番外編:塾講師は琵琶を片手に踊らない 中
(※本作は『塾講師は探偵じゃない』の世界がもしコロナウイルス禍だったら、というテーマの番外短編です。本編の展開には一切影響しないエピソードとなっております。また執筆時期は2020年6月であるため、現実との誤差が多少生じている箇所があります。ご了承ください)
一人目の生徒・
美咲は気分の浮き沈みが激しい生徒であるため、心してカウンセリングにかかる。しかし、その心配は杞憂だった。パソコン画面の奥から聞こえてきた声はいつになく弾んでいる。
少し音が割れて聞こえるのは、生徒がパソコンではなくスマートフォンを使っているせいだろう。カウンセリングを行う生徒の大半は、自身のスマホのテレビ通話アプリからアクセスしていると室長から聞いている。
『お久しぶりです、門出先生』
「久しぶり。元気にしてた?」
はい! と美咲は元気よく答えた。
口調は丁寧で大人びているものの、喜怒哀楽がそのまま表情やしぐさに表れる様子は中学生らしさに溢れている。カウンセリング結果を記すカルテの健康状態の欄に、俺は『見たところ良好』と入力した。
『あのですね先生。今日はひとつ良いニュースがあるんです』
「一緒に悪いニュースもなくて安心したよ。どうしたんだ?」
美咲はびしっと勢いよく画面右上を指さした。白く小さな指先に光が当たる。おそらく窓の方向を指しているのだろう。
『うちの軒下にツバメの巣があるんですけど、今朝方ヒナ鳥が全羽巣立ったんです!』
そういえば、以前カウンセリングを行ったときはピーピーと甲高いノイズのようなものが聞こえていた。あれはきっとツバメのヒナが母親に向けて発していたのだ。
「おお、そりゃ良かった」
あまりの勢いに気圧され、雑な返答が出てしまった。
もちろん良かったと思っている。小さな幸せを笑顔に変えられる美咲なら、きっと災禍のご時世でも明るく生き延びれる。俺も見習っていきたい。
『最後の一羽が飛び立つ瞬間は感動ものでした。なんというか、ずっと見守ってきた手前ちょっと感慨深いですね』
大人びたコメントを残す美咲も美咲で、俺としては感慨深いものがある。
いつかは彼女らも外出自粛期間や受験を乗り越えて塾を卒業し、巣立っていく。一歩ずつ迫りくるその瞬間が垣間見えて、胸に一抹の寂しさがこみ上げてきた。
『そういえば先生、ひとつ質問があるんです』
「なんでも聞いてくれ。どうした?」
このやり取りもあと一年続かないのだと思うと余計に寂しい。非常事態下だろうとなかろうと、時間はいつだって掛け替えがない。質問にも大切に、誠心誠意を尽くして応えることにしよう。
美咲は笑顔のまま続けた。
『ツバメの巣って中国とかでは高級食材なんですよね。あれ、どうやって食べるんですか?』
「……食べる気なのか?」
俺の感慨を返してほしい。
『いやー、感謝感謝っす。学校が用意した大量の課題、先生のおかげでなんとか片付きそうっす!』
「おお、そりゃ良かった」
続く生徒にも、どこかで聞いたような返事で俺は答えた。正直、眼球以外もかなり疲れてきた。
なにしろ、どの中三生もすこぶる元気なのだ。普段なら学校で発散される体力をそのまま持て余しているのだから、無理もないといえばないのだろうけど。
二人目の生徒は、件のビンゴと同じく『バスケ部三坊主』の一角・エースこと
それどころか、いつもに増して勢いづいている。
「元気だな……」
思わず心の声が漏れてしまっていた。
『そうなんすよ。俺、今年の二月から花粉症で目とか鼻とか大変だったんすけど、外出自粛始まってからぴったり止んだんす。これで仲間とバスケができれば万々歳なんすけどね、仕方ないっす』
「ずいぶん早い時期の花粉症だな」
『そうっす。植物によって花粉が出る時期が違うから、きっとせっかちな花粉にやられたんっすね』
たははと笑うエース。
学校や塾で課している宿題の解説の続きを終えて、彼のカウンセリングも終了になる。その前に、ひとつ聞いておきたいことがあった。
「最近の備後君について、何か知ってる情報はあるかい?」
『ビンゴっすか、久しく会ってないっすね。テレビ電話は一切しないし、音声通話もたまにするくらいっす。まあ、でも元気だと思いますよ。俺たちの夏の試合がどうなるか分からないっすけど、もう一度アイツらとバスケするまでは元気でいてほしいっすね』
言い終えて、エースはニカッと笑う。
こんな風に、少し話すだけでこちらまで前向きにしてくれるエースなら、きっと美咲同様に災禍のご時世を明るく生き延びれる。俺も見習いっていきたい。
通話を切ると、目の奥がじわりと痛んだ。何かに対して感極まったわけではなく、眼精疲労が蓄積されたのだ。あと三人ほどカウンセリングを控えた生徒がいる。この後も続く殺人的なブルーライトの量に耐えきれるだろうか?
再び琵琶法師の話が脳裏をよぎる。
彼らがどんな経緯で失明したのかを俺は知らない。けれども、その後も己に出来ることを見つけて一芸を大成するまでに至っているのだ。
もしかしたら彼らも生徒たちと同じく、逆境に対して前向きに挑んだ一人なのかもしれない。
「よし。後半戦、やりますか」
外出自粛はおそらく今後も続く。目は痛むし、この後には室長から依頼されたビンゴのカウンセリングが控えている。目下の問題は何一つ解決していない。
それでも俺は前向きでいたい。
この際、ブルーライトカットの眼鏡を注文して次回の話のネタにでもしようかと密かに試みながら、俺は次なる生徒との回線を繋いだ。
三人目・
『遅くなってごめんねー、
「大丈夫、そんな長くは待ってないから。あと兄ちゃんって呼ぶな」
不本意ながらも恒例になってしまっているやり取りが済む。
心寧は誰に対しても壁を作らずフレンドリーな生徒だ。今日も概ね平常通りの様子だった――少し疲れていそうな様子を除けば。
加賀美室長の発言にもあった背景をぼかす機能を使っているのか、心寧の輪郭から外側はおぼろげにしか様子を伺えない。その中で、正体を確認できない何かがモゾモゾと動いているのが見えた。
『お姉ちゃん見てー。ちょうちょ。お庭で拾ったのー』
『そうねー、ちょうちょだね、逃がしてあげて。あと、お姉ちゃん今ちょっと忙しいから後にしてくれると嬉しいなー。
『うん、待ってるー』
動いていたモヤが遠ざかる。小さな足音も次第に小さくなった。
「弟がいたのか」
『あれ、兄ちゃんには言ってなかったっけー。倉橋小太郎、五歳。普段は保育園に預かってもらってるけど、ほら、ウイルスのせいで閉まっちゃったからさー。両親が忙しい時は私が面倒見てるの』
「そうだったのか。いいお姉ちゃんだな」
『いや、それほどでもないよー。さっきもそうだけど、割と適当に相手してるし。寝付くの早いから宿題やる時間もしっかり取れてるよ』
なるほど、さっき見せた疲労感は弟の世話が原因だったのか。
年上相手には甘えただから忘れがちではあるものの、心寧は案外頼りがいのある生徒だ。自分がしっかりしなければいけない場面を弁えている。その頼もしさに俺も何度か助けられたことがあるが、そのルーツはここにあったのかもしれない。
どんな状況だろうとも、自分の役目をしっかり務め上げている心寧なら、きっと災禍のご時世を強く生き延びられる。俺も見習っていきたい。
勉学の話を手短に終える。忙しい中でも、課題の進捗は順調そうだった。
話題の中心はまた小太郎君に戻る。日常のいろいろな愚痴を聞くことも、カウンセリングにおける重要な目的だ。
『あの年頃の子供って、何でもかんでも拾ってきちゃうんだよねー。このあいだなんてさ……え、小太郎? それどうしたの?』
画面の脇が、再びモゾモゾと動き出した。小太郎君、再登場。
それと同時に、心寧の声のトーンが一気に下がる。パソコン画面のブルーライトを抜きにしても、血色の良かった顔が一瞬で蒼白に変化しているのが見て取れた。
『お姉ちゃん見てー。お庭で拾ったのー』
『ちょっ、それは……嫌ぁッ! それ以上近づかないで! うわぁぁっ!』
『待ってよお姉ちゃーん』
悲鳴だけを残して、二人の声と足音が遠ざかっていく。かつてない展開でカウンセリングは幕引きを迎えた。
小太郎君が手に持っていた物体。画面がぼかされているせいで、その正体を俺は確認できなかった。
心寧が本気で怯える対象。
あれは一体、何だったのだろうか……?
四人目の生徒との通話は、打って変わって静かに始まった。
「久しぶりだね、
『……』
先ほどの心寧とは異なり、背景はくっきりと映されている。
「近況を聞きたいんだけど、いいかな?」
『……』
「課題、進んでる?」
『……』
会話が何一つ進まない。
彼はかなり口数が少ないため最初は慣れるのにも苦労した。打ち解けていくうちに次第に表情や動きから情報を読み取ることができるようになったけど、今はその小さな変化すら受け取ることができない。まるで時が静止したかのように、シティの姿はぴくりとも動かなかった。
画面越しだから見えづらいのか、俺の目が疲れているのか。
「いや、そうじゃないはずだ。かくなる上は――」
俺はパソコンの再生音量を最大まで上げる。
予感は的中した。小さないびきの音が耳を撫でる。画面をもう一度見ても、布団に誰かがいる様子はない。
「やっぱり。上手いこと考えたな」
これまた室長の発言にあった、テレビ電話の背景画像を変更できる機能を使ったトリックだ。
机に向かっている自分の姿の写真を事前に撮影し、それをテレビ電話の背景画に設定することで、通話相手にはさも対面しているように見せかけている。そうやって作られた『もう一人の自分』にテレビ電話を任せて、本人は昼寝に興じていたのだろう。
「……図太いなぁ」
いかなる場合でも落ち着いているシティは、非常事態下でも何一つ慌てることなく生活しているらしい。今回の件はそれが一周回ってルーズに転じてしまったのかもしれない。
日頃から泰然自若を貫くシティなら、きっと災禍のご時世を強く生き延びられる。俺も見習っていきたい。
しかし、カウンセリングをやり過ごそうとしたのは頂けない。
俺は彼の家の固定電話へと留守電を入れた。
「いつもお世話になっております。神奈川塾相模原校の
程なくして。
『こら忠治! さっさと起きなさい!』
シティの母親らしきダミ声が轟く。あまりの爆音に、俺は腰を浮かしそうになった。
パソコンの音量を下げるのを、すっかり忘れていた。
大トリのビンゴを前に、もう一件カウンセリングが控えている。
眼球に加えて、先ほどの怒号のせいか耳の奥まで痛くなってきた。けれども仕事を中断するわけにもいかない。
耳に届いたのは聞きなれた声。次こそ音量は正常のようだった。
『……別に、今更こうして聞くこともないんじゃないかしら?』
「そうなんだけど、一応仕事だからさ」
『ふーん。これでお金が入るなんて羨ましい限りね。少し分けてほしいくらいだわ』
「ほとんど家計に回してるから、分けてるようなもんだよ」
通話の先にいるのは芽吹だ。部屋のドア越しに、パソコンから発する音声と同時に肉声が聞こえてくる。
画面に映るのは自宅の食卓。妙な感覚だった。
芽吹はどうやらカタヤマ・ブートキャンプを完遂して風呂に入った直後らしい。髪は濡れていて、それを映し出すスマホのカメラも湿気で濁っている。ぼかす機能にしては少々原始的だ。
芽吹の言う通り、毎日顔を突き合わせているため特に確認するようなことはない。課題がとっくに終わっていることも知っている。
だから、次のビンゴのカウンセリングの準備に時間を使わせてもらおう。
「なあ芽吹。最近備後君を見かけたことはある?」
『備後君っていうと、同じクラスの坊主頭の男子かしら。この前スーパーに行った時にすれ違ったけど……』
この外出自粛期間中、芽吹は何度か買い出しに出向いている。
芽吹にとって買い物や料理はストレス発散の特効薬でもあるらしく、この期間の数少ない楽しみとして頻度を決めて行なっていた。それが続いたせいか、ここ最近は余計に芽吹に料理では敵わなくなったように思える。
『彼がどうかしたの?』
「ちょっと色々あってね。その時の様子を聞いてもいいかい?」
『ええ、役に立てるかは分からないけど。五歳くらいの子供と一緒に店から出てきたところに出くわしたの。顔かたちとか雰囲気が良く似てたから、多分弟かしら。食料品のほかにもうひとつ袋を持っててかなり重そうだった。土? みたいなものが入ってたわ』
ビンゴにも弟がいたのか。
彼も彼で面倒見がいい。年の離れた弟と一緒にガーデニングに興じる姿が思い浮かんだ。
「それで、何か話したりしたか?」
『私と挨拶を交わすなり『このことは誰にも言わないでほしい』って言ってたけど……彼の言う『このこと』が何なのかはよく分からないわ。弟と一緒だったことか、それとも買い出しに来てたことなのか。いずれにしても、黙っていなければならない理由は不明ね』
そういえば、と芽吹は何かを思い出した様子だった。
『スーパーから出てくるときに、弟と二人で『元気になるかな?』『なるさ、きっと』って話してたかも。家族がご病気とかでなければいいのだけど』
気づけば、カウンセリング終了の時間が迫っていた。
「ありがとな、芽吹」
『お役に立てたかしら。あと兄さん、買い物の話をしていて思い出したのだけど、今日の飲み会用の飲み物とお菓子を買ってきてもいいかしら?』
「行っておいで。お金はあとで払うから」
それじゃあ、と芽吹は回線を切った。
芽吹のいなくなったダイニングで、俺は家の固定電話を握り締めている。
間もなくビンゴとのカウンセリングが始まる。芽吹の話だと、何か家族に関する事情がある気がしてならないけど、その正体はまだ分からない。
そもそも話してくれるだろうか?
室長がありとあらゆる手を尽くしても彼の口を割ることができなかった。なら、あまり俺たちが深く介入すること自体が間違っているのではないだろうか。
……本当にそうなのか?
「落ち着いて考えよう。何か分かるかもしれない」
ビンゴに関する情報は、芽吹の発言以外からは全く得られなかった。けれどもそれぞれの生徒とのカウンセリングの中で、引っかかるものがなかったわけではない。
ぼかしたり変更したりできる背景。購入していた土のような何か。聞こえなくなったツバメの声。少し早めの花粉症。小さな弟の存在。世間を騒がすウイルス――
まだ何か足りない。そうだ、あの会話。
『このことは誰にも言わないでほしい』
『元気になるかな?』『なるさ、きっと』
――見えた。
暗雲の中から一条の光が差すような感覚。まだ雲が完全に晴れたわけではないけれど、点と点とが一直線の光の中で繋がっていく。
「そうか、そういうことか……痛ッ」
目の奥に痛みが走った。そろそろ目薬を差し直さなければいけないかもしれない。芽吹が不在の中、ひとりで出来るだろうか。
「いや、大丈夫だ。なんとかなる」
目が多少見えにくくたって、出来ることは必ずある。かつての琵琶法師が、失明してなおも芸の道に辿り着いたように、俺だって必ず真実に辿り着くはずだ。
俺はゆっくりと間違えないように、室長から送られてきたビンゴの自宅の電話番号を入力する。受話器の前で待っていたのか、ワンコールで彼は出てきた。
『はい、備後です』
やはりそうか。
この瞬間に、俺は自分の憶測が正しかったことを確信した。
「いつもお世話になっております。神奈川塾相模原校の門出と申します……っと、前置きはこのくらいでいいか。いま、家の固定電話から掛けてるのかい?」
『ええ、そうですけど』
「備後君、今からひとつ質問をする。正確に答えてほしい」
『……分かりました』
「じゃあ行くぞ。君は――」
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