ。発案者の室長は、場所取りの段階からノンストップで準備を進めていたにもかかわらず、未だ元気を持て余している。
ピンと張られたタープ、金網に揺らぐ陽炎。
一通りの準備が終わっていることを確認して、俺は手元の飲み物を高く掲げた。ついでに参加者の顔ぶれを今一度見渡す。
意気揚々とグラスを掲げる室長の隣には、こんな時でさえ表情を一切緩めない土方先生の姿がある。それとは対照的に、歓迎の対象である箕輪先生と銀次はそわそわしながら室長の音頭を待ち焦がれていた。
そして、輪の中には塾講師ではない者が二名。
「私だけ場違いな気もするのだけれど、大丈夫かしら?」
戸惑う様子を見せながらも、芽吹の視線は焼かれる前の肉に釘付けである。いくら華奢な体躯の持ち主とはいえ、芽吹も食べ盛りの中学生なのだ。
芽吹の参加に関しては、俺が頭を下げて事前に頼み込んでいた。ひとりで留守番させるのも気が引けたからだ。土方先生は生徒との教室外での会合に最後まで難色を示していたが、芽吹が俺と従兄妹の関係にあることを明かすと渋々承諾してくれた。
「お前だけじゃない。私はそもそも神奈川塾に縁もゆかりもないのに、なぜ休日を潰してまで鴻子に付き合わにゃならんのだ」
「だって真琴は呼ばれなかったら拗ねるだろう? ほら、大学の頃に一度——」
「その話は蒸し返すな……まあいい、さっさと始めてくれ」
佐内教諭は、十中八九室長に無理やり連れて来られたのだろう。ぶつくさ文句を垂れている割に、満更でもなさそうな様子でグラスを握りしめている。
ふと、隣にいる芽吹と目が合った。
「賑やかね」
高揚感に満ちた表情で、ふふ、と微笑を浮かべている。
「そうだな」
俺もどうやら、この空気感に飲まれつつあるのかもしれない。連休最終日くらいは騒々しさの中に片足を突っ込むのも悪くないと思ってしまう自分がいる。
「それでは、今年度の相模原校の船出を祝し、更なる発展を願って――乾杯!」
「乾杯!」
青空にグラスの音が響き渡る。一気に呷った炭酸水が、喉の奥にまで初夏の香りを運び入れてたちまち弾けた。せせらぎの音をかき消すように、談笑の声は次第に大きさを増していく。
仕事を忘れた塾講師たちの宴が、幕を開けた。
「どっと疲れたわ」
芽吹がため息を漏らす。
その一言が、先ほど終えたばかりのBBQの全てを物語っていた。
結局、乾杯の時点で既に盛りだった歓迎会の勢いは、買い込んだ食材がゼロになるまで続いた。その間、息つく間もなく食べては喋りを繰り返していたため、自らの疲労を自覚したのは片付けまで全て終えてからのことだった。
ゆったりと時間の流れる昼下がり。
俺と芽吹は川べりの岩に腰を下ろして、揺らめく波間をぼうっと眺めている。他の面々は腹ごなしにと、周辺の探訪に出かけてしまった。恐ろしい活力である。
「兄さんも、お奉行お疲れ様。大変だったでしょう?」
「大丈夫。慣れているから」
乾杯からずっと、俺はトングを握っていた。
いわゆる『奉行』の役回りは割と嫌いではない。金網の上で肉を育て、頃合いを見計らって世に送り出すというサイクルは、生徒の成長を支える塾講師の仕事にどこか通ずるものがあるのかもしれない。
ピロン、と芽吹の携帯に着信があった。
「誰から?」
「渡合さんと倉橋さん。それぞれ帰省中らしくて、写真が送られてきたわ」
芽吹から手渡された液晶画面には、日の差す縁側で読書にふける美咲と、親戚の子供たちと戯れる心寧の姿が映し出されていた。
バザーの翌日、芽吹は真実を全て二人に伝えて謝罪したらしい。詳しいやりとりは知る由もないが、結果的に以前と変わらず友情は続いている。
ただ一つ、変わったことがあるとするならば。
「二人揃って『門出先生(兄ちゃん)には見せないでくれ』って追伸が来たぞ」
「……もう手遅れね」
これ以上美咲と心寧に隠し事はしたくないとのことで、俺と芽吹が従兄妹かつ同居の関係にあることまで喋ってしまったらしい。表立ったトラブルは起きていないものの、稀に根掘り葉掘り質問されることがあるらしく芽吹は後悔しているとかいないとか。
「見なかったことにしてちょうだい。塾で合わせる顔がなくなるから」
「分かった」
そして、芽吹は正式に入塾を決めた。
芽吹の母親曰く、俺の勤務中にひとりで留守番させるよりは同じ空間にいてもらった方が安全だろう、とのことらしい。首席合格を志す生徒を抱えることとなり、塾側としても一層気が引き締まる。
——首席合格?
「なあ芽吹」
「どうしたの兄さん」
心の内に押し留めていた疑問が、展開図を組み立てるように形を伴っていく。
「うちで暮らすことに決めた本当の理由って、何だ?」
「もう忘れたのかしら。三者面談の時にも言ったでしょう? 第一志望の高校に近い距離にあったからよ」
「それは面談の場を乗り切る建前で、本当は違うんじゃないか?」
芽吹が小さく息を呑んだ。
俺が違和感を抱いたのは、中三生の進路希望調査を確認した時だった。休日出勤事件に関与していたバスケ部の三人に加えて、しっかりと全員分の志望校に目を通している。
その時、芽吹の第一志望の欄に『市立淵野辺高校』の文字はなかった。
佐内教諭との面談の中で出たその名前の代わりに記されていたのは、俺のよく知る別の高校名。
「
芽吹はこくりと頷いた。あれだけ日記帳を読みふけっているのを見ていれば、憧れの向かう先は自明である。
だとするなら、また別の疑問が残る。
面談の際、芽吹は俺に全員分の進路希望を確認するようしきりに促していた。ひょっとすると、俺がその矛盾に気づくよう芽吹は仕向けていたのではないだろうか。
しかしながら、芽吹は虚言を吐くくらいなら黙して隠し通すタイプだ。だから、志望校に関してはここ最近で唯一ついた嘘だと言えるかもしれない。
なら、一体何のために?
まるで車止めを前にした鉄道のように、思考がその先に進まない。
「それで、結局何が目的だったんだ?」
観念して俺は尋ねた。
信じられないとでも言いたいのか、芽吹は眠そうな瞳を目一杯見開いている。ぽかんと口を開けたまま暫くの間絶句していた。
「……本当に分からないの?」
「そうじゃなけりゃ、こうして聞いたりしない」
見つめ合うこと数秒。返ってきたのは、聞いたこともないような長いため息だった。呆れ返ったような視線が、ぐさりと突き刺さる。
「芽吹?」
「まったく、自分の発言くらい責任持ってもらいたいものだわ」
はい、と手渡されたのは件の日記帳だった。一通り熟読し終えた様子ではあるものの、未だに肌身離さず持ち歩いているらしい。
「兄さんの高校で文化祭があった日。迷子だった私にどんな言葉をかけてくれたのか、しっかり思い出してみることね」
言われるままに文化祭のページを探す。数週間前に読み返したはずのページに書かれていた文言を、再び目で辿る。そこには——
——そうか、そういうことか。
この日記帳を芽吹が『塾講師・門出窓太の原点』と表した意味が、ようやく理解できたような気がする。
芽吹の面持ちは、挑戦的な色に満ちていた。
「とりあえず高校が決まるまでの一年間、もう少しだけ頼らせてもらうことにするわ。だから改めてよろしくね、兄さん」
返す言葉は、もう既に決めている。
「ああ。困ったらまた頼ってくれ」
相変わらずの眠そうな表情で、芽吹は『芸がないわね』と笑った。
BBQの夜以降、新たな日課が一つ増えた。
高校卒業とともに筆を止めてしまった日記を、もう一度つけ始めたのだ。その日に起きた事柄に加え、時間のある日には神奈川塾での勤務初日から現在に至るまでを思い起こして空白のページを埋めていく。
芽吹の手に渡ったものと同様に、この日記も他の誰かに読まれる可能性がないとも限らない。それを考慮しながら書くうちに、いつしか文体や表現に多少の色がつくようになった。
今しがた最後の一ページを使い果たした日記帳の表紙に、俺は咄嗟に思い浮かんだ表題を小さく書き入れる。
『塾講師は探偵じゃない』
「……いや当たり前だろ、誰がどう考えても」
完成した字面にツッコミを入れてはみたものの、題を改めようという気は不思議と湧いてこなかった。
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