18 私のこと、忘れないでね
「ことり……私のこと、忘れないでね」
母犬から引き離される子犬のような目をして、綾里が手を引かれていく。
私に向けて伸ばされた右手が虚空を漂い、まるで押し寄せる虚しさをかき分けているようだった。
大丈夫、綾里なら一人でもやっていけるよ。
私は目を瞑って、心の中で励ました。
と、次の瞬間、身体に重い衝撃がのしかかった。
目を開けると、私にとびついた綾里が、鎖骨あたりに額をぐりぐりとこすりつけていた。
綾里の背後から、苦笑を漏らす西原部長が近づいてくる。両腕をとって、“再び”無情にも綾里を私から引き離した。
「緋野ちゃんはこっちで花壇の手入れを頼むよ」
そう、なんと、私と綾里は部活で別々の役割を課されてしまったのだった。
ははは、ご主人様がひどくうろたえてやがる。申し訳ないが、ちょっとおもしろい。
というのも、私は古水先輩と二人で温室内の整理を頼まれたのだ。再三何もないって言うのに、あんな泣きそうな顔をしなくても。
しかしあれだ、古水先輩と例の話をするにはおあつらえ向きの状況なわけだ。この絶好の機会を逃すまい。
心の中で密かに拳を握り締め、連行される綾里を見送りつつ気を引き締めるのだった。
一方的に気まずい空気を全身に浴びつつ、私は重い口を開く決心をした。
「お、温室って、夏でも意外とそこまで暑くないんですね」
古水先輩が顔をあげ、炎天下の熱気とは程遠いその涼しい目を私に向けた。
「天窓を開け放ってるからね。これがなかったら酷い地獄だよ」
頭上をちらと見て、「へ、へえ」と相槌を打つ。私の視線を追うようにして、先輩もあごをあげ、一緒になって空を見上げた。
「まあ、そんな温室は夏には解体だけどね」
「大変そうですね」
「一年目は西原とふたりでやったよ」
「ほー、これは新しいんですか。どうりで綺麗だと思ってました。よかった……」
素直に安堵のため息をつく。古水先輩が可笑しそうに控えめな笑い声をこぼした。
「本当に、あの作業をしなくていいだけで楽だよ。かと言って、鉢を外に出してその辺に置くわけにもいかないし、無理してこれに替えてよかった」
あれっ、この話の流れ、いけるのでは。
「そうですね……あ、あの、前から気になってたんですけど、部長さんと先輩って、どうしてこの部を作ったんですか?」
最終的に到達したいところは、先輩が部長さんのことをどう思っているのかという本音だ。別に、二人が部を創設した経緯だとか、私が個人的にそのあたりの事情に興味があるというわけでは断じてない。
きっと、ふたりの知られざる過去と先輩の気持ちはそこにもつながりがあると、私の百合脳的第六感が声高に主張しているのだ!
先輩は目をぱちくりとさせて不思議そうに私を見返した。
その反応に、私は慌てて顔の前で大げさに両手を振ってみせた。
「あっ、突然すみません、部員としては少し気になるなあ、って思いまして」
「いや、いいけど……私も前から気になってたことがあるんだけど、先に聞いてもいいかな?」
えっ、なになに先輩が気にする私のことって! はああ心臓ばくばくしてきたあ!
「ど、どうぞ……何でしょうか」
必死に平静を装って訊き返す。先輩は一度頷いて、一旦宙に視線を泳がせてから、また私に視線を戻した。
「夢川さんって、よく私と西原のこと見てるよね」
先輩の透き通った声が頭の中で反響して、背筋が凍った。
私のばかばか! 綾里にだっていつも注意されてたのに!
まあ綾里の注意は、『もっと私のことを見て!』という意味合いが七割だけれども。
ってそんなことを考えている場合じゃないのよ琴莉さん! 今は言い訳を考えるのよ! ここで無闇にそれ自体を否定するのは愚策よ!
「え、ええっと、はい……すみません」
謝っちゃったよ、この後どうしよう。ふむ、なんか先輩なら本当のことを言っても少し引かれるだけで済みそうな気がする。
いやいや、少し引かれたらそれは大けがだから! 瀕死だから! 気を確かに!
「いや謝らなくてもいいよ、なんかいつも見られてるなあって感じてて、それがどうしてなのか気になっただけだから」
「えっと、その……お二人が、すごく仲が良いなあって思いまして……」
目を伏せて、声を尻すぼみにさせながらそう答えた。
すると先輩は小首をかしげ、「それだけ?」と言った。
「はっ、はい! そ、その……あ、私たちも、えっと、私と綾里も先輩方みたいに仲良くなれたらなあ……って」
ちらと先輩の顔を見遣って様子を伺う。先輩は目を丸くして、何を言ってるの、とでも言いたげな表情を浮かべていた。
「君たちの方がよっぽど仲が良いと思うんだけど」
「はっ、そ、そうですかねえ!」
先輩が「うん」と頷き、人差し指でどこか気恥ずかしそうに頬を掻いた。
「こういうことを言うのは恥ずかしいけど、私の方こそ君たちの仲の良さが羨ましいって思ってるよ」
そそそそれはどういう意味ですか! 詳しく聞かせてください!
先輩がハッとして、はぐらかすように笑いをこぼす。
「えっと、どうして園芸部をつくったか、だったね」
私に背中を向けて目の前の植木鉢に手をかけ、先輩はおもむろにその薄紫色のバラを指先で撫でた。そして、ゆっくりと話し始めた。
古水先輩の家は
それだけでも、園芸部をつくった理由として十分だと思ったが、先輩はもっと深くを私に話してくれた。
幼いころ、特に酷かったのは小学生のころと先輩は言ったが、西原部長はよくいじめられていたらしい。というよりも、からかわれるというニュアンスが強かったのだと先輩はフォローした。
西原部長の下の名前は、
その響きが男っぽいからだとか、変だからというだけの、実に単純で、多くの子供が持つであろう人を傷つけやすい純粋さが原因だった。
私はずっと、古水先輩が部長のことを名字で呼んでいることに疑問を覚えていたものだが、どうやらその過去が理由らしかった。
部長が名前をからかわれる度に、先輩はこう言ったらしい。
『花緒の緒は、命を長く繋ぎとめること。西原の名前は、花の命を繋ぎとめる、とても素敵で誇らしい名前なんだ』、と。
そんなときに、励ましの言葉と一緒に古水先輩が決まって部長にあげる花があったそうだ。実家の栽培場に忍び込んではハサミで切って持ち出した花。それがレイニーブルー、薄紫色のバラだった。
中学でも西原部長は自分の園芸部をつくろうとしたらしいが、それは叶わず、高校生になってようやく園芸部を創設できた。
『私は花の命と人とを繋ぎたい』。それが、西原部長が園芸部をつくった理由だったそうだ。
それは紛れもなく、西原部長が古水先輩からもらった言葉を大切にしているからだった。
そんな部長を、古水先輩は惜しみなく全力で支えているのだ。
部長さんはよく『みんなで仲良く』と口癖のように言うが、おそらくそれも、自らの名前とそれに関する経験から言ってることなのだろう。
そこまで聞いて、私は思わず嘆息を漏らした。
西原部長は本当に古水先輩に支えられていて、だからあの時、中庭であんな顔をしていたのだと、すごく腑に落ちた。
「あのー、ここまで聞いて今更なんですけど、そんな大切なお話、私なんかに話してもよかったんですか?」
古水先輩がさわやかに微笑んで、首を縦に振った。
「なんか、じゃないでしょ。たとえ西原にきいてても、夢川さんと緋野さんになら絶対話してるよ」
はあああ、先輩のその微笑、国宝ですか、国宝ですね!
もう先輩が西原部長のことを本心ではどう思っているのかとか、どうでもいいや! はい、尊い、以上! ありがとうございました!
「夢川さんには話してもよさそうかな……私さ、実は西原のこと、好きなんだ。恋愛感情の意味でね、もちろん」
へー、そうなんですねー、もちろん恋愛感情なんですねー。ふむ……部活が終わったら耳鼻科にでも行こうかしら。
「えー、夢川さん何か言ってよ、居た堪れない」
「えっ、どうして私にそんなことを……?」
あれ、私ってば意外と冷静じゃないの。普段からシミュレーションしてたおかげかな!
古水先輩が「だって」と言って、私の顔をまっすぐに見つめた。
「夢川さんと緋野さんって、そういう関係じゃないの? だからそういう先輩として、後押ししてくれるかなあ、って」
うん、なるほどなるほど。そうですね、私は先輩として全力で後押ししますよ。
「ってなんですかそれ! わ、わたっ、私と綾里が……ってなんでですか!」
「なんでって、あんなに分かりやすいものもないと思うんだけど」
「ご、誤解……じゃないかもしれませんけど、五ミリくらいは誤解です!」
「五ミリ?」
「いやっ、さ、三ミリ!」
古水先輩が口元を手で覆って、クスクスと笑い声を漏らした。
「長さに疑問を持ったわけじゃないけど」
「えっ、私たちってそう見えますか?」
「むしろそうとしか見えないと言いますか」
「えっ、先輩ってもしかして百合脳の方ですか?」
すると、先輩は眉間にしわを寄せて、首をかしげた。
「あっ、ごめんなさい、失礼しました、やっぱり今のはナシで、忘れてください」
危ない! 危うく墓穴を掘るところだった!
……いやいや、というか今まさに私がそう見られてるんだった!
「あ、あの……何と言いますか、私たちは秘密の関係と言いますか……」
「秘密だったらもっと控えたほうが良いかも」
おっしゃる通りでございます! ぐうの音も出ないご指摘ありがとうございます! でもご主人様がそういうの大好きでどうしようもないんです!
先輩がため息をついて、難しい顔をした。
「そうだよね、やっぱり秘密にしなきゃならないことなんだよね」
「とんでもないです! 私と綾里は事情があるからで……とにかく、私は先輩のこと応援してますから、何でも相談に乗りますよ!」
先輩は照れ臭そうにはにかんで、肩をすくめた。
そして、上目遣いに私を見て、「ありがとう、夢川さんに話してよかった」とどこか幼い子どものようにあどけない笑みを見せてくれた。
古水先輩の背後、半透明の温室の壁に張り付いて、こちらをじっと凝視している綾里の姿に気が付いたのは、それからすぐのことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます