4-1 塾講師は韋駄天じゃない 1
四月下旬の陽気を通り越して、初夏がフライングしたような暑さだった。お天道様相手に人間が反則を取り締まることは叶わないので、仕方なく帽子を目深に被って日差しに耐える。
週末。
熱中症を懸念して、生徒たちは各々の教室で昼食を取ることになっている。そのため、俺の佇むグラウンドの隅に芽吹の姿はない。
変わりに、妙齢の貴婦人が俺の自作弁当をむさぼり食っていた。
「まったく暑くて気が滅入るね。理科室とかでいいから保護者も室内に入れてほしいもんだ。またPTAがゴネても知らないぞ」
「あなたは誰の保護者でもないですけどね……って、唐揚げもう無くなってるじゃないですか」
「仕方ないだろう、格別美味いのが悪いんだから。おお? さてはこの唐揚げだけ、春峰さんが仕込みを手伝ってくれたのかな?」
図星を突かれてしまった。
ズバリと言い当てたのは、ストローハットとサングラスで武装した加賀美室長だった。漂う雰囲気はさながらベテラン保護者のそれで、溶け込むどころか周囲から一目置かれている。『えらい美人なのがいるなぁ』『誰のお母さんなんだろう?』との噂声に、本人は満更でもなさそうだった。
「そもそも、なんで来てるんですか」
「君も知っての通り、塾講師の仕事は基本夕方がメインだろう? それまで暇してるのも勿体ないからちょっくら寄ってみたんだ。年に一度の教え子の晴れ舞台だ、一目見たくらいでバチは当たらないだろう」
答えながら、室長は持参したクーラーボックスを開ける。綺麗に盛られたパンナコッタが三つ、姿を現した。
「ちょっくら寄ったにしては随分な気合の入り様ですね」
「どうせ君たちも来てるだろうと思ってね。さっきの唐揚げのお礼に貰ってくれ。ぜひとも新作の感想が聞きたい」
差し出されたプラスチックのスプーンを受け取り、一口食べてみる。途端に広がるひんやりとした食感とほのかな甘味に、俺は思わず唸った。
「美味しいですね。これ……黒蜜ですか?」
「そうだ。意外に合うだろう? 短時間で作れていろんなアレンジができるのが、パンナコッタの良さだからな」
クリームの部分だけでなく、添えられたフルーツともしっかり調和がとれている。簡単なスイーツも、室長の手にかかればさながら店の味だった。
昼食を終えた生徒がぞろぞろとグラウンドに湧き出てくる。一通りの波が落ち着いてから、芽吹が現れた。体操服姿の生徒が多い中、学校指定のライトグリーンのジャージを羽織っているためにやたらと目立つ。
俺と目が合うなり、芽吹は小走りに駆け寄ってきた。
「あら。なんで兄さんと加賀美先生が一緒にいるのかしら?」
「カモフラージュだよ、木の葉を隠すなら森の中とはよく言うじゃないか。こうして三人でいれば、家族に見えないこともないだろう? 私たちが父母役で、君がその子供ってね」
あらかじめ用意していたかのような饒舌な返答。
どうやら周囲が父兄ばかりで室長も心細かったらしい。人ごみの中で俺を見つけた時の表情は、普段の余裕からはとても考えられないほど嬉々としていた。
一方で、芽吹の眠たそうな瞳が細められ、口元が吊り上がる。最近、ふとした瞬間に見せる細かい仕草や表情が室長に似てきたのは気のせいだろうか。
表情を変えないまま、芽吹は俺たちに向き直った。
「ふぅん。四歳差だけど親子なのね、私たち」
思考が一瞬固まる。
そんな俺たちをよそに、芽吹はクーラーボックスからパンナコッタを取り出してつつき始めた。しばらく舌の上で転がしたのちに、満足そうにふっと微笑を溢す。
俺と室長は顔を見合わせて、互いの受けたショックの大きさを改めて実感するのだった。
「私って、門出君よりかなり歳上だったんだな……」
「俺って、そんなに老け込んで見えますかね?」
十分後から競技を再開します、とアナウンスがあった。
食後の暇を持て余した生徒たちの見つめる先には、各クラスが一枚ずつ用意した学級旗がグラウンドのネットに張られている。生徒の中からデザインを募り、今日に向けてこつこつ作っていたらしい。記されているのは各クラスの学級目標だそうで、『一年一組 新進気鋭』『二年三組 勇猛果敢』『三年一組 優勝!』などの文字が風に踊っている。
それらを一瞥したのち、俺は手元のプログラムに目を落とした。午後一番の種目は三年生による借り物競走だ。
借り物競走といえば、今時分滅多に見られない絶滅危惧種である。小学校や高校ならまだしも、中学校の体育祭で行うことはかなり稀だろう。
「やっぱり貸し借りのトラブルが起こりやすいからなんですかね?」
「それもあるが、一番の理由は体育祭の意義に反するからだろう。小学校の『運動会』は遊戯目的のイベントだが、体育祭は体育の授業の一環なんだ」
「なるほど。ずっと疑問でした、中学になるとなぜ『運動会』が『体育祭』になるのか。ダサいからじゃなかったんですね。だとしても、なぜ日野原中は未だに借り物競走を?」
「体育祭は授業という名目がありながら、親睦を深めたり生徒が創意工夫を凝らすのにうってつけのイベントでもある。日野原中はそれを重視してるから、ルールを工夫しやすく生徒間交流の多い借り物競走を導入しているんだ」
確かにそうかもしれない。
実際、昼食休憩の直前に一年生と二年生の借り物競争が行われた際は、かなり細かいルールの指定があった。
お題の書かれた紙には、借りる物以外に借りる対象者まで指定されている。また、物を借りる際には代わりに『担保カード』を持ち主に渡し、その返却をもってゴールとするなど貸し借りの絡むトラブルを極力回避するよう考慮されていた。
このシステムを全て実行委員の生徒が考えたのなら、なかなかの切れ者揃いだ。
「まあ、あとは創立当初の校長のお気に入り競技だったという説もある。なんだかんだでこれが最有力らしい」
「ずいぶん詳しいんですね。佐内先生からの情報ですか?」
「まあ、そんなところだ」
いそいそと出陣準備を進める芽吹には目もくれず、加賀美室長の視線はグラウンドの中央へ注がれている。そこには、炎天下にも負けず指示を仰ぐ生徒のもとへ走っていく一人の教員の姿があった。
「まったく真琴のやつ、『頼られるうちが若手の証拠』というのが最近の口癖でね。それを言い出す頃合いはもう、とっくに若手の域を過ぎているというのに」
口調とは裏腹に、その目は驚くほどに優しさを湛えている。
そんな室長の様子を見て、俺は他の先生と交わした先日の会話を思い出した。
数日前、大学の学食での一幕である。
同じ食卓を囲むのは箕輪先生、銀次、俺の三名。たまたま授業が被っていたため、そのまま食事まで同席する流れになった。
「大変なんだよぉ!」
唐突に口火を切ったのは、麻婆豆腐を堪能していたはずの箕輪先生だった。
「どうしたんだ?」
「あたし告白されるかもしれないの!」
どうせ大したこと言わないだろうと高をくくっていた俺は、思わず面喰って鯖の塩焼きから顔を上げた。隣に座る銀次も、中華丼のレンゲを取り落としそうになる。
告白。一般的には愛の告白を指す言葉であり、箕輪先生の口ぶりからするに今回もおそらく同様の意味合いで用いられていると見て間違いないだろう。
「……誰に?」
「驚かないで聞いてね」
箕輪先生の勿体付けるような言い草に、俺も銀次も身体を強張らせた。
「加賀美室長が持ってるペン。あの先っちょにピンクの三角形のアクセサリが付いてるでしょ? あれの正体が分かったの」
「正体も何も、前の職場で生徒から貰ったって……」
「そうだけどさぁ。あれにはもっと深い意味がありそうなの。実はあの三角形って、同性愛者のシンボルらしいんだよ!」
なるほど。俺の感じていた引っ掛かりの正体がようやく露わになった。
どこかで聞いたことがある。ナチス支配下のドイツにて、強制収容所でゲイの男性を区別するために付けられていたのが、確かピンクの三角形のシンボルマークだったはずだ。
「それで考えたんだ。この職場で室長と同性なのはあたしだけだよね、つまりあたしが狙われてる可能性が高いんじゃないかってさ」
おぉ、と銀次がため息を漏らす。少しばかり複雑な面持ちなのは、一度同性からセクハラ行為を受けたことがあるせいだろうか。銀次に差別的感情はないとしても、それが原因で一度職場を辞めた経験もある。
どうしたものかと他二人が慌てている中、俺は冷静に努めた。
「意義あり」
「ん? どうしたの門出先生」
「俺の記憶が正しけりゃ、女性の同性愛者に与えられたのは確か黒い三角形だったって高校の世界史で習った気がする。それに室長に関して言えば、この前『いい男紹介してくれ』って知人に頼み込んでたぞ」
「そうだったのかぁ。うーん、じゃあ見当違いなのかな?」
三人でしばらく頭を捻る。箕輪先生の説を裏付ける根拠はこれ以上挙がらなかった。
先ほどの理由に加えて、加賀美室長と最も親しい女性は箕輪先生の他にもう一名ほどいる。
先日の飲み会での室長と佐内教諭の様子を思い浮かべて、多分ないだろうなと勝手に結論付けた。あの二人は大学時代からずっと『親友にして好敵手』以外の何者でもないのだ。
結局、真相は藪の中という形でその日はお開きとなった。
「兄さんどうしたの、またぼうっとして。日照りにやられでもした?」
気づけば、眼前に芽吹の怪訝そうな顔があった。
白いハチマキを額の高い位置で巻き、結び目には花形をあしらっている。長い髪は耳にかかる二房を除いて束ねられており、いかにも準備万端という様相だった。
「ほんとうに大丈夫?」
「ああ、心配ない。それよりそのハチマキ可愛いな」
結び目がほどけないよう慎重に触れてみる。ものの数分で作り上げたとは思えないほど精工に出来ていた。
「ありがとう。いろいろ工夫した甲斐があったわ」
俯きながら、芽吹は照れ臭そうにつぶやいた。
体育祭に来てくれと頼まれた夜から早一週間。それ以降、芽吹の様子が不自然だった節はない。俺の方は時折気にかけているけど、関係性は至って平常運転である。
だったら、あの時見せた寂しそうな横顔は何だったんだ?
俺はもう一度芽吹を見やる。尋ねるなら今が絶好のチャンスかもしれない。
「なあ芽吹。こないだの――」
「あっ、春峰さん。ここにいたのか」
聞き慣れた声に、俺はとっさに帽子のつばを下げた。その一瞬、視界の隅に映ったのは、つるりとした坊主頭。
「次の借り物競走、たしか代表選手だったよな? もうスタンバイの時間だからさっさと行ったほうがいいぜ!」
「ええ、分かったわ久慈君。じゃあ兄――父さん、行ってくるわね」
「父さん……って、春峰さんのお父様っすか!? それじゃあ、奥にいるのはお母様!?」
「そう。自慢の両親よ」
エースが慌てふためく様子は、狭い視界でも十分に伝わった。芽吹の声も少々弾んでいる。
畜生、またやりやがったな。
エースの足先が俺たちに向き直った。
「いやぁ、お初にお目にかかるっす。俺、春峰さんと同じクラスの久慈って言います。いつも春峰さんには頭が上がらないほどお世話になってるっす」
「ああ、そうか……こちらこそ」
俺が塾講師・門出窓太だとバレないよう、低い声を絞り出して答える。隣にいる芽吹の肩が可笑しそうにひくひくと震えるのが見えた。こんにゃろう。
「実行委員の俺たちだけじゃ手が及ばないところをさんざん助けてもらったんす。当日の実行委員のシフト表も全部春峰さんが作ってくれた上に、急に生じたシフトの穴まで埋めてくれるなんて、もう感謝してもしきれないっすよ」
「大袈裟よ。じゃあ、行ってくるから」
やっと解放してくれるようだ。
これ以上肝を冷やさずに済むと思った矢先。
「芽吹、ちょっと待ちな。いつまでもジャージ羽織ってちゃ暑いだろう、これを持っていくといい」
同じくストローハットを深くかぶった室長が投げて寄越したのは、一本の日焼け止めクリームだった。相変わらず恐ろしく気が回る。
というか、ノリノリである。
「ありがとう母さん」
「おうよ。行ってこい、愛娘」
「……なんかお母様までクールでミステリアスなんすね。やっぱ東京のご家庭は何かが違うんすかね?」
もう何も言うまい、と心に誓った瞬間だった。
午後の一種目目・三年生による借り物競走は終始大いに盛り上がりを見せたまま終了した。
借り物競走を終えた時点の総合結果では、芽吹の所属する白組が紅組に若干のリードを許す形になってしまった。その原因には、借り物競走の第一走を務めた芽吹による、最下位でのゴールも含まれている。
「せっかく特等席で見れたのに、残念だったな」
「仕方ないです。この種目ばかりは運が絡みますからね」
俺と室長は実行委員の本部テントの脇で競技を見守っていた。
室長曰く、この場所は知る人ぞ知る穴場なのだそうだ。
借り物競走ではトラブルを防ぐため、動員できる最大数の実行委員が選手の目付け役としてグラウンドの全域に配置されている。それゆえに本部テントに人が密集することはなく、日陰からグラウンドを一望することができるらしい。
借り物競走限定の穴場を、なぜ室長が知っているのかは謎である。
「それにしても、ビデオカメラまで持ってきてたんですね」
「当たり前だろう? 体育祭だぞ。あ、でも邪魔にならないよう三脚は置いてきた」
やはりというか、ちょっくら見に来たにしては用意周到が過ぎる。
しばらく時間を置いて、実行委員の一行が戻ってきた。途端に、辺り一帯の騒々しさが増し始める。
「門出君、あれ……」
室長の指さす先で、花型のハチマキが揺れた。
「あれって……芽吹?」
喧騒の渦中にいたのは、芽吹だった。涼しい顔で実行委員を率いて歩いていた男子生徒に詰め寄り、何やら紙片のようなものを突き付けている。
俺は注意深くその声に耳を済ませた。
「何? 借り物競走で対象物が見当たらなかった、ですか?」
「ええ。私の引いた紙に書かれたものは、グラウンドのどこを探しても見つからなかったわ」
「それは不運でしたね。まあ、それも借り物競走の醍醐味です。我々実行委員が難癖をつけられる言われはないでしょう」
「普通ならそうね。でも、私の引き当てたものは絶対にあるはずなの」
そして芽吹は、紙片に書かれた文字をゆっくりと読み上げた。
「対象物:優勝旗。それがどこにもないの」
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