22 わんことご主人様っていう関係は普通なの?
『ワンワン! ワンワン!』
どこか聞き覚えのある声が頭に響いて、私は目を覚ました。
重いまぶたをゆっくりとあげる。すぐ目の前に、綾里の寝顔があった。
「うわ、天使がいる。ほんと可愛いなあ、こいつめ」
鼻の先をちょんちょんとつつき、かすれた小声で独り言を漏らす。反応なし。どうやらまだ夢の中らしい。
すやすや眠りやがって、寝息もかわいいなこの小悪魔天使。寝息がかわいいって自分でもどういうことか分からないが、とにかく寝息がかわいい。
手を伸ばして軽く頭を撫でる。そうしながら綾里を見つめていると、どうしようもなく愛おしく思えた。
親指でそっとまぶたを撫でると、ぴくりと反応を見せた。
手を離して様子を伺う。
相変わらず愛らしい寝息が続いている。
私はもぞもぞと綾里に身体を寄せてから、彼女の細い身体を抱き寄せた。
そうして綾里を全身で感じていると、幸福感に満たされていくようだった。
「んんー……好き」
綾里の寝言ではない。綾里の額に頬を寄せ、無自覚に発していた自らの声にハッとした。
やばい、私はもう限界かもしれない。無意識に口にしてしまうなんて。
綾里に聞かれてはいないかと鼓動を速めていると、綾里の頬は明らかに上気して、耳まで赤くなっていた。
「聞かなかったことにしてあげる」
目を瞑ったまま、僅かに唇を動かして綾里が言った。
「私は今の関係でも十分幸せだし、この先のことはわんこに委ねることにしたよ」
目を開けて、綾里は優しく微笑んだ。
「あのう、いつから起きてたんですか?」
「わんこアラームが鳴った時」
はいはい、そんな気はしてましたよ。
くそー、あのかわいい寝息が演技だったなんて、私は今猛烈にショックを受けている!
「ちょっと待って、わんこアラームとは?」
「前に電話でわんわんって鳴いてもらったじゃん。アラームにするってはっきり言ってたと思うんだけど」
「あーはい、言ってましたね。本当にしてるとは思いませんでしたけど」
「朝からわんこに起こされて幸せなの。今日はナマわんこがいてさらに幸せ」
綾里が私の腕の中で、胸に顔をうずめてくる。
うう、なんだか今更だけど、こんなに溺愛されていて恥ずかしくなってきた。というかもう少し言い方を考えなさい。
「ねえ、もっと強くぎゅーってしてよ」
言われるままに、寝ころんだ状態で抱きしめる力を強める。
それに呼応するように、綾里は甘えた子猫のような声を漏らして、両手で私の服をきゅっと握った。
部室で体操着に着替えていると、そばにいた部長さんが何かに気が付いた様子で「おっ」と声を発した。
「夢川ちゃん、首の付け根のところ赤いぞ」
部長さんに指をさされ、思わず手で隠してしまった。
実は今朝も、『クセになっちゃった、ことり細胞のほきゅー』とかなんとか言って、綾里にカジカジされたばかりなのだった。
「あっ、えっ、あの、む、虫に刺されましたかね……」
しどろもどろに言い訳をする。
ちらと綾里を見ると、ニヤニヤと口辺を緩めていた。実に憎たらしい良い笑みだ。
「虫、ねえ。どんな虫だったのかなあ。また噛まれないように気を付けてね」
お前だよ!
「ふーん、皮膚が赤くなってるだけで腫れてはいないみたいだな」
部長さんがそう言って、手のひらでぺちぺちと優しく叩いてきた。
うーむ、これがキスマークとかになったらさすがにやばいだろうか。あのご主人様なら、『所有者の証』とか言っていくらでもつけてきそうだ。
どうかご主人様がそんなことを覚えませんように!
頭の中でお祈りをしていると、不意に部長さんの肩越しに古水先輩の姿が目に入った。
気まずそうに目を伏せて、口を堅く結んでいた。心なしか、耳がほんのりと赤らんでいる気がする。
せ、先輩まさか気づいちゃいましたかね、そうですよね、あんな挑発的な綾里を見たら勘づきますよね。
ほら、そういうところだぞ綾里!
部長さんと古水先輩が一足先に部室を出ていき、綾里がしたり顔で近寄ってきた。
「ふふっ、古水先輩気づいてたね」
「どうしてそんなに嬉しそうなんですかねえ」
「だって、ことりは私だけのものだって、こういうこともしてるんだって、分からせておいた方が安全でしょ?」
何この人、ほんとこわいわー。まさかそのために部活に行く直前にやったんじゃないだろうな。
「先輩にはそんな牽制必要ないって。たぶんとっくに伝わってると思うよ」
そう、綾里がとてつもなくやばいやつだってな!
そこまで言ってしまったら私の身が危険なので声には出さないでおく。
正面から身体を寄せて、綾里が私の腰をふわりと抱いた。
「念のためだよ、念のため。可能性がわずかでも残ってたら嫌だもん」
「可能性もないって。先輩は部長さん一筋なんだからさ」
「わからないよ。ふとしたきっかけでってこともあるかもしれないでしょ。多感なお年頃なんだから」
そう言う綾里の背中に、私も何気なく腕を回した。
「それを言うなら、私たちだってそうでしょ。綾里だって」
「私はことりだけしか見えてないもん」
不服そうに唇を尖らせて、綾里は演技っぽく「ふん」とこぼした。
私も、今となってはこの人しか見えてないけども、実際私自身、以前は同じ思いを古水先輩に対して抱いていたのだ。
だから経験として、今のこの気持ちがどうなるのかなんて、私にはさっぱりわからない。
ただはっきり言えることが、今の私は確かに腕の中のこの人を好きになっているということで、ただそれだけなのだ。
「十年以上、会えもしない声も聞けないことりのことだけを好きでい続けたんだよ。いまさらことり以外に目が向くはずないもん」
「うぐ、それを言われると何も言えなくなるな……」
一瞬で言いくるめられてしまった。
私に対して恐ろしいほどに一途なこの人の気持ちが、誰か他の人に向いてしまうなんて考えたくもない。
私は、私たちの互いの思いが変化してしまうのが怖いのかもしれない。だから私は、いつまでも縛っていてほしいだなんて思ってしまっているのかもしれない。
だから正直なところ、綾里の独占欲をむき出しにした言動は、私に安心感をもたらしてくれている。
「はあ、これはあまりよろしくない気がする」
「なにが?」
「愛の錯綜、破滅フラグですよ、ご主人様」
「ことりとなら一緒に破滅してもいいよ」
いつか食べたわたあめのように甘ったるい声でそう言う綾里。冗談なのか本気なのか、さっぱりわからない。
「私は遠慮したいです、普通にしときましょう」
「へー、わんことご主人様っていう関係は普通なの?」
「うっ……なんかごめん」
喉の奥で言葉がつっかえた末に、なぜか謝罪してしまった。
すると、私の肩に額を押し付けていた綾里が、首をもたげて頬同士をくっつけて頬ずりをした。
「いいよ。大好きだよ、わんこ」
うーん、こんな頬ずりをされていると綾里の方がわんこっぽいなあ、なんて。
綾里の後頭部を撫でながら、「ねえ綾里」と声をかける。綾里が頬ずりを続けたまま、「なあに?」と返事をした。
「綾里はさ、私の気持ち、わかってるんだよね?」
「えへへ、今朝好きって言ってくれたー」
「ん、それはなかったことにしてくれるんじゃ……」
「いや、記憶が消えるわけじゃあるまいし。それはそれとして、好きって言われたことはちゃんと脳内保存してるの。朝からずっとリピート再生してるよ」
そう言って、頬ずりを激しくしてくる。ああ、綾里の髪の毛がこすれてなんだか幸せです……。
「じゃ、じゃあもう、それって両想いと言えるのでは……」
すると、綾里は頬ずりをぴたりとやめ、私の顔を両手でつかんだ。そして、額と額をごつんとぶつけてきた。
「ばーか」
んー、ドストレート! 至近距離で目を見つめられながらそんなこと言われると照れちゃいます、でへへ。
じゃなくて! どうして私は罵倒されたのだろう。何も間違ったことは言ってないのに。
「私、ことりがしっかりと真正面から気持ちを伝えてくれるまでは絶対に認めないから」
「うわ、めんどくさ」
そう口走った瞬間、綾里が頭を引いて、もう一度、今度はかなり強めに頭突きをくらわされた。
やっちまいましたね、綾里の笑顔がどす黒いオーラを放出しまくりですよ。ははは、こわ。
「めんどくさいのはどっちよ。一生わんこのままでいたいならそうしなさい。私は別にそれでも構わないって言ったでしょ、あとはことりに委ねるって言ったでしょ。でも、どっちもなんて中途半端なことは許さないから」
綾里が一気にまくしたてて、私は思わず口ごもってしまう。
「だ、だって、今の関係が安心できるっていうか、なんていうか……」
「じゃあそれでいいじゃん」
「で、でもでも、ちゃんとそういう関係にも発展させたいっていうか……」
「めんどくさ」
はっ、本当だ、私ってばめちゃくちゃめんどくさい!
綾里が眉間にしわを寄せて湿っぽい目で睨んでくる。責め立てる視線が刺さって痛い。
「そんなにちゅーしたいんだったらちゃんと告白してきなさい」
「べっ、別にそういうわけじゃないし!」
「うそだ、このヘンタイ」
「ま、まあ、したくないって言ったら嘘になりますけど……」
「ほーら、綾里好き好き大好きーって言いなさい。そしたらちゅーしてあげるよ」
「い、言いません」
「むー、そう言われるとなんか腹立つ」
不満そうな表情をした綾里が、私の頬に唇をつけてリップ音を鳴らした。それが二回三回と続いて、しだいに耳元に近づいてくる。
私の耳に綾里の唇が触れて、しまいには咥えられたのがわかった。
全身が震えて、身体の芯から力が抜けるような感覚に襲われる。
「ことりの弱点攻め」
クスクスと笑いをこぼしながら、耳元で綾里が囁いた。
その時だった。部室のドアが開いて、先輩と共に中庭に向かっていたはずの西原部長が姿を見せたのは。
入り口に立ってしばらくの間呆然と私たちを見つめていた部長さんは、次に腕を組み、眉根を寄せて難しそうな顔をして唸り声を漏らした。
何とも言い難いその奇妙な時間を、私と綾里は身体を密着させたまま、無言で過ごしていた。
そして、
「遅いから迎えに来たが……あと五分だけだぞ!」
こちらに手のひらを向けてようやく声を発した部長さんが、身を翻してそそくさと部室を後にした。
綾里が悪戯っぽい笑みを浮かべ、ずいと迫ってくる。
「五分間なにしよっか?」
いやいやそうじゃないでしょうが! よくもまあこんな状況でそんなことが言えるな!
心の中でツッコミの声をあげながら、それからきっちり五分間、私は綾里から好き勝手に弄ばれたのだった。
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