3-4 塾講師は親友じゃない 4
居酒屋の料理というものは、やや値が張るだけあって軒並みハズレがない。
看板メニューの串料理もさることながら、佐内教諭の勧めで頼んだもつ煮込みには驚かされた。舌の上で自然と蕩けていく食感には、芽吹も目を見開いている。
「美味いなこれ」
「そうね。うちでも作れるのかしら」
食が進む一方、面談は始まる気配すらない。
俺たちが味覚に全神経を集中させているのは、大人二人が隣で繰り広げている惨劇を意識しないためでもあった。店内の喧騒に紛れて聞こえた『もう疲れた、私は寝る! 寝るぞぉ!』という文言について考えを巡らせてはいけない。
もつ煮込みの器の底が見えた頃合いを狙っていたかのように、ようやく静けさが戻る。
「すまない、黙らせるのに手間取った。コイツがこの店でしか飲まないのは知っていたが、まさか今日に限って来てるとはな。さて、気を取り直して面談を始めようか」
何事もなかったかのように振る舞う佐内教諭。しかし隣には、赤らんだ顔でカウンターに突っ伏す加賀美室長の姿があった。
「大丈夫なんですか、室長は」
「眠っているだけだ、心配ない。昔から酒には滅法弱くてな」
室長が額を横に向けると、頬にかかっていた髪がはらりと落ちる。幸せそうな寝顔が露わになり、俺は胸をなでおろした。
「お知り合いだったんですね」
「ああ、大学からの古いダチなんだ。どういうわけか職場の立地まで被ったもんだから、たまにこの店で一緒に飲んでる」
確かに、加賀美室長と佐内教諭の間にはどこか通ずるような雰囲気がある。今の二人のやり方は、長い年月をかけて互いに影響し合ったことで大成させたスタイルなのかもしれない。
「それにしても君が鴻子の部下だったとはな。世間の狭さにはつくづく驚かされる。まあそれはさておき、今日は色々と確認したいことがあったから会場まで用意したんだ。しっかり答えてもらうぞ、春峰」
佐内教諭の鋭利な視線にも動じることなく、芽吹はこくりと頷いた。
「単刀直入に聞こう。なぜ君は東京を出て、門出とこの地で共同生活を始めたんだ?」
「なぜって、芽吹の両親が揃って海外転勤に――」
「君には聞いてない。私は春峰と話がしたいんだ」
横目で睨まれると、その迫力に気圧されて俺は押し黙った。明らかに保護者代理として扱われていないような気がする。
芽吹はじっと佐内教諭の目を見つめていた。俺がその立場なら、恐れをなして逃げ出すほどの恐怖体験である。
やがて観念したように、芽吹は口を開いた。
「いま兄さんが言った通り、家庭の都合よ。転入手続きの時にも母が説明したはずだけれど」
「だとしても妙だ。聞くところによれば、門出の実家は鎌倉にあるうえに両親揃って家を留守にすることは滅多にないそうだな。そっちに住むことは考えなかったのか?」
言われてみればそうだ。
俺の父は横浜で勤務するサラリーマンだけど、母はパートタイマーとして手芸用品店で働いている。夕方には家に戻っているため、両親共々帰ってこないという日はなかった。それに俺が家を出たこともあり、タイミング的にも居候するには都合がいい。
しかし、芽吹はそれを選ばなかった。芽吹も俺の母も、そして芽吹の母親である俺の叔母(母の妹だ)も、初めから俺と芽吹が同居すること以外の選択肢を考慮せずに話を進めていた。
今の今まで、その奇妙さに気付かなかった。
改めて芽吹の様子を伺う。相変わらず、動揺するような様子はない。
「どうなんだ、春峰」
「別に言えないような事情があるわけじゃないわ。相模原市内にある高校に通いたいから近いところに住まわせてほしいって頼んだの。そしたら両親や門出の叔母さんに許してもらっただけよ」
「本当なのか? 門出」
「ええ、まあ……そうらしいですね」
まったくの初耳だった。
芽吹のぼんやりとした瞳がこちらに向く。
「兄さんには伝えてなかったかしら。塾の進路希望に、
なるほど、そうだったのか。
進路希望の決定は、芽吹と親御さんに全て一任していた。芽吹が考えることであって俺が口を挟むことではないと思ったからだ。
しかし、芽吹から報告を貰うことや、提出された進路希望のデータを閲覧することは昨日のうちに出来たはずだった。俺は自らの確認不足を悔やんだ。
「そうか、春峰が市立淵野辺か。だがお前の学力なら、それこそ鎌倉から近い県内トップ校も手が届くだろう。本当に市立淵野辺がいいのか?」
芽吹の挙げた高校の偏差値は、地域では二番手くらいである。
進学よりも多様性を重視した校風で、哲学入門やスポーツ科学、実践英会話にバイオテクノロジー基礎といった特殊な選択授業が目を引く。加えて部活動や行事も盛んだという情報は、近隣の高校に詳しい加賀美室長から聞いた話だ。
つまりは、それが芽吹の選んだ高校生活ということになる。
「ええ。色々なことに関わっていける環境の方が楽しそうだと思ったのだけれど。見当違いだったかしら?」
「言ってることは一理あるんだが……そもそも春峰、お前あんまりあちこち首突っ込んだりしないタイプだろう? 肌に合うかどうか分からんぞ」
「そうね。でも、これから先のことなんて分からなくて当然。自分次第でいくらでも変えていけばいいのだから。そうでしょう?」
佐内教諭は、まだ煮え切らないような表情を浮かべている。
学力があるのに勿体ない、という考えは充分に理解できる。トップ校を進めたくなるのも道理だ。
しかし、学力があれば必ずしもハイレベルな高校に行かなければいけないというのは少し違うと俺は思っている。どんな高校三年間を送りたいかを考える上で、学力があるということは選択肢が増えるだけに過ぎないからだ。
大体の場合、通える高校は人生で一校のみ。熟慮した上での断行なら誰にも止める権利はない。佐内教諭も手元の用紙に渋々『志望校:市立淵野辺』と書き込んだ。
「まあ、まだ本決定じゃないからよく考えるといい。色んな高校の説明会や文化祭とかにも行った上で、また意見を聞かせてくれ」
それから一言、
「一応、市立淵野辺に関する資料がこちらで手に入り次第、順次お前に渡す。春峰なら合格は心配ないと思うが、どうせなら首席合格目指して頑張るといい」
どうにか認めてくれたようだ。感極まって、思わず頭が下がる。俺に倣って、芽吹もぺこりと首だけでお辞儀した。
「ありがとうございますッ!」
「なぜ門出が礼を言う……まあいい。ひと段落して疲れたから一杯貰うぞ。マスター、ハイボールをロックで頼む。コイツらにも同じものを——」
「ダメですって、捕まりますから」
「まったく冗談の分からん奴だ。つまらん、中学三年生からやり直せ」
「兄さんと同学年……悪くないわね」
代理とはいえ、保護者が一番振り回される三者面談というのも珍しい。
一杯の休息を挟んだところで、面談(とっくに面談の体をなしていないが)は終盤に差し掛かる。
進路のくだりが終わり、芽吹の学校や家庭での様子が主な話の種になった。加賀美室長はまだ起きてこない。
佐内教諭の目つきや口調は最初に比べていくらか緩んでいる。面談の峠を越えたからか、それとも酒が入ったからだろうか。いずれにしても、睨まれることがなくなったのは幸いだった。
「それにしたって、未成年二人での暮らしは大変だろう。ただでさえ学業に仕事に塾にと忙しかろうに。何か困りごとはないか?」
芽吹と顔を見合わせる。
俺の方はとくに思い至らなかった。
「今のところないわ。楽な生活とは言えないかもしれないけど」
芽吹も同意見らしい。
昔から、芽吹の両親は仕事で家を空けることが多かった。そのため、幸か不幸か一通りの家事を芽吹はこなせるようになっている。ここ最近は俺の手際も良くなり、盤石な協力体制が完成しつつある。
そんな俺たちの様子を見て、佐内教諭は満足そうに頷いた。
「そうか。何かあれば相談には乗る。力になってやれるかは分からんが、知恵くらいなら貸そう」
「知恵?」
「大学の頃、半年だけ鴻子と同居してたことがあるんだ。光熱費を払う見込みが立たないって泣きつかれてから始まったんだが、控えめに言って地獄のような日々だった」
加賀美室長との同居なんて、想像するだけで苦労が伺える。共同生活の相棒が芽吹で本当に良かった。
それでも、昔を懐かしむ佐内教諭の目は澄み渡っている。視線の見つめる先には、加賀美室長の幸せそうな寝顔があった。
「一緒に住むなんて、相当仲良いんですね」
「そうだな。今思えば血迷っていたとしか言いようがないが、鴻子は大学で出来た唯一の悪友であり、親友だったんだ」
ふと気になったことがある。
「大学時代の加賀美室長って、どんな感じだったんですか?」
「あまり今と変わらん。違う点といえば、もう少し若くて美人だったことと、極めて優秀だったことくらいだな。『教育学部の二大才媛』『教職課程の双璧』『女流金剛力士像』なんて言われてもてはやされてた。ちなみにどれも相方は私だ」
そんな気はしていたけど……最後のやつは褒め言葉なのか?
「入学当初から周囲に一目置かれてた私たちは、すぐつるむようになった。だが、友人である反面ライバルとしても意識し合うようになってね。助け合うというより巧みに利用し合うようにして、私たちは互いに成績優秀者であり続けた。日々の会話もさながら狐とタヌキの化かし合いだ。ここまで毎日気を抜けなかった四年間はもう懲り懲りだが、不思議と充実していて私は楽しかったんだ」
そんな折だった、と佐内教諭が視線を手元に落とす。
俺も芽吹も黙って聞き入っていた。
「四年生の半ばくらいだろうか。急に鴻子が『教師にはならない』と言い出したんだ。どれだけ理由を聞いても煙に巻かれるばかりで、卒業した今もまだ聞かされてない」
「そんなことが……何故なのかしら?」
「皆目分からん。だから今でも後悔しているんだ、腹の内まで話せる仲にならなかったことを。私は出会った当初から鴻子をそれなりに信頼しているし、高く評価している。ほら、コイツって直接的じゃない方法で人を使ったり育てるのが上手いだろう? 大学時代は何度もそれに助けられたのに、私の方は信頼すらされていなかったなんて考えるのはあまりにも――」
「……ぬぁ」
カウンターに顔をうずめていた加賀美室長がむくりと起き上がった。まだ酒が抜けきっていないのか、上体はふらついている。
室長は半開きの目で佐内教諭と俺たちを見比べたあと、コップに継がれていた水をぐいと呷った。
「おい
一杯の水ごときで酔いが覚めるはずもなかった。普段の教室で見せている威厳を欠片も感じさせない態度である。
「いたとしてもお前には紹介せん。それよりどうした、その脈絡のなさは」
「詳細はまた連絡しておくれ。大切な親友の頼みだ、聞いてくれると信じてるぞ――ぐぅ」
「自分で言うか……って、また寝てる」
自らの腕を枕にして、室長は再び寝入ってしまった。相変わらず晴れやかな寝顔を浮かべている。
「信じてる、か」
ふいに室長の発したその言葉を、佐内教諭は繰り返した。
塾業界における『友達』と同様に、随分と都合のいい使われ方である。
しかし酔っている時こそ本音が出るというのも人間の性で、ぽっと湧き出たその言葉は心の奥底にずっと温めてあったのかもしれない。そうであることを願う。
佐内教諭は口元にふっと笑みを溢した。今日初めて見るその表情は、隣に眠る俺の上司にどこか似ていた。
「まあいい、今日の面談は解散とする。お代は私が出すから気にするな」
「いえ、そんな――」
「店を指定した上に、長話にも付き合わせたお詫びだ。あと春峰、今日聞いたことは他言無用で頼む。鴻子のことも含めて黙っていてくれるとありがたい」
「分かったわ。口止め料も貰ったことだし」
もつ煮込みの収まっている腹をさすりながら、俺たちは席を立った。
にこやかな店主に見送られて暖簾をくぐる際、何かを忘れていることに気づいた。芽吹も同じタイミングで店先を振り返る。
「加賀美先生はほっといていいのかしら?」
「鴻子なら大丈夫だ。しばらくすれば歩いて帰れるくらいには回復するだろうし、店主に任せておけばほかの客に絡まれることもない」
「随分と信頼の厚い店主ですね」
「何しろあの人は女に興味がないからな。なんでもついこの間、若いバイトの兄ちゃんにセクハラ働いて逃げられたらしい」
ああ、なるほど。
ひとりの学友の姿が脳裏に浮かんだ。世間の狭さにはつくづく驚かされる。
すっかり辺りは日も暮れ、おぼろげな月が帰り路を照らしていた。
この街に住み始めて一か月が経つ。すっかり見慣れた景色の中を、芽吹と並んで歩いて帰る。
「ありがとう、バイト休んでまで面談付き合ってくれて」
「どういたしまして。もっと進路の話とか、家でしておくべきだったな」
「そうね。さっきの受け売りだけど、腹の内を語るのはやっぱり大切だもの」
たらふく食べたはずなのに足取りが軽い。理由は明白で、奢ってもらったからでも食後に食器を洗う必要がないからでもない。
図らずも、休日出勤事件の真相がようやく見えてきた。
加賀美室長に連絡するべくポケットの中のスマホに手を掛けて、途中でやめる。室長はまだ居酒屋の中だろうし、何より今回の事件には直接関係がない。
なら、どんな形で終わらせるのが最適だろうか。
歩きながら考えていると、ふいに芽吹が足を止めた。
「どうしたんだ、芽吹」
「兄さん」
芽吹の黒髪が、夜風に誘われてさらりと舞い踊る。
眠たそうだった二重まぶたの奥から、力強い眼差しが露わになった。
「話があるの」
月明かりの中に佇む少女は、はっきりとした口調でそう告げた。
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