5-5 塾講師は完璧じゃない 結


 暗い廊下を、懐中電灯を片手に芽吹が先導する。

 その行き先を俺はまだ知らない。一緒に来てほしい場所があるの、としか聞かされないままに教室を出てしまったためである。

「佐内先生はどこ行ったんだ?」

「別行動を取ってもらってるわ。私の探しているものが、多分職員室か図書室にあるはずだから」

 夜間の学校という場所に臆することもなく、芽吹は廊下の中心を悠然と歩く。足音に時折混じる鼻歌が、緊張感を払拭していた。ご機嫌なのか、はたまた強がりなのか。あまりの物珍しさに横顔を覗き込むと、いつも通りの眠そうな面持ちを浮かべていた。相変わらず、考えていることは全く読めない。

「ってことは、俺たちが向かってるのは全く別の場所?」

「そうね」

 校舎の最上階にある三年一組の教室から遠ざかるように進む。教室と同じ階級、対角線上に位置する階段に差し掛かると、芽吹は暫しの躊躇を挟んで一段一段登り始めた。数メートル先の踊り場さえ見えない暗闇の中を、ひとすじの懐中電灯の光が切り開いていく。

 さっきの口ぶりから察するに、芽吹はあらかた見当がついているのだろうか。

 深い思考の中に入る。

 十五年の付き合いになる芽吹に関することでさえ、知らなかったことは山ほどあった。ましてや、勤続一ヶ月の関係にある加賀美室長なら尚更だ。

 それでも全くの未知ではない。来歴や人柄、主義主張の一端に触れたことは少なからずある。だから、ありったけの情報を思い起こしながらそれら一つ一つを繋げていく。

 情より理、ペンに付けられた桃色のアクセサリ、空白の時間、地元出身、前職、そして芽吹の共犯——

 あっ、と思わず声が出た。

 足を止めた俺を、芽吹が怪訝な表情で見つめている。

「どうしたの兄さん」

「芽吹。一応聞くけど、俺たちはどこに向かってるんだ?」

 ため息とともに、呆れ顔が返ってくる。

「決まってるでしょう。三年一組の教室は最上階。それより上に行くなら、目的地はおのずと一つに絞られるけど……それくらい分からない兄さんじゃないわよね?」

 やはりそうだ。

 俺の導き出した結論に、芽吹も感づいている。迷いのない物言いが、そう確信させた。だとするなら、芽吹はその先にある真実をも掴んだ上で、白日の元に晒すつもりなのだろうか。

 なおも階段を登ろうとする芽吹に、確認を込めて最後の訴えを試みる。

「なあ、やっぱり引き返そう。これは俺たちが無闇に暴いていいものじゃない。何より、知ったところで俺たちにはどうにもできない。だから——」

「駄目よ」

 芽吹の目は、いつになく真剣だった。聞こえていた鼻歌も止んでいる。

「ちゃんと終わらせなくちゃ、先に進めないもの」

 そう残して踵を返し、芽吹は再び上を目指す。

 何のために、そして誰のために事件を終わらせるべきなのか。そこに対するひとつの答えが、覚悟とともに芽吹の中に出来上がっている。ならば、俺も付き従うほかない。芽吹の照らす光を頼りに、真実の在処を目指す。

 辿り着いた屋上は、厚い鉄の扉で閉ざされていた。

 扉に付けられたガラスの小窓は薄汚れており、内側から外の様子を窺い知ることはできない。ただ外の光が漏れ出でるのみである。

 視線を落とせば、左右に渡るすずらんテープに『立ち入り禁止』と印刷されたコピー用紙が貼られているのが見える。その文字も、埃を被っているために目を凝らさなければ読み取ることはできなかった。

「兄さん、ほらそこ。貼り紙の下」

 懐中電灯が足元を照らす。

 その一瞬で、全てが繋がった。仮説でしかなかった推論が、瞬く間に真実の色を帯びていく。

 しばらくの間、俺たちは言葉を失ったままその場に立ち尽くしていた。

 色鮮やかな一把の花束と、アクセサリーのついた室長愛用のペン。

 それが、置かれていたものの正体だった。



「改めて、整理しようか」

 動揺をどうにか抑え込む。自分を律するためにも、声を出して冷静に努める。硬直していた芽吹も、こくりと首の動きだけで応じた。

「加賀美室長が、体育祭での芽吹の計画に加担した理由。それは、室長にも果たすべき目的があったからだ」

「自らも校舎に立ち入り、ペンと花をここに置いていくことね」

「ああ」

 優勝旗騒動の裏で動いていた芽吹の計画。更にその一枚裏に、まったく別の策謀が潜んでいた。芽吹のために周到に練られたと思われていた計画の細部の全ては、室長にとって最適な状況を作り出すことに繋がっている。

「まず、校舎へ侵入する際の一番の障害が警備員の存在だ。それを突破する方法は限られている」

「ええ。普通なら隙を伺うか、昇降口ではない箇所から乗り込もうとするものだけど——加賀美先生は違った。あの人が選んだのは、方法ね」

 ようやく落ち着きを取り戻した芽吹に、俺は頷き返した。

 一昨日の室長の動向を思い起こす。

 昼時に俺と合流し、弁当とデザートを平らげた後は、ひたすら本部テントの中をビデオカメラ片手に撮影していた。途中、俺は芽吹に付き合わされて室長の隣を離れることがあったものの、その間の映像が残されていることからずっとテントに張り付いていたことが窺える。三脚を持っていなかったことも相まって、それは確実と言えるだろう。

 しかしその後に、映像のない『空白の時間』が存在する。

「先日の体育祭の中で、唯一室長の行動を誰も確認できない時間帯がある。優勝旗を探して俺たちが校舎に突入してから約二十分の間、映像は途切れている」

「少なくとも、私たちには送られてきていないわ」

 最初はビデオカメラの誤作動による録画のミスだと思っていた。しかし、前後の映像はしっかりと撮影できているうえ、復旧に手間取ったという話も聞いていない。おまけに、その時間は俺たちも校舎の中にいるため、室長の姿を確認できていない。

「おそらく、その間に室長は校舎に忍び込んだ。きっと俺たちのすぐ背後から、何食わぬ顔で」

 佐内教諭を筆頭とする、優勝旗を探すために侵入を許可された一派。それに紛れることで、加賀美室長は警備員を突破したのだろう。

 実際、俺も立ち入りを許されている。同伴者のひとりだと思わせることができれば、侵入は容易いはずだ。

 しかし、警備の目を掻い潜った先には、もうひとつ関門がある。

「なるほど。でも、捜索隊に紛れ込んだのはいいとして、そのうちの誰かに見つかったら計画はおしまいじゃないかしら」

「ああ。けれども室長はそれを想定した上で、先に策を弄していた。具体的には、優勝旗を芽吹に隠させる場所を工夫したんだ。三年一組の教室の位置は、室長にとっても都合が良かったんだろう」

 時間を稼ぐために、最上階かつ屋上へと通ずる階段から離れた教室を選んだ。優勝旗のある三年一組に人が集中すれば、屋上付近は手薄になる。室長は芽吹の計画どころか、優勝旗の存在さえ隠れ蓑として利用した。

「用事が済んだら校舎を出て、素知らぬ顔で本部テントに戻る。これなら、芽吹の計画を完遂させつつ自分の目的も十分にこなせるというわけだ」

「……改めて聞くと、やっぱり信じられないわ。私が相談してから、あんな短時間でここまでのシナリオを思い描いていたのね、加賀美先生」

「いや。多分違うぞ、春峰」

 階段の下から、こつこつと足音が響く。

「きっと春峰が相談を持ちかける遥か前から、鴻子は日野原中への侵入を画策していたんだろう。おそらく今年から体育祭に警備員が配置されるという情報を、私があいつに漏らした、その時から」

 暗闇の中から輪郭を表した佐内教諭は、足元の花束に目を向けた。

「今年もいい色合いだな」

 ああ、そうか。

 やっぱりこの人は、どこかで勘づいていたのだ。

 体育祭の時期に現れるという侵入者の正体が、他ならぬ加賀美室長であることに。

「春峰。頼まれていた資料、すぐ見つかったぞ」

「ありがとう先生。それで、どうだったのかしら?」

「ドンピシャだ。全部お前の推測通りだった」

 佐内教諭の声は落ち着き払っている。

 切長の瞳から向けられる、射抜くような視線。そこに様々な感情を滲ませながらも、佐内教諭は事実だけを口にした。

「生徒による屋上からの飛び降りがあった時期と、鴻子が日野原中で教育実習を受けていた時期が、丁度ぴったり重なるんだ」



 小窓に月光が差し、扉に隔たれた屋上がちらりと映る。

 現れたのは、なんの特徴もない無機質なコンクリート張りの地面。

 数年前。まだ解放されていた頃のこの場所で、教師の卵である大学生・加賀美鴻子は何を見たのだろうか。

 窓の方を向いたまま芽吹が尋ねた。

「佐内先生は、加賀美先生の実習先が日野原中だって最初から知ってたの?」

「いや。学生の頃は一度たりとも聞いたことなかった。鴻子の実家が近くにあると聞いて、もしかしたらと思い始めたのは最近だ」

 ふぅん、と相槌が続く。

 教育実習。言わずもがな、教員資格を得るために母校に出向いて行う実習だ。その存在に思い至るためのヒントは、今にして思えば各所に散りばめられていた。

 銀次の話によれば、加賀美室長は新卒で神奈川塾に入社したそうだ。しかし、生徒からペンをもらったのは『前職で先生をしていた時』だと聞いている。塾かどこかでアルバイトをしていた可能性もあるけど、佐内教諭のある発言が『前職=教育実習』という説を有力にしていた。

 面談の日に居酒屋で聞いた話によれば、室長は大学四年生の半ばに教員への道を断念している。一般的に、丁度その頃合いに行われる教育実習で何かが起こったというなら、時期的にも辻褄が合うのだ。

「ほかに調べて分かったことはないのかしら」

「無茶言うな。あの短時間だとこれが限界だ」

「そう」

 ひょい、と芽吹がペンを拾い上げた。

「でも、断言できることはあるわ」

 私が話してもいいのかしら、と芽吹の視線が向けられる。俺は首肯で応じた。真実に向き合うと決めたのは他ならぬ芽吹だ。

 大きく頷いたのち、芽吹は手に持ったペンを俺たちに見えるように掲げた。ペンに付けられた桃色の正三角形のアクセサリーが、ちゃりっと音を立てる。

「このペンを加賀美先生に手渡したのは、屋上から飛び降りたという生徒で間違いないわ。そうでなければ、屋上に供えにくる理由がないもの。それに、花が添えられているということは、おそらくその生徒は——」

「ああ。亡くなっている。そこに至る経緯は私にも分からんけどな」

 一昨日、屋上で事故があったという話は佐内教諭から聞いている。まさかそれが自殺によるものだったとは驚きだった。

 俺と芽吹は今一度、花束のある方へ合掌を捧げた。

「そして何より、今なお加賀美先生はこの件に強い思い入れがある。それこそ、教師の夢を諦めたり毎年花を供えたりするほどに」

 ならば、それらが導き出す真実とは。

「——どれだけ手を差し伸べても私には救えなかった。室長本人は、そう思ってるんだろうか」

「かもしれないわね」

 大切な宝物を託すことのできる信頼関係が、生前のその生徒と室長との間に築かれていたことは間違いない。もしかしたら、何かしらの悩みを抱えた生徒に当時の室長は真摯に向き合ったことがきっかけだったりするのかもしれない。

 けれども二人に訪れた結末は、二度と会うことの叶わない別離だった。

 桃色の正三角形。

 ナチスの時代、それは同性愛者の象徴だった。今回の件がそれと関係あるかは定かではないが、このシンボルマークは現在では『抵抗の象徴』として用いられているらしい。差別を受けてきた人々が、自由と平等を求めた証——

 加賀美室長が大切にしていたのは、何らかの苦しみに抗っていた生徒の生きた証なのだ。誰にも話すことなく、室長はそれを手元に保持し続けた。

 胸の奥に染み付いた、罪悪感や後悔と共に。

 情熱に溢れていた教育実習生は、こうして理を重んじる塾講師へと変貌を遂げたのだろう。

「なんで、言ってくれなかったんだ」

 佐内教諭の声は、震えていた。

 最初はしぼり出すようだった声色が、次第に激情を帯びていく。

「そんなに私は頼りなかったのか? いや、聞いたところで私に何が出来たかは分からないが、何も一人で抱え込む必要はないはずだろう? それを今更、こんな形で……っ!」

 佐内教諭の拳は、手のひらを握り潰さんばかりの力で固く握られていた。けれども込めた力は行き場を失ったようで、冷静さを取り戻すと同時に拳は力なく開かれた。

「不器用が過ぎる」

 ぽつりと溢した佐内教諭の一言が、胸にストンと落ちる。芽吹も細い腕を組みながら、その言葉にしきりに頷いていた。

「まったくその通りね」

「言っておくが、お前たちも大概だからな」

「……えっ?」

 芽吹と二人して顔を見合わせる。

 互いに泡を食ったような表情の俺たちに、佐内教諭はため息を漏らす。

「だってそうだろう。どいつもこいつも、なんで周りくどい方法しかできないんだ。知りたいこと、抱えていること、伝えたいこと、全部素直に吐き出していれば、もっと簡単に解決できただろうに」

 言いたいことがようやく理解できた。

 過去を胸の奥底にしまい込んで、無理やり再スタートを切ろうとした俺も。

 異郷の地に来てなお、ジレンマをひとり抱え続けた芽吹も。

 いつまでも過去の至らなさを引きずったままの室長も。

 全員、胸の内を自ら吐露することなくここまで来てしまった。

 今にして思えば、『芽吹や加賀美室長が画策し、俺や佐内教諭が暴く』という今回の方法は迂曲もいいところだ。もしかしたら、もっと簡潔で合理的な道があったのかもしれない。

 呆れ顔の佐内教諭による説教はなおも続く。

「イソップ寓話に『北風と太陽』という話があるだろう? 北風は強引かつ直接的、太陽は寛容かつ間接的な方法で成功を狙う話だ。結果的に勝ったのは太陽だが、必ずしも太陽の方が優れているとは限らないと私は思っている」

「と、言いますと?」

「お前たちが目指すべきは、時と場合に応じて北風にも太陽にもなれるような人間だ。違うか?」

 その言葉に、俺と芽吹はハッと息を呑んだ。

 佐内教諭は俺たちのやり方を全否定しないどころか、伸び代を信じてくれている。教育者として、はたまた人生の先輩として、もう一度前を向くための活力とチャンスを貰ったような気がした。

 そんな俺たちを見て、佐内教諭の切長の瞳が一層細められる。初めて見せた『鬼軍曹』の笑顔は、想像以上に温かなものだった。

「まあ、若いうちはまだ時間がある。ゆっくり考えてみるといい」

「はい」

 俺と芽吹の返事が揃う。

 それを聞き届けて、佐内教諭は満足そうに頷き返した。

「さてと。若くないし時間もない鴻子には、今から直々に『紫水晶』でたっぷり説教をくれてやるとしよう。ようやく腹を割って話せるんだ、鴻子からも洗いざらい吐いてもらうまで帰さないからな」

 昇降口へと続く階段を下りながら、早くも携帯電話を耳に押し当てている。その横顔は、言葉とは裏腹に嬉々としていた。

「俺たちも帰ろうか」

「ええ」

 ペンと花束をその場に残し、俺と芽吹も屋上階をあとにする。

 家路の最中、頭の中を巡っていたのは佐内教諭の言葉だった。

『時と場合に応じて北風にも太陽にもなれるような人間』。それは、片一方のやり方しか知らない俺たちにとって困難極まりない目標である。

 けれども、不可能という気はしない。

 きっと今後も、俺たちは不器用ながらも目標に手を伸ばし続けるだろう。神奈川塾の中で、俺と芽吹と加賀美室長とで、それぞれのやり方を見つけていく。

『人生の拠り所であり、通過点でもある』

 俺たちの職場は、まさしくそんな場所だ。



 珍しく、夕食をスーパーの惣菜で済ませた。

 それほどまでに俺も芽吹も疲労が溜まっている。芽吹に至っては、風呂から上がるなりすぐに寝入ってしまった。五科目の模擬試験にバザーに夜の学校での謎解きにと、大変過密なスケジュールを完遂したのだから無理もない。

 俺はといえば、鉛を着ているのかと錯覚するほどまでに足腰が重くなっているものの、眠気は一向に襲ってこない。ダイニングテーブルに突っ伏してひたすら睡魔を待っているのも気が引けるので、佐内教諭から貰ったクッキーの包みを開ける。半分を小皿に取り分け、もう半分は芽吹にとっておく。

「こんな時間のお菓子なんて、罪の味しかしないんじゃないのか……ん?」

 口に放り込んで、噛むこと数回。俺は首を傾げた。

 クッキーの風味に妙な既視感(味の場合もそう言うのだろうか)がある。無論、罪の味云々は関係ない。

 ふわりと広がるほのかな甘みの中に見え隠れする独特の深み。この味を、俺は知っている。その正体を突き止めるべく記憶を辿っていると、手元の携帯が小さく鳴った。佐内教諭からショートメールが届いている。


『門出へ 今日の件については、また後日詳しく話そう。

 ついでにその時、クッキーの感想も教えてくれると有難い。

 春峰にもよろしく伝えてくれ 佐内』

 

 文面と合わせて、居酒屋『紫水晶』で撮影したと思しき写真が送られてきた。構図からして、佐内教諭が自撮りを試みたものだろう。目尻にメイクの剥がれた跡が窺えるものの、写真の中の女性二人は笑っていた。

「そうか」

 やっと既視感の正体に気づいた。体育祭の時に食べたパンナコッタと同じく、黒蜜が隠し味に用いられている。

 確か、加賀美室長と佐内教諭は大学時代に同居していた時期があった。その中で、室長の趣味であるお菓子作りに二人して臨んだり、感想を求め合ったりする機会があったのかもしれない。あくまで妄想じみた推測の範疇だけれど、このクッキーは室長に向けての『仲睦まじかった当時を思い出してくれ』という意味を込めたメッセージだったのではないだろうか。

「……俺が貰って良かったのか?」

 途端に湧き上がる罪悪感。

 とはいえ写真を見る限り、メッセージは届けられずとも佐内教諭の願いは叶ったようだ。吹っ切れたような二人の笑顔が、それを物語っている。

 おそらく、室長が日野原中の屋上に上がることは金輪際ないだろう。

 説教を食らったからというより、元から今年で最後と決め込んでいた節がある。そうでなければ、俺や佐内教諭に暴かれることを織り込み済みで、長年大切に所持していたペンを屋上に置き去りにしたりはしない。

 それはきっと、室長なりの決意の形なのだ。

 過去の無力さを引きずってばかりではなく、今後の生徒たちへの糧とする。そう決心させたきっかけの一つが、芽吹から持ちかけた相談なのかもしれない。

 芽吹も芽吹で、美咲や心寧との交友関係の再スタートを図ろうとしている。事件を経て、彼女らは過去を背負いながらも前進することを選んだ。

 なら、俺はどうする。

「そんなの、決まっているじゃないか」

 テーブルの上に置かれた、黒い日記帳を手に取る。

 因果の果てに奇しくも事件の引き金を引くことになったこの日記帳は、実家の母から唐突に送られてきた。当初は不明瞭だったその目的が、今なら身にしみて分かる。

 きっかけは、箕輪先生の『人の立場に立って考える』という言葉だった。

 高校時代を彩った思い出の全てを実家に捨て置いて、俺は郷里を離れた。何も言わずに見送ってくれた母は、同じく実家に残された高校生活の象徴たちを見て何を思ったのか。答えは明白だった。

「ありがとう母さん。大丈夫、ちゃんとうまく付き合っていくから」

 心の内で礼を述べ、日記をぱらぱらとめくる。

 今から行う行為が俺にとって本当に『前進』なのかは定かではない。けれども、激動の高校時代やそれらと決別していた三月下旬を経たからこそ行える選択だと思えば、前進と言えなくもない……かもしれない。

 携帯を手に取り、通話のアプリケーションを起動させる。

 発信先は『一週門』というグループ。決して『一週間』の書き損じではない。構成員のうち五名の苗字に『月火水木金』の漢字があり、残る一人の苗字の頭文字が『門』であるためにそう名付けられた。誰が名付け親かは覚えていない。

 数回のコールを経て程なく。久しい面々が、電話越しに再び繋がった。

『よう。門出から電話なんて珍しいな』

『久々だね、門出君』

 懐かしい声の数々に、思わず口元が緩みを帯びる。高校時代、あらゆる場面で面倒ごとに巻き込んできた友人たちの存在が、まさかここまで懐かしさを伴っているとは。

 前進の第一歩として、宝箱の底にしまい込んだ思い出と再び向き合うことを俺は選んだ。第二の人生ではなく、当時の延長線上をこれからも歩んでいく。事件を経て、目指す目標に手を伸ばすために。そしてその先に、次の世代を生きる生徒たちに何か託せるものがあると信じて。

 黒い日記帳が、今回その役割を果たしたように。

『どうした門出、何か用があるんじゃないのか?』

「いや。なんとなく、みんなの声が聞きたくなっただけだ」

『何だよそれ、くっせえ台詞だなぁ』

 短いようで長い一ヶ月という時を経て、六人の笑い声が重なり合った。

 

 

 

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