番外編:塾講師は琵琶を片手に踊らない 上
(※本作は『塾講師は探偵じゃない』の世界がもしコロナウイルス禍だったら、というテーマの番外短編です。本編の展開には一切影響しないエピソードとなっております)
琵琶法師という芸人たちが、かつて存在したらしい。
たしか平安から鎌倉の頃に、琵琶(古来の弦楽器である)を片手に平家物語やら経典やらを歌って各地を渡り歩いた盲目の僧侶だ。残念ながら、その程度しか俺は覚えていない。中学の国語や社会の教科書を開かなくなって何年も経つ。
今思えば、彼らの根性たるや相当なものだったのだろう。
視界を失ってなお物語を歌い歩くというのは困難であったに違いない。ましてや、盲導犬やヒッチハイクのない千年も前の時代だ。そこまでして彼らは語り継ぐことを諦めなかった。
何かを伝えるという点では、現代を生きる塾講師の俺にも通ずるものがある。
塾講師の古典の知識がこんなにも薄弱でいいのかという疑問については、理系という免罪符を行使することにする。いい機会だから学び直そうとも思っている。
はてさて。光を失っても希望を捨てずに伝え続けた彼らのような覚悟を、果たして俺も持ち合わせているのだろうか?
そう考えたきっかけになったのは、自らの目に強烈な痛みが走った瞬間だった。
「あぁ痛ッ! ちくしょう騙された! この目薬、パッケージに染みないって書いてあったぞ」
「相当疲れてるのよ、兄さんの目が。それにしても、この包装の小さな文字を眼精疲労者に読ませるなんて、製剤会社も酷なことさせるわね」
うららかな四月半ばの昼下がり。
神奈川県の
自力でさすにも視界がぶれてうまくいかなかった。目薬のボトルの軸先が三つ又に分かれて見えるほどに、俺の目は疲れているらしい。
「ありがとう芽吹。花粉症に効く方は自分でやるよ」
「そうしてくれると助かるわ」
やれやれ、と芽吹は抑揚の少ない声で呟く。
中学三年生の女の子に世話を焼かれる大学一年の男という構図がみっともなくて、俺は滲む視界の奥にいる芽吹に向けてもう一度頭を下げた。
俺こと
昨今世界中で猛威を振るっているウイルスの影響で、俺は家にいることを余儀なくされていた。入学したての大学の講義は初っ端からオンライン上で行われることになったうえに、アルバイト先である個別指導塾もリモートワークを導入したのだ。
花粉の時期にブルーライトが重なってダブルパンチ。失明の可能性が脳裏をちらつくほどの眼精疲労は、まさしくこれに起因する。
本日の午前中もエクセル入力を伴う大学の課題との死闘を終え、昼食の用意だ何だと慌ただしくしているうちに疲れが溜まったのだろう。
太平の世が再び訪れるのを待ち侘びる理由は、なにもウイルスそのものや経済への打撃だけとは限らないのだ。
午後一時。ようやく視界がクリアになった。
芽吹は長い黒髪を一束にまとめ、中学指定のジャージに着替えていた。この四月に都内から転入してきた際に新調したばかりで、ほつれもなく色つやも真新しい。『眠そうな黒猫を擬人化したような風貌』というたとえがしっくりくる芽吹に、明るいライトグリーンのジャージはいささか不釣り合いだった。
「何が始まるんだ?」
「カタヤマ・ブートキャンプ。ネットで無料公開されてるの」
テレビの画面でインターネットを操作しながら芽吹は答えた。
たしか、健康維持目的で踊るには少々激しすぎると話題を呼んだダンスエクササイズビデオである。高校生の頃に俺も一度だけ試してみたことはあるけれど、翌日の足腰が言うことを聞いてくれなかったのを覚えている。
よっ、ほっ、そりゃっ、と器用にポーズを決めていく芽吹が次に発した言葉も、これまたこのご時世になってからよく耳にするものだった。
「兄さん。夕飯の後、オンラインで飲み会するからダイニング貸してちょうだい」
「借りるのはいいけど……あと五年待てなかったのか?」
俺だってまだ十代である。義務教育期間中はもちろん、現在に至るまで飲み会の経験はない。
「もちろんアルコールは厳禁。お菓子とソフトドリンク片手に、渡合さんや倉橋さんとテレビ電話を繋いで軽く語らうだけよ」
「それならよかった」
ほっと胸をなで下ろす。あやうく親類が法に触れるところだった。
二人の名前が出てきて思い出す。そろそろ、俺もリモートワークの時間が迫っていた。テレビ画面の中の屈強な男性トレーナーの動きに涼しい顔で食らいついていく芽吹に、一言声をかける。
「じゃあ俺はちょっと仕事してくるから。明日の体調に響かないよう、踊るのも程々にな」
「ええ、兄さんこそ。カタヤマ隊長も『無理は良くない』が口癖だから」
ちょうどその時、ダンス中の動画から『今日はちょっと趣向を変えて、限界を超えて行こうぜぇ!』と威勢のいい声が聞こえた。男性トレーナーが動きのキレを落とさないまま、曲が一段階テンポアップする。なんともタイミングが悪い。
気まずくなったのか、芽吹はエクササイズに専念し始めた。途端に申し訳なさに襲われて、俺は逃げるように自室へと帰った。
スーツに着替え、パソコンを起動する。
俺のアルバイト先である
だからといってアルバイト講師が一斉解雇を言い渡されたということはない。在宅中にできる仕事をいくつか頼まれている。
そのひとつが、今から行う『ビデオ通話を用いたカウンセリング業務』だ。生徒スマホやパソコンとビデオ通話を繋いで健康状態や課題の進捗状況を確認するというもので、表向きの目的は質問対応と学習へのモチベーション維持。真の狙いは生徒とのコネクションを首の皮一枚繋ぐことで塾の解約を防ぐためである。
相模原校の非常時対応を発案した
「君に頼みがある」
「……開口一番に出てきた言葉がそれですか」
リモートワークでは、タイムカードを切る代わりとして業務前に室長と回線を繋ぐことが義務付けられている。それにしたって、ここまで唐突で不穏な挨拶を聞くのは初めてだった。
「で、どうしたんです?」
「今日は中学三年生を中心にカウンセリングを担当してもらいたい。その中で一件だけ、どうにも私の手に負えない問題があってね」
厄介ごとの濃厚な香りがする。一筋縄ではいかない依頼を、稀にこの人は『あんぱん買ってきて』くらいの感覚で頼んでくるのだ。
「一人だけ、頑なにビデオ通話を繋ぎたがらない生徒がいるんだ。中三のビンゴ君なんだけどね」
「ああ、バスケ部三坊主の一角ですね」
ビンゴこと
「彼、その理由も絶対に明かしてくれないんだ。参ったから、カウンセリングはずっと固定電話を通してやっているのだよ」
ビンゴが機械に弱いなどの情報は聞いたことがない。となれば、ビデオ通話を拒む理由はおのずと浮かび上がる。
「部屋に見られたくないものでもあるんじゃないですか?」
「カメラに映る一角だけを片付ければ済む話だろう? それに最近のテレビ電話には背景をぼかしたり変えたりする機能だって搭載されている。だからこそ不審なのだよ。万が一彼やご家族に何かあったのかと思うとね」
胡散臭い困り顔を浮かべる加賀美室長。段々と『頼み』の中身が見えてきた。
「要するに、今日のカウンセリングを通してその理由を突き止めろと?」
「話が早くて助かる。引き受けてくれるかい?」
携帯に一通のメールが届く。開いてみれば、加賀美室長から送られてきたカウンセリング対象者のリストだった。断られる想定は一ミリもしていないのだろうか。
ため息が出る。これも仕事だと割り切って俺は重い腰を上げた。後で雇用契約書の業務内容に『無理難題の解決』があるかどうかを確認しておこう。
「わかりました。やれることはやってみます。ほかに手掛かりはありますか?」
「うーん、思い当たるものはないね。あ、そうだ」
俺はパソコンに近付いて耳をそばだてる。何か重要な情報が聞けるかもしれない。
「依頼の期限は今日までで。無理だったら諦めてくれ」
そういうのは依頼を承諾する前に言ってほしい。加賀美室長が悪徳業者でなくて助かった。既に十分悪徳だが。
画面に近づいた俺の様子を、室長はまじまじと見つめている。
「門出君。目が辛そうだけど、どうしたのかい?」
「これですか。琵琶法師の一歩手前です」
「びわ、ほうし?」
我ながら説明になっていないことは自覚している。しかし、室長は真剣に思索を巡らせていた。
「っていうとアレか。盲目になったことで他の器官が研ぎ澄まされ、超絶技巧を繰り出せるようになったという大昔の……」
「深海生物の進化みたいに言わないでください」
少々コアな話で、ヌタウナギという深海生物は目を退化させたことでエネルギー消費を抑えたのだと聞いたことがある。琵琶法師と並べ立てる対象として相応しいのかどうかは別問題だが。
「まあいいや。送った名簿の順にぼちぼちカウンセリングを始めておくれ」
もう一度名簿を確認する。ビンゴの名前は一番最後にあった。彼のカウンセリングは大トリであるらしい。
通話を切る前に、室長は『今日も頑張っておくれ』と残した。
「それと、最後にひとつだけ。眼精疲労はツボ押しで大きく改善されるらしい。調べてみるといいぞ」
「はい、ありがとうございます」
自信ありげに大きく頷いて、室長は回線を切った。
加賀美室長の九割九分は無茶で出来ている。けれども残りの一パーセントくらいの優しさが時々露見するから、俺も他の講師や生徒たちも彼女を信頼してしまうのである。
「さて、引き受けた以上はやりますか」
厄介な尾ひれはともかく、気にかけていた中三の生徒たちと久々に顔を合わせる機会を貰うことができたのだ。
今から回線を繋ぐのは、激動期に受験の年が重なってしまった生徒たち。自分の努力ではどうにもできない不安を抱えているかもしれない。気がかりな点はあれど、本来の業務を最優先で全うすべく、俺は一層気を引き締めた。
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