21 重い重い愛が嬉しいんでしょ?


 耳元で綾里がほうっと深い息をついた。

 十数分もの間カジカジと噛まれ続けていた首の付け根を、指の腹でくすぐるように撫でられる。

 ゆっくりと身体を離し、綾里は目を細めてうっとりと微笑んだ。


「はあ、ことりの細胞を補給できた」

「めっちゃヒリヒリするんですが……さすがにかじり過ぎでしょ」

「もっとしてって言ったのはことりだよ。えへへ、嬉しかったあ、ことりの方から私を求めてくれるなんて」


 頬を両手で包み、夢見心地に綾里が言う。

 直前に色々と考えていたせいで、つい口をついて出てしまったのだ。ううう、恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!


「反対側もしてあげよっか」


 そう言って綾里が顔を寄せてくる。

 身体中が煮えたぎるように熱かった。煮えたぎる脳から生まれた思考は、私を衝動的に動かした。


 悪戯っぽく微笑む綾里の顔に両手を添えて、私は綾里の唇に口づけをしようとした。

 しかしすんでのところで、目をみはる綾里の動揺する表情を目の前にして、冷静な思考が戻ってきた。

 

「はっ……ま、間違えた」


 私の言葉に、綾里は口を半開きにしたままで呆然としていた。そのまま数十秒が経過する。

 しびれを切らし、「あの、綾里さん……?」と声をかける。すると綾里は、肩を跳ねさせて、あわあわとしながら首から上を一気に紅潮させた。


「なっ、あれっ、なに、間違えたって何!」

「いや、つい、そんなつもりじゃなかったと言いますか」

「ついって何! そんなつもりじゃなかったって何!」


 顔を真っ赤に染めたまま、綾里がぐいぐいと詰め寄ってくる。

 もおー、私の上に乗った状態でそんなに身体動かさないで頂戴よ! 密着度がすごくてアレがアレなのよ! あと顔近いし!


「ちゅーしようとしたよね?」

「はい、しました」


 正直に答える。綾里は目をしばたたかせ、依然顔を赤くしたままで眉根を寄せた。


「してもいいんだよ?」

「だから……その、一瞬の気の迷いと言いますか……」


 綾里は絶対に、これに関して『しなさい』とは命令してこない。わかっている。そこでだけは私は、綾里の意思に反抗できるのだ。

 僅かに唇を震わせた後、綾里は口を真一文字にきつく結んだ。

 無言のまま見つめ合って数分。しだいに、綾里の目の淵が濡れて光を帯びてくる。

 罪悪感にさいなまれた私は、そっと綾里の身体を包み込んだ。


「バカわんこ」

「ごめんなさい」

「なんで謝るの。ムカつく」


 グスンと鼻をすすり、綾里が私の肩で涙を拭いた。

 はあ、自分がひどい悪人に思えてくる。女の子の涙はずるい。


「ことり、好き」


 額を肩にぐりぐりと押し付けて、綾里が言う。

 もう何度言われたかも分からないその言葉を、私は綾里に返してあげることができない。黙って抱きしめることしかできない。

 おもむろに、綾里が私の横髪に鼻先を寄せた。スンスンと鼻を鳴らし、匂いを嗅ぎ始める。

 うう、鼻先が頬にこすれてくすぐったい。


 目を瞑って我慢していると、不意に、綾里が私の頬にキスをした。わざとらしいリップ音付きで。そして、


「ねえ、ノート、返してあげようか?」


 本気なのか、冗談なのかわからない声音でささやいた。


「えっ、どうして……」

「コピーなんてとってないから安心していいよ」


 綾里の柔らかい頬が私の頬に触れて、優しく頬ずりをする。一体何を考えているのか、さっぱり分からない。

 頬をこすり合わせながら、「どうする?」と訊いてくる。


「いらない」


 努めてぶっきらぼうに答える。私の返答に、綾里は可笑しそうに笑いをこぼした。


「そっか。わかった」

「ねえ、なんなの? どうしてそんなこと訊くの?」

「んー、ことりの気持ちを確かめたくて。そこのテーブルに置いてたのもわざとなんだけど……大体分かった」


 うん……なんか罠っぽいなあとは思ってたけど本当にその通りだったとは。


「わんこはわんこのままでいたいんだもんね。さすがヘンタイわんこちゃん」

「ち、違うし。変な意味はないから」

「うん、分かってる。私としてもさ、『じゃあ返して』って言われるよりもずっといい。今は、ことりが私を受け入れてくれてるだけでも、十分すぎるくらい幸せだから」


 綾里のその言葉を聞いて、

 ああ、この子は本当に分かっているんだ、とどこか安堵のような感情と共に思った。

 全部綾里の言う通りだ。私は綾里に、いつまでも縛っていてほしいのだ。綾里とのこの関係が、他には絶対にない、特別な、それでいて強固なものだと信じているから。

 ノートも、手首の赤い首輪も、綾里の命令も、この関係を支えるその全部が、私を――。


「大好き、ことり」


 額と額をこつんとぶつけて、綾里が微笑む。

 柔らかな微笑に後押しされて、私はまた「どうして」とつぶやいていた。


「どうして、綾里は私のことが……そんなに好きなの?」


 綾里は目をぱちくりとさせ、「んー」と声を漏らした。

 

「とうとう訊かれたか」

「いやまあ、入学式の日からずっと思ってたけどね。いやに懐かれてるなあ、って」

「懐かれてるっていうかさあ……あんなに分かりやすい好意もないでしょ。どうしてそこをスルーしてたかなあ、めちゃくちゃアピールしてたのに」


 綾里のジト目が私を責め立てる。

 あれっ、なんか私怒られてる?


「だって、勘違いしちゃダメだ! っていう考えが先行してたから」

「むー、その間ことりが古水先輩のことばっかり考えてたと思うとまた腹が立ってきた。ちょームカつく」

「えええ、そこはもういいでしょ」

「むううう、三か月だよ、三か月も無駄にした!」

「そ、それは私の責任ではないと言いますか……」

「だって一番の仲良しは私だったんだもん、独り占めできてるしもうそれでいいや、嬉しいやって思ってたのに、バカバカバカバカ!」


 綾里が私の肩に両拳を振り下ろしてくる。

 肩たたきはもう少し優しくしてください、お願いします!

 かなり強い肩たたきをやめた綾里は、子供っぽく頬をぷくっと膨らませた。


「ことりさんは全然覚えてないみたいですけどね、私たち小さいころに会ったことがあるんです」


 なぜ敬語なのか。

 

「私が園芸部に入ったのにも関係してるの。植物公園でね、一緒に遊んだんだよ」


 へえ……えっ、全然覚えてない!

 そういえば、植物公園の話をしたときに、綾里がどこか考え深げにしていたことがあったっけ。もしかしてそのことを考えていたのだろうか。


 綾里が私の上から退いて、壁際の机に向かった。引き出しを開け、そこから何かを取り出してまた戻ってきた。

 そして再び、私の太ももにまたがった。

 いちいちそこに座る必要ないでしょうに。近くてドキドキするのよこっちは。


「はい、写真と押し花」


 手渡されたそれは、見覚えがあった。


「あれ、この押し花うちにもあったかも、どこかでみた」

「あそこでやってた教室で一緒に作ったんだよ……」


 綾里が呆れたようにため息をついた。

 そんな綾里から逃げるように、私は写真に目を落とした。

 綺麗な庭園の前に、幼い私と、綾里がいる。手を繋いで、ふたりとも満面の笑顔だ。


「ほら見て、私の膝、けがしてるでしょ?」


 綾里が指をさした箇所を見ると、確かに絆創膏がはってあった。


「私がこけたときにね、ちょうど近くにことりがいて、声をかけてくれたの。それで仲良くなって、一緒に遊んだの」


 ほほう、そんなことがあったのかあ。


「この時から私、ずっと『ことりちゃんすきすきー』って言ってたんだよ」

「はやっ」

「だってけがして泣いてるところを慰めてくれたんだもん。そうなっちゃうよ」


 なっちゃうかなあ……ちょっとこの子ちょろすぎませんかねえ。


「それから今まで、私はことりに夢中になり続けてるの」


 両手で頬を包んで、照れ臭そうに「きゃっ」なんて言う綾里。何がきゃっ、だこいつめ。


「私のこと好きすぎでしょ」

「えへへ、照れますねえ」

「というか私、そのこと全然これぽっちも覚えてないんだけど、怒らないの?」

「うーん、だって四歳のときだよ、普通覚えてないよ」

「綾里は覚えてるじゃん」

「そりゃずっと来る日も来る日も『ことりちゃんことりちゃんことりちゃん好き好き好きことりちゃんことりちゃんことりちゃん』ってこの写真見ながら考えてたから」


 こえーよ! 生まれ持った才能ってやつかよ! やばいなこの人……。


「ってあれ、結局園芸部に入った理由っていうのは?」

「ここであった園芸体験でね、ことりがいっぱい褒めてくれたから」

「は? それだけ?」


 次の瞬間、バチンッと音を立てて、綾里の両手が私の両頬を挟んでいた。

 あっ……やってしまったな。笑顔が怖いこと怖いこと。


「は? 何、文句あるの?」

「滅相もないです……はい」

 

 そのまま、ふんっと言って両手を乱暴に動かしてくる。

 

「うにゅう、ほっぺたうにうにいたいれす」

「私の愛の大きさを思い知れ」

「重さは感じます」

「よし、わんこ、ベッドに寝ころびなさい」


 ほっぺから手を離した綾里は、間髪入れずにそう命令してきた。

 ええもう、この流れで何をするつもりなの。お手柔らかにお願いしますよ。

 

 立ち上がった綾里に続いて私も腰を浮かせる。すると、綾里が指にひっかけた首輪をぐいと後方に引っ張った。

 為す術なく背中から倒れ、ベッドが軋む。

 綾里が四つん這いになって、上から覆いかぶさってくる。

 綾里の左手が、私の右手に重なって、指が絡まる。空いた右手が手首をまさぐって、赤い首輪を外してしまった。

 それをつまみ上げた綾里は、不敵に口角を持ち上げた。


「毎日四六時中これを身につけてるくせに。私、そこまで言ってないのにね。なあに、わんこ。本心は、私の重い重い愛が嬉しいんでしょ? 縛られていたいんでしょ? そっちの方がよっぽど……」


 そこで言葉を切った綾里は、私の口を隠すようにして、唇の上に首輪を置いた。

 そして、その上から唇を重ね合わせたのだった。


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