5-3 塾講師は完璧じゃない 3


 日野原中の薄暗い廊下を、体育祭の日以来二日ぶりに歩み進める。

「本当に春峰が中にいるのか?」

「はい。ついさっき着信があったので」

 隣を歩く佐内教諭に、携帯電話の画面を開いて見せる。長らく返信のなかった携帯に届いたのは、たった五文字のメールだった。

「『優勝クラス』? 何だそれは」

「俺と芽吹の間で伝わる暗号みたいなものです」

「ますますもって分からんが……まあいい。話は教室に着いてから聞こう」

 携帯の文面に対する興味が薄れた佐内教諭は、足を速めた。

 行方知れずだった芽吹から着信があったのは、美咲母と土方先生に捕まっていた最中だった。文面を確認した俺は、二人に頭を下げて昇降口へと急いだ。そのため俺の伝えた『春峰芽吹像』について、美咲母に対して何も補足説明をしていない。文字通り、開いた口が塞がらない表情のままグラウンドに残してきた美咲母を思い出す度に、申し訳なさが胸にこみ上げる。

 佐内教諭を同伴しているのは、昇降口に張っていた警備員に対して入校の許可を得るためだった。無事に立ち入りが許された今はもうお役御免、というわけにもいかず、事情を話したうえで行動を共にしている。

「なあ門出。鴻子は今日来てないのか?」

「加賀美室長ならまだ仕事中ですけど、どうかしましたか?」

「いや、大したことじゃないんだが、私がバザーのために用意したクッキーを渡そうと思ってだな」

 そう言って取り出したのは、可愛らしい装飾の施された手のひらサイズの袋だった。ビニール包装越しに、ピンポン玉を二等分したような小玉クッキーが四つ入っているのが確認できる。

 佐内教諭の話によれば、PTA役員と教員とが合同でお菓子を作って売るというのが毎年恒例のことであるらしい。教員も大変だ。

「鴻子が来ないのなら、これはお前に譲ろう。次に会った時はぜひとも忌憚のない意見感想を聞かせてくれ」

 ほい、と乱雑に投げて渡されたクッキーを反射的に受け取る。ずっしりと重い感触が両の手のひらに伝わった。

 あまりの急展開に、戸惑いを禁じ得ない。

「ありがとう、ございます……?」

「単なる在庫処分だ、礼は要らん。それよりも先を急ごう」

 俺たちの目指す三年一組の教室は目と鼻の先にある。クッキーをポケットにしまい、急ぐ足に力を込める。

「春峰!」

 一足先に駆け出した佐内教諭は、外れんばかりの勢いで引き戸を開いた。落雷のような爆音とともに、閉ざされていた室内の様子が露わになる。

 続いて、行方を晦ましていた芽吹に対して本当に佐内教諭の雷が落ちる——と思いきや、当の本人は入り口に立ち尽くしたまま二の句を継げずにいた。

「芽吹?」

「……兄さん」

 佐内教諭に次いで、室内を覗く。

 一昨日の三年一組の教室との相違点は二つあった。

 ひとつは、驚いた拍子に落としたと思われる芽吹の携帯電話。液晶画面には『加賀美鴻子 通話中』と表示されている。

 そしてもうひとつは、窓際で片耳からイヤホンを外す芽吹の姿。夕陽の中に浮かぶその表情は、いつかの夜道で見せたものと同じく憂いを帯びていた。だが、ある一点において以前とは大きく異なっている。

 垂れた目尻の先から溢れ出る一雫。

 ゆっくりと頬を伝う光の粒は、眩い夕焼けを反射させながら芽吹の白い頬に一筋の川を描いて消えた。

 どうしたのか、とはあえて訊ねなかった。訊ねる必要はもうないのだから。

「全部、分かったんだ」

「……本当に?」

「本当に。芽吹は気づいて欲しかったのか?」

「さあ、どうかしら。正直、ここまで来たというのに自分でもさっぱりね」

「なんだそりゃ」

 わざとらしく、長い髪をさらりと掻き上げて虚勢を張る芽吹。

 その涙は数滴のうちに引いていた。

 雨上がりの日照りが急激に勢いづくように、芽吹の調子も通常運転に戻り始める。眠そうなすまし顔は、先ほどの涙が錯覚かと思えるほどに堂々としていた。

「けれども、そうね」

 そんな様子も束の間、芽吹の表情が一瞬にして和らぐ。ふふ、と笑みをこぼしながらこちらを見つめるその双眸には、温かな光が混じっていた。

「気づいてもらえなかったら、多分私はきっと今頃壊れてたと思う。だからありがとう、兄さん」

 芽吹の浮かべた笑顔は、今しがた没したばかりの夕日の何倍も眩しい。

 性格や声のトーンに多少の差異はあれど、その笑みは三年前の文化祭以来ずっと脳裏に焼き付いていたものと重なり合った。



 さて、と切り出すのも今月に入って何度目だろうか。

 佐内教諭は加賀美室長に自らの携帯電話で事情を伝えている。漏れ聞こえる声からするに、模擬試験の結果を返却して生徒を帰した直後であるらしい。芽吹が見つかった時点で佐内教諭がメールを入れていたそうで、他の生徒たちには芽吹の安否を無事に伝えられているという。少なからず心配をかけていたことを、俺は芽吹に変わって詫びた。

 改めて、芽吹と向かい合う。

 ここで全てに決着を付ける覚悟を胸に抱いて。

「今日の失踪は、芽吹本人の手で前もって計画されていた。違うか?」

「そう思うなら、根拠を教えてほしいわ」

 あくまで芽吹はシラを切るつもりらしい。いや、俺がどこまで気づいているのかを量ろうとしているのかもしれない。

 狙いはどうあれ、俺がすべきことは推論を述べ立てていくことだけだ。

「第一に、日野原中で起きた事件であるということ。続いて、校内で何かが消失し、その在り処が自らの手によって暴かれるという顛末——その二点において、今回の事件は優勝旗の一件と凄く似ている」

 グラウンドや校舎内を探る中で、俺は何度も既視感を覚えている。つい二日前に同じ場所を駆け回っているから当然だ。加えて結果的に俺や佐内教諭が巻き込まれているというのも、二つの事件の共通点である。

「そこで思ったんだ。今日の件は、体育祭の時の再演だったんじゃないかとね。更におそらくは、事件の動機も一致している」

「あら。その口ぶりからするに、やっと宿題が片付いたのね」

 芽吹の軽口に、思わず微笑が漏れる。生徒から宿題を課される塾講師がいてたまるものか。

 いい具合に肩の力が抜けたのか、いくらか興に乗ってきた。

「待たせてすまなかった。二日越しにはなってしまったけれど、今から話すのが俺が結論づけた優勝旗事件の全貌だ」

「ふぅん、期待してるわ。今日の模擬試験よりは退屈させないでちょうだいね」

 窓辺にもたれかかる吹もまた、口元に微笑を浮かべていた。

 

 

 何度も繰り返すようで芸のないネタだが、これまた高校時代の話だ。

 いつだったか、恩師がこのように溢していたのを覚えている。

『一側面に見えるものだけが真実じゃない』

 どのような脈絡で生まれた言葉なのかは記憶にない。空間図形の話題だったか、手品の種明かしだか何かに関する話だったか、はたまた進路指導室でヘラヘラ笑っているだけで何もしない恩師の職務怠慢を諫めた際に返ってきた強弁だったのかもしれない。日記を探せば明らかになるだろうけど、経緯に関しては些事だ。

 しかし、そのフレーズだけは鮮明に記憶に焼き付いている。

 表面上の観測できない箇所に、我々の知り得ない真実が鳴りを潜めているかもしれないという意味合いとともに。

 だからこそ、この事件の真相が見えた瞬間、耳に残っていたその言葉がはっきりと脳裏に浮かんだのだろう。

 恩師から受け継いだ言葉を、今度は俺が謎解きという形で教え子に継承する。

「まず、ひとつだけ確認したい。体育祭で芽吹のとった行動は、一昨日この教室で整理したもので間違いないか?」

「そうね。ここまで来てしまった以上、否定するのも難しそうだけど……まだ認めないでおくわ。けれど、それを前提として推理するのは兄さんの自由よ」

 言われなくてもそのつもりである。

 というより、ほぼ容認しているように聞こえるのは俺だけだろうか。

「優勝旗を隠して、それを周囲を巻き込んで探させる。他に取られた物はなく、体育祭の進行も結果的に平常通り——その事実だけ切り取れば、芽吹の行動に意味があるとはとても思えない」

「ただの厄介な目立ちたがりになってしまうわね。私には少しの利益もない」

 俺は頷いた。

 体育祭を混乱に陥れたいなら、わざわざ実行委員の運営を率先して補佐したり、優勝旗の隠し場所を実行委員や俺に推理させたりはしない。そういった意味で、芽吹の行動は『愉快犯未満』なのだ。

 だからこそ、何かしらの動機があるだろうということは想像に難くない。しかし、それが一向に見えてこない。俺が坩堝にはまっていた原因はそこにあった。

 この事件の一側面しか見えていなかったのだ。

 優勝旗と芽吹。事件の中核だと思っていたその二つから、少しばかり視野を広げてみれば。今まで見えてこなかった事実が浮かび上がってくる。

「けれども、犯人の目的が『狙った状況を作る』ことにあるとするのなら、その目的は十分に達成されていると言える」

「……どういうことかしら」

「優勝旗はあくまで手段というか、目的を果たすための道具の一つに過ぎなかったんだ。俺たちが優勝旗にかまけている間に、別のところで事件は進んでいた」

「ますます分からないわ」

 そう呟く芽吹の瞳は、言葉とは裏腹に好奇の光で満ちていた。早く続きを聞かせてちょうだい、と眠そうな目を輝かせている。

 全てを知っているであろう少女が、これ以上何を期待しているのか。

 そこに迫るべく、俺は事件の核心に足を踏み入れる。

「さっき整理したのは、あくまで芽吹のとった行動だ。だけど、ここからはの行動について話を進めていく」

 芽吹が小さく息を飲む音が微かに聞こえた。

 優勝旗の一件は、芽吹ひとりの行動だけを考えると不可解な点が多い。だからこそ、芽吹以外の何者かが別側面から事件に関わっているという可能性を考慮するに至ったのだ。

「私と別行動をとっていた共謀者がいる、と言いたいのね?」

「ああ。それなら全て納得がいく。その線で推論を進めるなら、次に考えるべきはその共謀者が誰なのかということだけど——」

 これを絞り込むに当たり、ひとつだけ決定的な物差しがある。

「芽吹による優勝旗の消失騒動で、何かしらの影響を受けた上で動きを見せた人物。それこそが容疑者の第一条件だ」

 芽吹の行動が作用して共謀者が目的を果たすことに繋がるならば、共謀者は優勝旗の一件の影響を受けやすい立場にある。そう考えた上での物差しだった。

 俺は事件当時の様子を回想する。昨日、加賀美室長から送られてきた本部テント内の映像を見た甲斐もあり、記憶はかなり鮮明だ。

 もし、優勝旗の騒動が起きることなく体育祭が進んでいたのなら。

 実行委員総出で捜索に乗り出すことも、委員長に芽吹が疑われることも、その容疑を美咲や心寧が晴らすことも、加賀美室長がテント内にカメラを回すことも、そして俺が佐内教諭とともに校舎の中に乗り込むことも。全て起こることなく終えていただろう。

「実行委員もほぼ全員容疑者に含まれるというわけね。かなりの人数がいるから、絞り込むのは難しいと思うのだけれど」

「そうでもない。この中の多くは優勝旗の発見と体育祭の進行維持のために動いていたけど、ひとりだけ体育祭の成功を左右しない道楽的な行動に出ていた人物がいるはずだ」

 少し考え込んだのちに、芽吹は納得したような表情で答えた。

「加賀美先生ね」

「その通り」

 俺は首肯で返す。

 運営側ではないという点は、美咲と心寧の二人も該当する。芽吹を庇ったことも含めて容疑者として有力な要素は揃っているものの、逆に二人は『庇った』以上のことは何もしていないとも言える。美咲と心寧が共謀者だとしても、芽吹を含めた三人には微塵も得が生じない。

 では、室長の場合はどうだろうか。

「加賀美室長は、事件発覚から俺たちが校舎に優勝旗を探しに行くまでずっと本部テントの状況を撮影し続けていた。芽吹が俺をその場から連れ去った後もずっとだ。そして翌日、その動画を俺たちに送ってくれた」

 これらの行動に、間違いはない。

 室長は三脚を持っていなかったため、撮影中は絶えずハンディカメラを片手で構えていたことになる。そこで撮影された映像が俺たちの手元にあるのだから、これ以上ない証拠と断定してもいい。

 そして、美咲母の言う『年頃の中学三年生』としては不自然なほど、食い入るようにその映像を凝視していた少女がひとり。

 つまりは。

「加賀美室長と共謀することで、自分がいない間に本部テントで何が起きていたのかを確認する。それが、優勝旗失踪事件の本当の目的だったんじゃないか?」



 唾を飲む音さえ反響するような、重苦しい沈黙。

 一昨日と全く同じ時間の流れを肌が捉える。けれども、今日は芽吹の質問を待っている暇はない。日は完全に没し、外から漏れ聞こえる地域住民たちの声も次第に薄れつつある。急ぐ必要に駆られて俺は自らの言葉のあとを継いだ。

「事件の直後、実行委員長に疑われるのは折り込み済みだったんだろう?」

「……その理由は?」

「優勝旗が盗まれたことを周知させるなら、方法はいくらでもある。何も借り物競走で行う必要はない。けれど芽吹は、第一走者として自らが第一発見者になるという必然的に疑いの目が向けられるような方法をとった。なぜかという点については、その後の出来事を考えれば明らかだ」

 容疑者を洗い出す際に整理した『優勝旗消失の影響』の中で、芽吹が疑われる立場でなければ起こりえなかった事象がある。

「渡合さんと倉橋さんが芽吹の疑いを晴らす。それこそが芽吹の作ろうとした状況のひとつだと俺は考えている」

 芽吹は自ら疑われやすい立場についた。しかし、自分が優勝旗消失の犯人であるという決定的な証拠を何一つ残していない。それは美咲と心寧が委員長へ反論するための余地を用意していたのだろう。もしかしたら、芽吹一人だけが頑なにジャージの上着を脱がなかったことは、二人へ自分の居場所を知らせる目印としての意味合いもあるのかもしれない。

 しかし、それはまだ計画の最終段階への準備に他ならない。

「そして委員長と渡合さん・倉橋さんが口論になっている最中に抜け出し、俺を連れてその場を離れた。その間もテントには室長のカメラが回る。それによって、芽吹が不在の中で残された委員長・渡合さん・倉橋さんの映像が記録されるという状況が生まれた。芽吹が見たかったのは、その間の映像じゃないのか?」

「だから、なんで——」

 尋ねる芽吹の声は微かに震えていた。

 それを聞いて、俺は事件の最深部に触れようとした手を慌てて止める。

 ここから先は、正負を問わず様々な感情が渦巻く少女の内面を全て曝け出すという立派な蛮行だ。先ほどの芽吹の涙が思い起こされる。おいそれと踏み込むことはできない。

「……今日の件も同じだ」

 躊躇った結果、俺は問題を先送りにした。

 核心に触れるのは、互いの心の準備が整ってからでも遅くはない。ひとまずは、今日の芽吹消失事件について先に片付けることにする。

「失踪の裏に隠れた意図。それは全部、芽吹と室長の携帯電話が物語っている」

 俺が三年一組に到着するまで芽吹が通話していた相手は、加賀美室長の携帯電話。現在は塾内から佐内教諭と電話を繋いでいる。しかし、今朝の室長は携帯電話を身につけておらず、手元の鞄の中にもないと言っていた。

 これが示すものは何か。

「室長の携帯は、朝からずっと塾内に存在した。但し、簡単には操作できないような状況下にあった。それを俺や他の生徒たちに隠し通そうとした時点で、何か後ろ暗い理由があったことは想像に容易い。携帯での通話を利用したものであるとすれば、真っ先に疑われるのが『盗聴』だ」

 優勝旗の件と今日の芽吹失踪は似ている、と最初に論じた。

 しかしながら最大の類似点は『目立つ事件の裏で共謀者が動き、本当の目的が為される』という本質にあったのだ。

 では、芽吹が加賀美室長と組んで盗聴を仕掛けた相手とは誰なのか。

 この事件が手段のみならず目的まで含めて体育祭の再演だとするならば、その狙いは明白だ。芽吹は体育祭の時と同様に『芽吹本人はいなくとも、標的たちが芽吹を気にかけざるを得ない状況』をうまく演出している。

 そして、その標的とは、二つの事件に共通して居合わせた二人の人物に他ならない。

「最後に。これらの事件を繋ぐ本当の動機というのが——」

 その答えを口にする前に、俺は芽吹に視線で確認を取る。

 一切の覚悟が乗せられた強い首肯が返ってきたのを見届けて、俺は改めて核心に触れた。

「渡合さんと倉橋さんが自分のことをどう思っているかを知りたいがため、というのが一連の事件に隠された芽吹の真意だ。合ってるか?」

 程なくして。芽吹の口が小さく形を結ぶ。

 その頬が再び和らぐ寸前、聞こえてきた言葉はたった一言だけだった。



「正解よ、兄さん」



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