29 ちょっとくらいペロペロしてもいいよね……


 日曜日。

 部活帰りに綾里が私の家に寄り道をして、部屋に上がり込んでいた。

 私がペンを片手に頭を悩ませる一方で、綾里は本棚から漫画を取り出して、興味津々に読み耽っていた。


「筆がのらん、筆がのらんぞ……」


 私のつぶやきに、綾里が後ろから手元に広げたノートを覗き込んできた。肩に手をかけ、私の側頭部に頬を寄せる。

 綾里が「あー」と声を漏らし、クスクスとどこかバカにするように笑った。


「先輩後輩の百合なんて描こうとするからだよ。おとなしく同級生の幼馴染にすればいいものを。もっと細かく言えば、幼馴染とは言えないまでも過去に一度出会っていて、数年後に再会。これが至高ね」


 そう言って、手に持った漫画の単行本を見せびらかし、頭にスリスリと頬ずりをしてくる。


「綾里がそれを好きなのは、私たちがそうだからでしょ」

「まあね。次点で主従百合ね。個人的には『従』攻めの方が盛り上がる」


 こいつ……いつの間にか百合に染まってやがる。最初は何も知識のなかった子がこんなに成長して……待てよ、果たしてこれは成長なのか?

 

「ねえねえことり、そんなことよりイチャイチャしたい」


 甘ったるい猫なで声で、綾里が言う。私はため息をついて、依然頬ずりをしてくる綾里の頭を軽く撫でた。


「はいはい。その前に爪切らせて、伸びちゃってるから」


 すると、綾里はおずおずと身を引いて、右手で口を覆った。眉を下げ、困ったと言いたげな顔をする。


「イチャイチャしたいとは言ったけど、そこまでするつもりなかった……」

「なんの話ですか!」


 綾里が目を泳がせる。顔を赤く染め、「言わせないでよ」と震えるか細い声で言った。

 くそっ、かわいいなチクショウ!


「はあもう、ただ爪を切るだけだから。変なこと考えないでよ」

「なーんだ、ちょっぴり残念」

「ざっ、残念なのか、そうなのか」


 そうですか、そうですよね、綾里はそうですよね。

 はあ、心臓が大暴れですでに疲れました。

 と、もうひとつため息をついた時、綾里がずいと詰め寄って、今度は満面の笑みで瞳を煌めかせていた。

 ものすごく嫌な予感がするんですけど!


「な、なんでしょうか……」


 狼狽しつつ尋ねると、綾里はパチパチとまばたきをしてから、そのニヤついた唇を動かした。

 

「『ご主人様、私の爪を切ってください』。はい、どうぞ」


 綾里が小首をかしげ、顔を近づけてくる。

 ええ、はい、考えたら負けなんですよ。こうなったら流れに身を委ねるしかないんですよ。


「……ご主人様、私の爪を切ってください」


 すると綾里は、実に憎たらしいうっとりとした笑みを浮かべた。


「もー、しょうがないわんこだなあ。そんなことも自分でできないの?」


 やかましいわ! 言わせたのはどこの誰だこん畜生め! 

 

「えっへへへへ、わんこの身だしなみを整えてあげるのもご主人様の務めだもんね。あらゆるお世話が義務だもんね」

「うわ、なんかやべえヤツがいる」

「あらら、汚い言葉が出てくる悪いお口はどうやって整えたらいいのかなあ。裁縫道具持ってる?」


 そう言いながら、綾里の親指と人差し指、中指が、私の上下の唇をつまんで引っ張った。

 ひえええ、ごめんなさいごめんなさい! ついうっかり口をついただけなんです!

 ブンブンと何度も首を横に振る私などお構いなしに、綾里が満面の笑み(真っ黒なオーラ付き)で唇を引っ張り続ける。


「ごめんなさい、でしょ?」

「んんんーんんー!」

「なんか文句を言われた気がする」

 

 ええええ、これはひどい!


「はあ、私は悲しいよ、ご主人様の愛情を無下にするわんこで。いつからそんな風になったの?」


 綾里の空いた左手の親指が、私の下唇をなぞる。

 得も言われぬくすぐったさに、思わず身体が震えた。


「ご主人様の愛情を諸手もろてを広げて受け止めるのがわんこの務めでしょ? そんなことも分からないおばかわんこなの? 駄目わんこなの?」


 ううう、今日のご主人様は厳しめですね……。


「はあ、お顔真っ赤にして、おめめうるうるさせて、身体ビクビクさせて……叱られて喜ぶヘンタイわんこなの?」


 だってさっきから唇さすられてるんだもん! 

 叱られて喜んでるわけじゃないですよ、断じて! 別に嫌でもないけどね!

 

 口辺が緩むのを必死に我慢する綾里が、私の唇から指を離した。

 そして、そっと私の身体を抱きしめてきた。


「はー、うろたえる可愛いわんこを堪能したところで、爪切りに戻ろっか」


 ご主人様が愉しめたようで何よりですわ、ははは。

 私は机に置いていたポーチから爪切りを取り出して、綾里に手渡した。

 綾里はそれを受け取ると、じいっと私の爪切りを凝視し始めた。

 何をそんなに観察することがあるんですかねえ。


 部屋にしばらくの沈黙が流れた後、


「ことりがいつも使ってる爪切り……ごくり」


 綾里がボソリとこぼした。

 はいはい、どうせそんなことだろうと思ってましたよ、このド変態め!


「ちょっとくらいペロペロしてもいいよね……」


 うーん……? なんか変なセリフが聞こえましたねえ……。

 綾里が舌の先を覗かせて、手に持った爪切りを口元に近づける。


「ってそれはさすがにダメですよ!」


 大慌てで制止すると、綾里は不満そうに唇を尖らせた。


「ちょっとくらいいいじゃん」

「ダメです! 私だって恥じらいくらい持ってますからね!」

「じゃあ匂いを」

「ダメです! なんかもっとヤダ!」

「えー、わがままだなあ、まったく」

「うわなんかめっちゃ心外なんですけど!」

「はあ、ちょっとおトイレ借りるね」


 ため息とともに、綾里がゆっくりと腰をあげた。そして速足で部屋を出ていこうとする。


「その手に握った物を置いていきなさい!」

「ちっ、バレたか」

「逆にどうしてバレないと思ったんですか」


 綾里がトコトコと私の元に戻ってきて、また腰を下ろした。


「さて、お遊びはこれくらいにして……早く爪切りさせなさい」


 綾里が私に手を差し伸べる。

 今日の綾里は色々とぶっとんでるなあ。いや、割といつものことか。


 私は言われるままに、綾里の左手に右手を乗っけた。

 そうしてようやく爪切りが始まり、部屋に小気味いい音が響いた。

 

「ことりの指、綺麗だよね」

「前にも言われた気がする」

「そうだっけ。毎日思ってるからいつ言ったか覚えてないや」

「毎日思ってるんだ」

「うん、一日一本ことりの指」

「何の話だ!」

「私さあ、ことりの身体を舐めるの好きなの」

「あ、はい、知ってます」

「でも毎日ことりの体中をペロペロしてたらことり依存症になるでしょ? 危険なの」

「えっ……」

「だから、ことりの指を一日に一本だけ舐めてもいいっていう約束になったっていう妄想をね」


 ふと、綾里の手が止まり、上目遣いに私を見る。

 目を見返すと、「聞いてる?」と首をかしげた。

 

「ちょっと言葉を失ってたわ」

「そう。それでね、放課後の学校でこっそりことりの指を咥えるの。そんな妄想してたら興奮しちゃって」

「なるほど、実に趣深い」

「……何の話してたんだっけ」


 ダメだこの人。頭が何かにやられちゃってるよ。……あっ、私か。

 ポカンとしてから、綾里が爪切りを再開した。


「ことりの指、綺麗だよね」

「あれ、ループしてる?」

「よくことりの指をお口に入れてるけどさ」

「うん、あれ好き、気持ちいい」

「キャンディーみたいにどうにかいつも持ち運べないかと考えてるの」

「あの、いきなり切り落としたりしないでね」

「あらかじめ言っておいたらいいの?」

「ダメに決まってるでしょうが」


 ご主人様がそっち系のヤバい人じゃなくてよかったと、心から思います。

 綾里が私の右手を下ろして、「はい、今度はこっち」と左手をつかんだ。


「私ね、ことりの指が欲しくてたまらなくなる時があるの」

「……お口に、ですよね?」

「他に何があるの?」

「なんでもないです」

「前に一回だけね、そういう時に自分のを咥えてみたんだけどね」

「何やってんですかご主人様……」

「なんかすごく気持ち悪くてすぐやめた」


 自分の指を咥えてる綾里かあ……アリだな。

 頭の中で想像を膨らませていると、綾里が視線を宙に泳がせた。

 

「思ったけど、まだ足の指は舐めたことないよね」

「ぜっっっったいに嫌ですからね!」

「そんなに強く拒否されちゃうと尚更やりたくなるよ」

「このドS小悪魔め!」

「やってほしいからわざと言ってるの?」

「言い過ぎました、ごめんなさい」

「ふーん、でももう思いついちゃったし、ことりの指を触ってるせいでやりたい欲が高まってるの」

「せめて入念に洗わせてください、お願いします!」

「えー、やだ、価値が減るよ」

「それだけは本当に勘弁してください、なけなしの乙女心が本当に嫌がってるんです」

「むう、本当に嫌な時はそうやって拒否するのか。把握した」

「なんか把握されちゃったんですけど」

「ま、ことりに嫌われたくないし、軽く洗ってもいいよ」

「今『軽く』って強調しましたね」


 綾里が「ふう、終わったよ」と息をつき、私の左手を手放す。

 広げたティッシュの上に集まった私の爪たちを指先でちょんちょんといじり、にこやかに私に顔を向けた。


「これ、もらっ――」

「ダメです!」


 ティッシュを丸め、私は即座にゴミ箱に投げ捨てた。

 こいつ、油断も隙も見境も無いな。


 ゴミ箱の中を覗き込み、綾里があわあわとする。


「お宝が……」

「それはゴミです」

「待って、このゴミ箱のゴミは全部ことりの……つまりこのゴミ箱自体が宝箱!」

「ゴミ箱を覗き込んで目を煌めかせるんじゃないよこのド変態が!」


 あっ、声に出しちゃった。

 綾里がじっと私を見つめ、「ふーん」と言う。


「おすわり」

「はい」


 綾里の前で正座をすると、肩を押され、床に押し倒された。


「お仕置き。ことりのぜーんぶ、味わわせてね」


 悪戯っぽく微笑む綾里に、私は為す術などあるはずもなかったのだった。

 日曜の午後は、こうして過ぎていった。

   

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