3-2 塾講師は親友じゃない 2


 下足箱には、既に生徒の靴が何足かあった。

 日野原中は先週金曜から続く個人面談週間の最中で、昼過ぎに授業を終えてしまうらしい。先日、芽吹が早々に自習に来ていたのもこれに起因する。

 ロビーに生徒の姿はない。しかし念には念を入れ、俺は美咲の母から聞いた件について室長に小声で聞いてみることにした。

「謎の休日出勤者だって?」

「はい。日曜の夜まで誰かが働いていたそうですけど、ご存じないですか?」

「ないね。絶対にない」

 加賀美室長は自信満々に言い放った。ここまで断言されると逆に怪しい。

「その根拠は?」

「だって考えてみたまえよ。面談期間は平日ですらこんな早く教室を開けなきゃならない。ましてや日曜まで働かせるなんて、ブラックもいいところだ。だからうちの会社の辞書に休日出勤の文字はない。これからもずっと、未来永劫にな!」

 ハッハッハと高らかに笑う室長。

 なんというか、私欲と願望に満ちた酷い推理だった。期待はしていなかったものの、損した気分である。

「真面目に答えると、本当にそんな話は聞いたことがないね。何しろ、鍵の番号は私と土方殿しか知らないんだ。どんなお偉いさんが来ても開けることは不可能だよ」

 なるほど。どうりで講師控え室がお菓子作りの器具の置き場と化しても上から怒られないわけだ。

 加賀美室長は、パソコンデスクの引き出しから校舎の鍵を取り出した。ダイヤル式の南京錠に、手のひらサイズの金庫が取り付けられている。

「これがその鍵だ。校舎の扉は差込式の鍵だが、それをこの南京錠に入れて玄関口にぶら下げている。四桁の暗証番号にダイヤルを揃えられたら、扉の鍵を取り出せる仕組みだな。私が休みの時は土方殿が開けられるように、わざわざダイヤル式にしているんだ」

 手渡された錠前は想像以上に重く頑丈な作りだった。ダイヤル式なら、本社の誰かがマスターキーを持っていたという可能性も除かれる。休日出勤の謎は依然、謎のままだ。

「鍵の話はともかく、全社員のタイムカードを確認しても日曜の入室記録は残っていなかったよ。本当に誰かが働いていたのかい?」

「それは……渡合さんのお母様の話だと、どうもそうらしいですけどね」

 うーん、と二人で少しばかり唸ったのち、自然に室長と目が合う。

 妙に細められたその視線は、間違いなく苦労を強いられる予兆だ。回数を重ねて、段々と嫌な予感が的中するようになってきている。俺としては心底不本意なのだが。

「君さあ。こういった厄介事、割と好きだったよね?」

「割と嫌いです」

「よし決めた、この問題は君に預ける。何しろ私は今日から始まる『友達紹介キャンペーン』に注力しなければならないからね」

 極めて理不尽である。

 なぜこうも毎回俺ばかり貧乏くじを引かされるのか。それとも、また何かを試されているんだろうか?

 抗議の声を上げようとしたけれど、加賀美室長はすでに手元の図書カードの枚数を数え始めている。彼女の中ではもう決定事項であるらしい。こうなってしまえば覆ることはないだろう。

 今回もやるしかないのか……。

 はて、と作業中の室長が首を傾げた。

「門出君。私が発注した図書カードの枚数は四十枚なのだが、数えてみたら一枚足りないんだ。何か心当たりはあるかい?」

「先週俺に渡した分じゃないですか?」

「……それだ」

 全てにおいて、先行きが心配である。



 一限目の時間が迫り、ロビーがにわかに騒々しくなる。

 こういった場合、講師は『自習してる人もいるから静かにしてくれ』と宥めるのが通例である。しかし今回は、なぜか俺が喧騒の中心にいた。

「くそっ、急がないと間に合わないぞ!」

「まずは落ち着いてください、先生」

 巨大な黒い箱を前に、時間との戦いを強いられる二人。

 挑むべくは、室内に仕掛けられた時限爆弾……ではない。

 今になって、室内に備え付けられている業務用コピー機が動かないことが発覚したのだ。授業準備が滞るのを防ぐため、俺は急いでその対処に当たっている。

「主電源いじってもまるで動かん。寿命か? 反抗期か? かくなる上は……」

「だから一旦冷静になりましょうって!」

 頼れる相棒は、バスケ部三坊主の一角・ビンゴこと備後宗悦びんごむねよし。彼は俺に比べて機械にめっぽう強いようで、七転八倒する俺を見かねて加勢に来てくれていた。今も、必中のチョップを構える俺を羽交い締めで抑えている。家電製品は叩けば治るというのは、もう過去の常識らしい。

 ちらほらと生徒がギャラリーに集まる。見世物じゃないからさっさと散って小テストに備えてくれ、と追い返すような余裕は俺にはない。

 一刻を迫られる中、ビンゴが声高に叫んだ。

「先生、わかりました!」

「よくやった! 原因は何だったんだ?」

「電源のコードが抜けていたようです」

 随分と古典的なオチがついた。ギャラリーの生徒たちの興も一気に冷めたようで、一人また一人と教室へ流れ込んでいく。俺は先ほどの自分の狼狽っぷりが恥ずかしくなり、その場にへたり込んだ。

「ありがとう、おかげで助かった。でも見苦しいところを見せてしまったな」

「いえ。タイムリミットが近いと焦りますよね」

 ビンゴは笑顔のまま答えた。

 小馬鹿にされるかとも思ったけど、杞憂で済んだようだ。さすがはバスケ部の司令塔を務めているだけあって、俺より人間が出来ているのかもしれない。

 電源プラグを差し込もうとして、ビンゴの動きがぴたりと止まる。

 彼の視線の先、プラグの先端に群青色の糸が付着していた。普通の縫い糸より太く頑丈な繊維のようで、少し離れた位置からもはっきり見えるほどだ。

「どうかしたのか?」

「いえ、別に……時間に追われて本当に焦っているのは、どっちなんですかね」

 何やら意味深なつぶやきを残し、ビンゴはプラグを壁面のコンセントに突き刺した。黒々と空いていた小さな穴が二つ、ぴたりと塞がれる。

 コピー機がうなりを上げた。こちらの苦労も知らないで、呑気にうぃんうぃんと音を立てて印刷を仕上げていく。

「じゃあ、僕は自習するのでそろそろ行きます。また機械関連で困ったら呼んでくださいね」

「ありがとう。次は俺も失態をしないよう気をつける」

 立ち上がり、自習スペースへと向かうビンゴ。一瞬見せた表情の陰りを隠すように、朗らかに微笑む。

 それでも、隠し切れていなかった。

 コピー機と格闘している時は頼もしかった背中が、今はとても小さく見える。



 二限目が終わると、俺はロビーにて事務作業に取り掛かった。授業のない時間を一時間だけ貰っている。

 友達紹介キャンペーンが始まれば体験入塾希望者が増えるだろう。その手続きに必要な書類を用意しながら、俺は謎の出勤者について考えを巡らす。

 そもそも、美咲の母はなぜ誰かが『働いている』と分かったのだろうか?

 室内の様子を把握するには、塾舎の扉を開けるほかない。すりガラスの窓越しには室内を伺えないからだ。でも、美咲母が来たという報告は誰からも聞いていない上に、昨日は誰も出勤すらしていない。

 ひとりで頭をひねっていると、玄関口の引き戸が開かれた。

「先生こんちわっす!」

「おお、いらっしゃい」

 つるりとした坊主頭が二つ、顔を覗かせる。

 ビンゴを除いたバスケ部三坊主・エースとシティだった。威勢のいい方がエースで、シティは相変わらず無言だけどしっかり腰を折って会釈している。

「珍しく遅かったけど、どうしたんだ?」

「いやぁ。俺たち二人とも、体育祭の実行委員なんすよ」

 こくこく、とシティが首を縦に振る。

 既にビンゴが来校しているから、今日は部活がない日だろうとは思っていた。いつもは三人とも早々に訪れて自習(大抵はビンゴが他二人の面倒を見ている)を始めるものの、他二人の姿が見えないから不思議に思っていたところだった。

「そうだったのか。いいな、体育祭」

「いいっすよね、体育祭。準備する側は一苦労なんすけどね」

 体育祭も個人面談期間も、大小の差はあれど中三生にしてみれば束の間の非日常だ。勉学に漬け込むであろう一年間にそうした若干のスパイスが加わることで、彼らは一回りも二回りも成長する。

 五教科だけ学んでいれば大人になれるわけじゃない、とは恩師の談だ。

「それとは無関係なんすけど、ひとつ質問いいっすか?」

「いいよ。なんでも聞いてくれ」

 ここに落とし穴が存在する。

 恩師の言葉は限りなく正しい。この職に就いてからはなおさらそう思う。

 しかしながら、一端の塾講師が五科目以外の全てにおいて師となれるかはまた別問題である。とりわけ、俺には中三生と比較しても苦手だと断言できる分野が二つある。ひとつは機械、そしてもう一つは――。

「先生、恋愛事って達者っすか?」

「……想像に任せる」

 今日一日で二分野ともに直面してしまうとは。

 恋愛に関して言えば、今までの人生の中で甘いエピソードが皆無というわけではない。しかし、高校在学中の日記帳を見れば分かるように、日々を彩っていたのはほとんどが甘酸っぱさよりも疲労を伴うような出来事ばかりである。

 要するに、他が放ってくれなかったのだ。

 それは言い訳であるにしても、疾風怒濤の如く過ぎ去った高校時代の果てに、現在懇意にしている人はいない。そういった相談事を寄せられた経験も乏しいため、達者とはかけ離れた位置にある。

 あまりアテにするなよ、と心の内で念じながら、俺は一応話を聞くことにする。教え子の頼みを聞かずに突っぱねるというのも気が引けるからだ。

「で、どうしたんだ?」

「これは俺たちの話じゃないんすけど……友達に、どうも最近女ができたらしくて」

「言い草がおっさんだぞ」

 気にせずエースは続けた。

「土曜日の夜に密会してるのを、シティが偶然見たらしいんすよ。良心が痛むからって、写真を撮るのはやめたらしいっすけど、すぐに俺に連絡が来てめちゃくちゃ驚いたっす」

 エースが話す傍ら、シティは自習スペースの方をしきりに気にしている。なるほど、友人というのはビンゴのことであるらしい。彼らは日頃から本当に信頼し合っている間柄だ。良心に障るというのも納得である。

「良かったじゃないか」

「でも、なんていうか……正直複雑っす。アイツ本人からの報告もないので、触れていい話題なのか分からなくて。かといって、知らないふりをしてればアイツだけどんどん遠くへ行っちゃうような気もするんっすよ」

 シティもしきりに頷いている。

 ベストアンサーはとっさに浮かんでこない。単に苦手分野だからというわけではなく、これは彼らの友情の問題だからである。

 同じチームに所属し、同じ塾に通い、同じ高校を目指す。今は三位一体に等しい彼らも、その関係がずっと不変とは限らない。様々な節目で、少なからず変化の時は訪れるだろう。今がその時なのかもしれない。

 でも、変化をどう捉えるかは本人たち次第だ。完全なる友情の定義なんてないのだから、その時々で彼らが導き出した答えが正解だと信じるほかない。

「とりあえず、異変が起こらない限りは当人から切り出してもらうのを待った方がいいかもな。色々考えるのはそれからだ」

「やっぱそうっすよね……」

 俺の言葉は無責任で、到底納得できる答えではないだろう。それでも俺は、彼らに結論を委ねたかった。

 ありがとうございました、とエースは深々と頭を下げた。シティもそれに続く。

 その際、俺の目はある一点に留まった。

「指、どうしたんだ?」

 エースの左手の指に、包帯が巻かれている。それも一本ではなく、親指を含めた数本がまとめられていた。

「これっすか? 土曜日の練習試合でヘタこいて突き指したんすよ。全治三週間なんで、それまでバスケはお預けっすけど、夏の大会には間に合うんで大丈夫っす!」

 それでもかなり痛そうだ。俺が指から視線を外せないでいると、エースはあっ、と小さく声を上げた。

「もちろん勉強にも支障はないっすよ、右利きなんで。むしろバスケが出来ない期間で極めるつもりっす」

「そうか……無理はするなよ」

 一拍置いて、はいと返事が返ってくる。

 その言葉尻に差した影に、俺は自らの失態を自覚した。エースは努めて朗らかに振る舞っているけど、色々なことが重なって内心明るくはないだろう。無理をするな、という方が無理なのである。

 加賀美室長や俺の恩師なら、どんな言葉を選ぶだろうか?

 俺は久々に、己の不器用さと未熟さを苛立たしく思った。



 五限目が終わる。

 大半の生徒が帰った後の教室から、賑やかな声が聞こえた。きゃいきゃいと騒いでいるのは、美咲・心寧・芽吹の三名。それに加えてもう一つ、甲高い声が混じっている。

「あのバスケ部の三人、意外と校内に女子のファンが多いんだよねー」

「やっぱりそうなんだ! わかるなぁ、誠実そうなスポーツマンって、なんだかんだモテるんだよね」

 心寧と談笑するのは、数少ない同期・箕輪みのわ先生だった。

 俺は室内に入るのを躊躇った。何しろ会話の内容が内容である。乙女乙女した空間には、どうも単身飛び込み辛い。

「あー、そういうんじゃなくて……うち二人がデキてるんじゃないかって、もっぱら噂なんだよ、特に後輩女子からー」

「ああ、そういうアレなのねぇ」

 思わずズッコケそうになった。

 確かに三人は常に一緒に行動することが多く、親密であるのは間違いない。しかし、彼らよりもあっさりした友情観を持つ者からすれば、それが友情とは別の何かに見えてしまうのかもしれない。

 美咲は興味ないふりをしつつも耳だけは会話に傾けている。芽吹は本当に無関心なようで、件の日記帳を読みふけっていた……そろそろ飽きないのだろうか。

「なんでもー、最近三人でお揃いのミサンガをこさえたらしいんだよね。それで確信しちゃった女子が多くてさー」

「そうなんだぁ……あはは」

 箕輪先生が苦笑いするのを尻目に、俺は美咲をジェスチャーで呼び出した。話に花を咲かす二人を名残惜しそうに見つめながら、美咲は静かにその場を脱する。

「渡合さん。ひとつ聞いてもいいか?」

「いいですけど……ひょっとして先生も気になるんですか、あの三人の関係」

 んなわけあるか。

 俺は無視して続けた。

「昨日、お母さんが塾に関して何か言ってなかった? 夜に前を通りかかったらしいんだけどさ」

「はい。確か、バスの窓越しに明かりが点いていたのを見たそうです。日曜遅くまでお仕事してるから、ちょっと心配とも言ってましたけど……ひょっとして門出先生だったんですか?」

「……ああ、そうだ」

 適当にごまかしておく。塾内で問題が発生したことは、混乱を招かないように伏せておきたい。

 やはりそうか。

 塾舎の外からでも分かる室内の情報は、一つしかない。すりガラスの奥に電灯が点いているか否か、それだけだ。

「ありがとう、助かった」

「いえ。先生こそ、遅くまでご苦労様です。くれぐれもお体に障らぬよう、気をつけてくださいね」

 そう残して、美咲は仲間のもとへ戻っていく……と思いきや、道中で振り返った。

「あとは私たちに任せてください。あの三人の関係は、先生の代わりに私たちで掴んでおきますから!」

 それは誰も頼んでいない。



 これでようやく見えてきた。

 おそらく美咲の母は、『日曜なのに電気が点いている』という点から休日出勤だと思ったのだろう。しかし、その日は誰一人塾舎に赴いていないという。

 つまりこれは……

「立派な不法侵入だ」


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