3-3 塾講師は親友じゃない 3


「——ってことが昨日あったんだ」

「ふーん」

 翌日、所変わってここは俺の通う大学。

 昼時の学食は人で溢れかえっている。柱の影に空席を運良く発見し、どうにか昼食にありつくことができた。鯖の塩焼きと事件の概要をおかずに食べる白米は、妙な味がする。

 目の前で親子丼をつつく友人は、不服そうな表情を浮かべていた。

 ぶすっとしてても可愛いな、と言いかけて思い留まる。こいつはそういった類の言葉を好まない。余計に機嫌を損ねること請け合いだろう。

 改めてその容貌を眺める。

 芽吹といい勝負の華奢な体に乗っかるのは端正な顔立ち。綺麗に生えそろった長い睫毛の下から覗く大きな瞳は吸い寄せられそうなほどである。

 見とれている場合ではなかった。不機嫌が増しつつある友人に、俺は慌てて尋ねる。

「この手の話は好みだと思ったんだが、お気に召さなかったか?」

 返答はない。友人はひたすらに臙脂色のレンゲを動かし、瞬く間に親子丼が消えていく。丼が期待外れだったから拗ねている、というわけではないらしい。

 しばらくして。食べる手を止めた友人は、高めの声でぼそりと呟いた。

「ずるい」

「……何だって?」

「ずるいよ窓太だけ! 今まで楽しそうに話してくれた謎の数々に惹かれてバイト応募したのに、よりによってのいない時に起こるんだから」

 さっきまで親子丼で満ちていた頬を、は膨らませた。

 草間銀次くさまぎんじ。数少ない大学の友人たる彼こそが、俺がアルバイト先に紹介した件の新米講師である。

 中性的な風貌と仕草が目を引く彼は、心身ともに男。出会ってしばらくは俺も疑わしく思っていたけど(今なおそう思わせる瞬間がある)、そんなふうにからかわれるのは彼曰く大変煩わしいとのことだ。

 彼も彼で、かなり苦労しているらしい。

「そうだったのか? バイト変えたのって、てっきり前の居酒屋の店主がしきりにお尻触ってくるからだとばかり――」

「その話は蒸し返さないでほしいな。あれは僕の中で、もうなかったことになってるんだ」

「……分かった。なんかスマン」

 同じ苦労を味わうことはないかもしれないけれど、せめて同情の念を送る。

 どういうタイミングなのか、鯖の小骨が歯茎にこつりと当たった。

「それより、さっきの話の続き聞かせてよ」

「そう言われても、事件に関してこれ以上の情報はないんだけど」

「何言ってるのさ。窓太の推理をまだ聞いてないじゃないか」

 親子丼を綺麗に平らげ、食後にとっておいた牛乳プリンを頬張る銀次。その視線は好奇の色で満ちている。

 いくら期待を掛けられているからといって、すぐ簡単に真相が浮かび上がるほど俺の頭はハイスペックではない。歯茎に刺さって動かなくなった小骨のように、まだ引っかかる点がいくつもある。

 俺は爪楊枝を動かしながら、まだ期待に応えられないことを詫びた。

「正直まだ考えがまとまらないんだ。もう少しだけ待ってほしい」

 銀次はとくに気にしたような様子もなく牛乳プリンを堪能している。大事そうにスプーンですくい上げ、ゆっくり味わって咀嚼する。ついさっき胃の中に乱暴に押し込まれた親子丼が少し不憫に思えた。

「了解! 僕の方でも何か分かったら伝えるね」

「助かる。それで、代わりの話題と言ってはなんだが……ひとつ聞きたいことがあるんだ」

「どうしたの?」

 不法侵入事件に加えて、目下の悩みはもう一つある。

「何かの拍子に性格が劇的に変わることって、あると思うか?」

 無論、芽吹についてだ。

 現在の共同生活に支障をきたしているわけではない。けれども、ふとした瞬間に違和感に襲われることが度々ある。数年前の芽吹の眩い笑顔が、脳裏に時折ぼんやりと浮かんでは消えていく。

 まだ何か確信があるわけではないため、詳しい事情を全て銀次に話すことはできない。それでも銀次は、牛乳プリンを食べる手を止めて考え込んでくれた。

「うーん、難しい質問だね。かなりありきたりな意見かもしれないけど、僕はないと思う。人格の入れ替わりとか、滅多なことでも起こらない限りね」

「その心は?」

「例えば、気分や相手によってキャラクターを変えることはよくあるよね。表面を繕うことは簡単だけど、根底にある哲学や行動原理はころころ変わったりしない」

「要するに、仮面を被っているだけってこと?」

「あくまで可能性が高いってだけさ。窓太が気を揉んでるのが誰なのか分からないから、それ以上のことは推察のしようがないよ」

 俺は芽吹の姿を思い浮かべる。

 数年前に見た天使のような笑顔。そして、現在の芽吹が見せる冷めきった瞳。どうも人や時を選んで使い分けていたような様子は記憶になかった。

 銀次の言う通り、重ならない二つは元を辿ればどこかで繋がっているんだろうか?

 そうだとすれば、何が原因で分かたれてしまったんだろう?

 俺が唸っていると、銀次は捕捉するように続けた。

「ほら、生徒たちにもそういう使い分けが上手い子っているよね。美咲ちゃんやエース君は常にありのままだけど、心寧ちゃんやビンゴ君はそういうタイプじゃない?」

「心寧は分かるけど、ビンゴまでそうだったのか」

「うん。こないだ街中でばったり会った時、塾でなかなか見ないような浮かない顔してたよ。塾では平然を装ってたけど、実は進路で悩んでるんだって相談を持ちかけられたんだ」

「装ってる、ねぇ」

 記憶に新しいのは、昨日の授業前に見せた憂いに満ちた表情。その裏に隠していたのは進路の悩みだったのか、それとも――

 その前に、ひとつ気になることがあった。

「ひょっとしてそのまま相談に乗ったりしたのか?」

「もちろん。ビンゴ君、機械系にも興味あるって言ってたから丁度いいかなって思って」

 俺は頭を抱えた。

 確かに、彼の相談に乗るのは現役工学部の銀次が相応しいとは思う。だけど、時と場所が問題なのだ。

「銀次。勤務時間以外や塾の外で生徒と会うのは今回限りにしてくれ。俺たちは塾講師であって近所の親しいお兄さんじゃない。マニュアルにもそう書いてあったぞ」

 俺たちは給料を貰って、それに見合った時間で仕事に臨んでいる。そのため、プライベートとの境界をはっきりさせるのは重要だ。

 善意で行ったとしても、『あの講師は時間外でも働いてくれる』と思われては労働契約が意味を成さなくなる。

 銀次は神妙な面持ちで頷いた。

「分かった、次から気をつける」

「よろしい」

「あれれ? こんなところで鉢合わせるとは、とんだ偶然だねぇ」

 妙に明るいテンションを引っ提げてやってきたのは、もう一人の同僚・箕輪みのわ先生だった。職場以外でめったに見かけないため、大学の同期だということを度々忘れることがある。

 銀次は工学系、俺は生物学系と理系揃いだ。それに対し、箕輪先生は確か日本文学専攻なので授業も一緒にならない。こうして会うのは新鮮だった。

「それで、二人で何の話してたの?」

「窓太の知り合いの性格がまるっきり変わっちゃって、なんでだろうねって考えてたんだ」

 事情を話せば長くなるので、銀次に便乗して頷いておく。

 すると箕輪先生は目を細めて妙な視線を寄越してきた。口元は三日月のように吊り上がっている。

 俺は同じような笑い方をする人に心当たりがある。

 そして、その人が笑う際には決まって悪寒が背中を駆け回るのだ。

「ふーん」

「……どうした?」

「いやぁ、ちょっと考えれば分かるよ。だってほら、性格や振る舞いが突然変わるきっかけといえば、アレしかなくない?」

「アレって?」

「もう分かってるくせに。ズバリ、――――に決まってるよ!」

 その答えを聞いて、俺は天を仰いだ。


 

 夕刻。茜色に染まる街を、従妹と並んで歩く。

 俺を除いたバイト講師二人は、各々の学問を終えて出勤している頃合いだろう。本来なら俺も塾にて授業準備に勤しんでいる時間だけど、今日は外せない用事があるためシフトを振り替えてある。

 芽吹の三者面談。

 保護者代理として、それに参列しなければならない。

 しかし、俺たちの向かう方向は日野原中学校とは真逆だった。

「なあ芽吹。本当にこっちで合ってる?」

「ええ。もらった地図にはそう書いてあるわ」

 相模原さがみはら市・淵野辺ふちのべの町は、駅を境に様相が全く異なっている。

 俺たちの住む南側は、住宅・中学・俺の職場に加えて公園や大型マンション、小規模なスーパーマーケットなどが目立つ。そこから駅を越えて北に向かえば、私立大学のキャンパスとそれを取り巻く飲み屋がひしめくエリアとなる。普段は縁のない北側の一角が、今日の目的地だった。

 ちらりと横眼で芽吹の様子を伺う。

 道中、俺たちの口数は少ない。加えて芽吹はいつも通り眠そうで、何を考えているのかさっぱりだった。

 思い出すのは、昼間の箕輪先生の言葉。まさかとは思うけど、否定できる要素はどこにもない。ひょっとすると、俺だけが異様に鈍くて気づいていないのかもしれない。何しろ一番の苦手分野だ。

 ――少し試してみるか。

「芽吹、学校は楽しい?」

「もちろん。転入生として珍しがられることはもうなくなったけど」

「そうか。それでその……何だ、最近いい感じの人とかはいないのか?」

 一瞬、芽吹の足が止まりかける。

 驚いて振り向くも、そこには変わらない芽吹の表情があるだけだった。

「なんで兄さんと恋バナに興じなきゃならないのかしら……はぁ。そうね、いつかそんな人が出来たら、そのうち紹介すると思うわ」

「随分と適当だなぁ。分かった、その日を気長に待ってることにするよ」

 ともかくアテは外れたようだ。ほっと安堵のため息をつく。何に安心したのかは、俺にもよく分からない。

 代わりと言うべきか、箕輪先生の『ズバリ、恋に決まってるよ!』というアドバイスが役に立たなかったことは身に染みて理解できた。

 そんなこんなで目的地に辿り着く。

 案内された場所は比較的分かりやすかった。というのも、地図に記された場所に妙齢の女性が仁王立ちしていたからである。

「遅いッ」

「指定された時間には間に合っているはずですけど」

「阿呆。こんな場所で待たされる一分は一時間にも等しいのだ」

 女性は、自らの掛けていたサングラスを押し上げる。きりっとしたつり目が、影の奥から現れた。

 この人と会うのは芽吹の転校の手続き以来である。

「お久しぶりです。いつも芽吹がお世話になっております、佐内さない先生」

 芽吹の学級担任、佐内真琴さないまこと教諭。

 薄化粧にウィンドブレーカーの羽織りという出で立ちでも、有無を言わせぬ迫力がある。あらかじめ芽吹から聞いていた『鬼軍曹・熊殺し・女傑』などのあだ名を思い出し、俺はひとり納得した。

「ああ、久しぶり。御託は良いからさっさと始めるぞ」

 そう残して、佐内教諭は大股で背後にある店の内へと足を踏み入れる。その姿が暖簾の奥に消える前に、俺はとっさに呼び止めた。

「あの、その前にひとつ聞いてもいいですか?」

「できれば手短に頼む」

 ポコポコと湧いて出てくる疑問の中から、最も気になっていたひとつを選び抜いて尋ねる。

「なんで面談の会場が居酒屋なんですか?」

 居酒屋『紫水晶』と、暖簾にあった。怪しげな名前に反して、店内からは芳醇な出汁の香りが漂ってくる。店頭のお品書きには、串料理の名前がずらりと並んでいた。

「理由は主に二つ。ひとつは、君との面談を他の保護者に聞かれたくなかったから。二つ目は、なんというかここの方が腹を割って話しやすいだろうと思ってな」

 実際、この申し出は俺たちにとってはありがたかった。

 事情があるとはいえ、俺たちは未成年二人で暮らしている。何か後ろめたいことがあるわけではないけれど、これを他の保護者が聞けば心配に思うだろう。それを見越して、佐内教諭が配慮してくれたが故の別会場なのだ。

「最初に断っておくが、君たちは一滴も飲むなよ?」

「だったら居酒屋に連れてこないでくださいよ」

「ここは一品料理も充実しているから心配ない。少しなら金も出す。だから少しばかり付き合ってくれ」

 この人、結局飲みたいだけなんじゃないか?

 悩んだ末、俺たちは佐内教諭に連れられるままに店内に足を踏み入れた。

 人の好さそうな剃髪の店主が出迎えてくれる。

「待たせてすまない。いつもの席に頼む」

 佐内教諭は妙に慣れている様子である。行きつけの店なのかもしれない。

「はい。ご注文も普段通りで宜しいですかな?」

「いや、今日はアイツがいないから改めて決めさせてくれ」

 すると店主はきょとんとした表情を浮かべた。

「いつもの方なら、もういらっしゃってますが……?」

 店主の指さす先。そこには牛串にかじりつく見知った顔があった。

 一瞬、空気が硬直する。横を見れば、佐内教諭もどうすべきか迷っている様子である。

「お?」

 俺たちが行動を起こす前に、先客はこちらに気づいて視線を上げた。

 大変、迂闊だった。

 その人が今日のシフトにいないことは予め知っていた。しかし、街で鉢合わせてしまうという可能性をなぜ考えなかったのか。

 先客は興味深そうな視線をこちらに注いでいる。

「なんとまあ、珍しい取り合わせだね」

 牛肉を咀嚼していた口の両端が吊り上がった。それを見て、もう逃げることは不可能だと悟る。

「ようこそ、私の隠れ家へ」

 他ならぬ加賀美室長が、カウンター席の端を陣取っていた。

 

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