25 私という人間を求めて欲しいの
体育祭が終わってすぐ、私と綾里は部室にやってきた。
「はあ、じゅがれだあ……」
部室のテーブルに突っ伏し、息をつく。すると、綾里が背後から覆いかぶさり、お腹に腕を回して抱きしめてきた。
背中に柔らかな何かがあたっている。平常心、平常心。
私のうなじのあたりに綾里の鼻先が触れる。綾里がスンスンと鼻を鳴らし、匂いを嗅ぎ始めた。
「むう、制汗剤の匂いが邪魔だ」
「ナイス制汗剤」
「一日中汗をかいたプレミアムことりなのに、制汗剤許さない」
なーに言ってんですかねえこの人は。
そんないつもと変わらない綾里とのやりとりをしていると、部長さんと古水先輩も姿を見せた。
「ごきげんよう諸君、今日はお疲れだったなあ」
「ほんとに疲れましたー、部活お休みしたいですー」
「馬鹿を言うでない、夢川ちゃん。ま、今日は最低限にして早めに終わるか」
「やったー、部長さん女神様―」
部長さんが椅子に腰かけ、「あ、そうそう」と言ってカバンを探った。
取り出したのは、先輩からの誕生日プレゼント、レイニーブルーのブリザーブドフラワーだった。筒状のケースの中には、まだカードが入ったままだ。
「これ、みんなありがとう。ビックリしたし、最高に嬉しかったぞ」
「みんなって言うか、古水先輩ですけどね」
「でもあの渡し方をするために協力してくれたんだろ? だから二人もありがとう」
そう言って、部長さんが白い歯を覗かせた。
「順位はアレだったが、みんなでやれてよかったよ。ありがとう」
重ねてお礼を述べながら、部長さんがケースを開け、中からカードを取り出した。
それを見た古水先輩が、あからさまにぎょっとして動揺をみせた。
「西原、ここで開くのはちょっと……」
「えっ、どうして」
「どうしてって言われてもなあ……」
眉を八の字にして、部長さんは「えー」と不満そうな声を漏らす。声を漏らしながら、ペラッとカードを開いてしまった。
開いたカードに目を落としていた部長さんが、不服そうに先輩に顔を向けた。
そして、
「やりなおし」
と言って、カードを先輩に押し付けた。
「え、それはどういう……」
「ここだよここ、ここが気に食わない!」
私と綾里のところからでは見えないが、一点を指さして部長さんが指摘した。
すると、先輩はハッとして、慌ててカバンからペンを取り出した。
何かを書きつけた先輩は、
「はい。誕生日おめでとう」
そう言って、再度部長さんにカードを手渡した。
部長さんが満足げに頷いたかと思うと、表情にどこか寂しそうな色を滲ませてはにかんだ。
「こういう時くらい名字はやめてくれよな」
つまり、あそこには『西原へ』と書かれていて、それが気に食わなかったということだろうか。なにそれ部長さんちょっと乙女モード入っちゃってるんですか? かわいくないですか?
「ずいぶんとしばらくこんなこと伝えてくれなかったのに、どんな心境の変化?」
ふたりが見つめ合う。部室がシンと静まり返ったのも束の間、先輩が重い口を開いた。
「その……後輩ふたりを見てたらさ、今のままじゃ嫌だって思って」
先輩の言葉に、部長さんが私と綾里に視線をくれた。
すぐに先輩に視線を戻した部長さんが、目を細めて笑いをこぼす。
「心配しなくても私たちは何も変わらないだろ、昔から――」
「変わらないのが嫌なんだよ」
部長さんの発言を遮った先輩の声は、不思議なほどに落ち着いていた。
「ごめん、もっとちゃんと言う。西原のことが好きなんだよ、恋愛として。そこに書いてあるのはそういう意味だから」
真剣な瞳で、先輩は部長さんをまっすぐに見つめた。
それを聞いた部長さんは目を
「それを意識し始めてから、『好きだ』なんて気軽に言えなくなって……とにかく、そこに書いてある『好き』は小さい頃のとは意味が違う」
そこまで聞いた部長さんは、ガタリと音を立てて椅子から立ち上がった。レイニーブルーとカードをカバンに仕舞うと、「先に帰る」とだけ言い置いて、慌てた様子で部室を去ってしまった。
部長さんの背中を呆然と見送った先輩が、伏し目がちに深いため息をつく。
「嫌われたかな……」
「部長の顔真っ赤でしたよ」
俯いて肩を落とす先輩に、綾里が真顔で言った。
どうしてそこで無表情なのかと問いたいが、ここはすかさず追従しようじゃないか!
「部長さんのあんな恥ずかしそうな顔、初めて見ました!」
「私も初めて見ましたー」
相変わらず綾里は真顔で声にも抑揚がない。いったいどんな感情でフォローしてるんだよ。
「そ、そうか……こ、この後はどうすればいい?」
あっ、ちょっと戸惑ってる先輩かわいい!
そう思った瞬間、綾里に顎を掴まれて、無理やりに顔の向きを変えられた。綾里が私の目を覗き込んでくる。
『そういうことは私を見て私に対してだけ思いなさい』と脳に直接語り掛けてくるようだ。エスパーかな? 以後気をつけます!
「綾里が先輩の立場だったらどうする?」
「んー……私だったら、次の行動は相手に任せるかな。自分の気持ちは伝えたわけだし」
綾里が私の目を見つめてそう答えた。
ふーん、そんなこと言っちゃって、実際はその相手はがんじがらめで逃亡を決して許されてませんけどね。所詮私は綾里の手のひらの上なんですよ!
ま、まあ、今となってはそれに安心を感じてしまっているわけですけれどもね、えへへ。
古水先輩が顔を俯け、考え深げに目を泳がせた。
「私も待つかな。言うだけ言ったし、もし困らせちゃってたら無理させたくないし」
「そうですか……ところで先輩、いつぐらいから部長さんの名前呼んでないんですか?」
なんとなく気になって訊いてみると、先輩は首を捻って苦笑いをした。
「小学二年くらいまで『はなちゃん』って呼んでて、それから花緒って呼ぶようになってたんだけど、小四あたりには名前の件のせいで呼びづらくなってさ、私も周りの反応を気にして名字で呼び始めたんだよね。なんかもうそっちが当たり前になって、今更戻すきっかけもないし、恥ずかしいしで、今日まで来たよ。だから八年くらいかな」
先輩が肩を落とし、「情けないよね」と言ってため息をついた。
「部長さん、ずっと下の名前で呼んで欲しかったんじゃないですか? だって、先輩が素敵だって言ってくれた名前なんですから」
私は、先ほど見た部長さんの寂しそうな表情を思い出していた。
「先輩が気を遣ってたことは部長さんも分かってると思います。だけど、それでもやっぱり、部長さんがさっき言ってたこともそうですけど、寂しかったんだと思いますよ。先輩が今更恥ずかしいっていうのは正直ちょっと萌え……ゴニョゴニョですけど」
おっと危ない、ついうっかり本音が漏れるところだった。綾里の冷たい視線が刺さって痛いけど、気にしないようにしよう。
「部長さん前に言ってましたよ、部長さんにとって古水先輩は元気の源なんだって。きっとそれって、例の件にも深く根差してることだと思うんです。きっと部長さんは先輩から名前を呼ばれることを待ってます。だから先輩、もう一度気持ちを伝えましょう、今度は部長さんの名前を呼んで伝えましょう」
私の精一杯の応援に、先輩は少しの間黙りこくった。そして、ゆっくりと深呼吸をして、
「うん……ありがとう、夢川さん」
と優しく微笑んだ。
帰り道。綾里が夕暮れの空を見上げて、繋いだ手を強く握り直した。
「もし先輩たちがうまくいったら、園芸部には百合カップルしかいなくなるんだね」
「なにそれ最高じゃん」
反射的にそう言った後、私はハッとして首を横に振った。
「いやいや、私たちもまだ違うから」
「まだって言うなら早く告白してきなさいよ。心の奥ではそうなりたいって思ってるからそんな言い方になるんだよ」
「うぐっ、適当なことを……と言いたいけど否定できない」
綾里がわざとらしく深く息をつく。
「別にさ、私とことりの性格が変わるわけでもあるまいし、恋人同士になってもこの関係性ってあんまり変わらないと思うんだけど?」
横目で私を見て、「どう?」と聞いてくる。
「つまり、私は尻に敷かれ続ける運命だと」
「そういうこと」
なぜか嬉しそうに綾里が頷く。
確かにその通りかもしれない……というよりも、間違いなくそうだが、やはり私は、今の私たちを形作った『先輩ノート』で脅されていないと落ち着かないような気がする。
……うーん、今のは少し変態チックだったかもしれない。私はマゾではないぞ!
私たちは、駅前の公園のベンチに腰を下ろした。そう、いつか綾里とキスをした、あの場所だ。
綾里が私にもたれ、肩に頭を預けてきた。
「ねえ、もし私が『間違えてノート捨てちゃった』、とか言ったら、ことりはどうする?」
その質問の意味を計りかねて、ちらと綾里を見遣った。
綾里は宙の一点を見つめ、しきりにまばたきを繰り返していた。
そっと綾里の頭に頬を寄せると、もはや嗅ぎ慣れたコンディショナーの香りが鼻孔をくすぐった。
「関係として依存する物がなくなるってことは、もうそのままの関係ではいられないよね。だから……別の形を求める、かも」
私の回答に、綾里が首をもたげた。西日に目を細め、私の奥底を見極めようとする瞳はキラキラと輝いていた。
不意に、綾里が「ふふっ」と笑いをこぼした。
「そっか。でも、そこまでお膳立てはしてあげないよ、ちゃんと自分の意思で、ご主人様の手から逃れなさい。私もことりに求められたいの」
「あはは、厄介な性格してるなあ、ご主人様は」
「素敵な人となりと言ってちょうだい」
クスクスと笑い合って、触れ合う肩から綾里の身体の揺れを感じる。
このまま綾里の身体と溶け合ってしまえたら、なんて思っていると、ふと合点がいくことがあった。
「そういうことか」
「なにが?」
「いやあ、ご主人様になる前の綾里ってさ、私にめちゃくちゃアピールしてたーって言う割には当時はそういうこと全然言ってこなかったなあって思ってたの。綾里は最終的に相手から来てほしいタイプなのか。だから命令とかも私からさせるのが多かったのか」
特に深い意味はなく、私は綾里の腕を抱きしめた。
「誘い受けもここまでくると恐ろしいと、私は学びました」
私の言葉に綾里が目をぱちくりとさせ、一転、不敵な笑みを寄越してきた。
「だからね」、とその薄桃色の唇を動かして、私の頬に唇が触れる間際まで顔を寄せてくるのだった。
「ことりにね、私という人間を求めて欲しいの。それだけだよ」
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