20 一生ついてたらいいのにね


「うへへへへっ、ことりがシャワー浴びてる音がするよ」


 背後のすりガラス越しに、綾里の興奮気味に上ずった声がする。

 それでも中に入ってこないのはどうしてなのだろう。正直、すぐに乱入してくると思っていただけに拍子抜けだ。

 別に、それを期待してたとか、そういうわけじゃないよ、断じて。そんなことは断じてない!

 

 八月も下旬になった。

 『もうすぐ夏休みも終わりなのにお泊り会してない!』などと、唐突に思いついたかのようにご主人様が提案して、今の状況になっているわけです。

 ここは綾里のお家で、綾里のご両親はお母さんの実家に帰省中らしい。なんて都合がいいことか。


 私今日、色々なものを奪われないよね? いつもより入念に身体を洗っておこうかな。

 いやほんとに、ご主人様は次にするキスは両想いになってからと言うものの、その他のアレなことは平気でやらせてくるししてきますからね!

 そういうわけで、いつ一線を越えてしまってもおかしくないのです。

 だって……あのご主人様ですよ?


 どうしてあの人は、こんなろくでもない私なんかのことがこんなにも好きなのだろうか。

 幾度も疑問に思って考えたことだが、それで分かるわけはないし、かといってそんなことを本人に訊こうとも思えない。

 

 そう言えば、と、ぼんやりと思い出す。

 綾里と初めてしゃべった日にも、同じようなことを考えていた覚えがある。どうしてこの子はこんなにも私に懐いているのだろう、と。


 綾里と仲良くなったあの日は、“いろいろと複雑な期待”を交えて臨んだ入学式の日だった。


 

*****


 あれほど私にはもう恋はできない、だなんて思っていたはずなのに、あっさりと古水先輩に一目惚れをした入学式の日。

 式が終わって、脳裏に焼き付いた先輩の姿に鼓動を速めながら教室に戻ると、すぐにホームルームが始まった。

 最初に自己紹介があって、私は適当に簡素な挨拶だけをしてやり過ごした。でもその瞬間から、綾里との初めてのコミュニケーションがあった。

 出席番号が最後の私が、


「夢川琴莉です。よろしくお願いします」


 と述べると、ちょうど私の斜め前に座っていた彼女が、ビクリと身体を震わせるように背筋を伸ばして、私をまじまじと凝視してきたのだった。

 すぐ目の前でそんな反応をされるとそれに注意が向かないわけもなく、ほんの数秒間、私と綾里は視線を絡ませ合った。

 

 ――かわいい子。


 そんな大雑把な第一印象だった。

 今そんなことを綾里に言えば、頬を染めてテレテレとしながら『他にはなかったわけ?』となじってくるかもしれない。

 それが最初のコミュニケーションだった。綾里にじっと見つめられて、私も綾里を見つめ返して数秒。

 なんかすごくかわいい子に熱心に見つめられたなあ、と思いながら、若干気後れしつつ、私の方から視線をずらした。


 ホームルームが終わって帰り支度をしていると、綾里がすっくと席を立って、私の方へ駆けてきた。

 距離にして約一メートル。走る必要のない距離を、綾里はトコトコと駆け寄ってきた。

 はあ、あざとい、あざといぞ。

 今にして思えば、すでにその時から始まっていたのだろう。

 

「ことりー、一緒にかえろ」


 私に向けられた第一声はそれだった。

 頭の中が疑問符でいっぱいである。……え、なぜ? と、そう思うのは当たり前のことだと思う。


 私たち初対面だよね? さっきも熱い視線寄越してきて何なの? というかいきなり下の名前で呼び捨て?

 そんな疑問を抱えながら、


「えっ、あ、はい……」


 しどろもどろに、私は承諾していた。

 よくわからないけど、別に断る理由もないし、あとかわいいし。


「えへへ、よかった。私ね、ここに引っ越してきたばっかりで知り合いがいないから、仲良くしてくれたら嬉しいな」


 その無邪気な笑顔を目の当たりにして、私は一瞬で心を許していた。


「は、はい、こちらこそ。友達とかあんまりいないので嬉しいです」

「えー、ほんとかなー。だったら私が独り占めしよっと。いいでしょー?」


 嬉しそうに無垢な笑みをこぼす綾里。たぶん私も、自然と笑顔になっていたと思う。


「あはは、いいですよ。是非してください」


 深い意味はなくて、一種の戯れ程度に軽く言ったことだったのだが、まさか本当にそうなるとは、この時は微塵も想像していなかった。

 まあそんな想像は、未来予知ができるか、その手の趣向がある想像力豊かな余程の猛者かしか可能ではないだろうが。


 とにかく、この日から始まる『先輩ノート』の作成がこの無邪気でかわいい女の子に露呈して、それを皮切りにあれやこれやとそれはそれは愉快なことが始まるだなんて、思ってもみなかったわけである。


「ことりに会えてよかったー」


 帰り道、そう言って、えへへとはにかむ綾里を見て、心の奥がじんわりと温かくなる感覚を覚えていた。


 

*****


 ふと、背後の綾里が静かになっていることに気が付いた。

 ついさっきまでやかまし……もとい、にぎやかに興奮していたのに。脱衣所から出て行ってしまったのだろうか。

 急に静かになられると、それはそれで少し寂しいような気もする。


 顔を後ろに向け、「綾里、いないの?」と声をかける。

 すると、綾里の黒い影がもぞもぞと動いた。


「今ことりのシャワーの音を録音してるから」


 やばい奴がいるぞ。動画を撮らずにあえて録音で済ますところにやばさを感じるのですが。

 まあ、録音くらいなら別にいいけども。

 蛇口を捻ってシャワーをとめる。


「あれ、終わっちゃったんだ。お湯はってるから浸かってね」

「あ、うん、ありがとう」


 とはいえ、他人の家の浴槽に浸かるのはなんだか気が引ける。どうしたものか。

 私が悩んでいるところへ、背後でガンッと音がした。

 驚いて振り返ると、綾里がすりガラスにはりついていた。


「遠慮しちゃダメだよ。ちゃんと入らないと後でおしおきだからね」

「入りますとも! 今すぐに!」


 ひえー、こわいわあ、恐ろしいわあ。

 背後からの圧をひしひしと感じながら、私はしかたなくお湯に身体を沈めた。





 綾里が入浴している間、私は綾里の部屋でおとなしくご主人様の帰りを待っていた。

 私と入れ替わりにお風呂に入った綾里は、いつになく瞳を輝かせていた。一体何を考えていたのやら。


 ベッドの側面に背中をあずけていると、そばのローテーブルの上に、ピンク色のノートが置かれているのが目に入った。

 それをおもむろに手に取って、パラパラとページを繰っていく。


「うわあ……我ながら何てものを生み出したんだ……」


 恥ずかしさに身悶えする思いがして、私は独り言をつぶやいた。

 ノートを閉じて、『先輩ノート』と書かれた表紙を指先で撫でる。

 こりゃ他人には何があっても見せられないな、などと、改めて確信した。そう思いつつも、なぜか、口の端が緩んでしまうことを自覚する。

 今の私はたぶん、ノートを撫でながらひどくニヤついているに違いない。

 もう、自分でも分かりきっている。“その事実”に、知らぬふりを決め込んでとぼけているだけなのだから。


 ノートをテーブルの上にそっと戻す。

 今なら奪い去ってしまえるのにそうしないなんて、綾里にバカだって思われるかな。まあ、綾里ならすでにコピーとかとってそうだけど。


 そうこうしているうちに、綾里が部屋に戻ってきた。

 薄いピンク色の、幼さのにじみ出るパジャマを着ている。

 かわいいけど、ちょっとアレだね。私は着古したティーシャツと短パンなんだから、そのあたりのことも少しは考えてほしいものだ。

 なんだか申し訳ない気分になってくるじゃない。


 綾里が私のもとに駆け寄って、すぐさま当たり前のように太ももに対面で座ってきた。そのまま腰に腕を回し、胸に顔をうずめられた。

 ものすごい勢いで呼吸を繰り返しているが、過呼吸にならないか心配になってくる。


「ことりーことりー、いい匂いだよお」


 ぐぬぬ、こっちのセリフですが。

 お風呂上がりの香りって、えも言われぬ艶やかさがあって、すごく良いわね、ふふふ。

 

 綾里の身体を軽く抱きしめて、せわしなく動く頭に頬を寄せる。風呂上がりの火照りが直接伝わってきて、綾里のそれを全身で感じていると、私の方も熱がこみあげてきそうだった。


「ことり、ドキドキしてるね」

「してません」

「嘘ついたからガブガブの刑」


 なんだそれは!

 綾里が私の上で身じろぎをして、首元に唇をおしつける。

 

「んんー、ことりの首、白くて滑らかできれいだなあって、ずっと思ってた」


 ううう、吐息がくすぐったいです……。


「だから、この前はぺろぺろしたから、今日は食べる」

「ど、どういう理くっん、んう……」


 すぐに、首の付け根に綾里の歯がたって、意識外の声が漏れた。

 ゆっくりと噛むことを繰り返し、しばらくして、口が離れたのが分かった。


「ことりの首元に歯形ついたよ」

「嬉しそうに言いますね」

「うん、嬉しい。一生ついてたらいいのにね、私の歯型」


 そう言って、また同じ場所を噛み始める。

 いちいち「あむあむ」と声を出して、かわいい、あざとい。あとこれ、正直、気持ちいい。

 花火大会の時には指に同じようなことをされたけど、こっちの方が、なんというか、心地が良い。たぶん、綾里の顔がすぐ横にあって、息遣いや体温が、綾里を近くに感じさせるからかもしれない。

 だから、綾里を抱きしめる腕にも力がこもるのだろうか。


「あやりぃ……」

「んー? なあに?」


 鼻の先同士をくっつけて、綾里が正面から私の目を見つめてくる。

 妖艶に光る瞳が、私をとらえて離さない。


「もっと」

「もっと、何? ちゃんと言って」

「もっとして」


 私の震える声に、綾里はまぶたを一瞬ピクリとさせるようにして目を丸くした。

 そして一度私を強く抱きしめてから、先ほどまでよりも少し強めに、同じ行為を繰り返した。

 

 

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