8 約束を思い出せるように


「ことり、私ね……」


 どこか気落ちした雰囲気で話す綾里は、まるで自身に関する重大な秘密を告白するように重い声をしていた。

 失意の底に沈んで今にも溺れそうなのだと、表情に苦しみを滲ませて訴えてくる。


 その厚みのない薄桃色の唇が次に動いたとき、小さく愛らしい口から一体どんな言葉が出てくるのかと、固唾を呑んだ。


「……明日、部活に出られないの」

「は?」

「今、『は?』って言った? ねえ、『は?』って言った?」

 

 綾里が目を鋭くして、ずんずんと距離を詰めてきた。その迫力に後ずさる。


「だだだって、何を言われるのかと思えばそんなどうで、もっ……!」


 口が滑ったああああ! あああ、蔑む視線が痛いよお、怖いよお! 

 綾里の両手が、バチンと音を立てて私の頬を捕らえた。頬を挟んだ両手をグイっと引き寄せて、綾里がニコリと微笑んだ。


「もしかして聞こえなかったのかなあ。特別にもう一回だけ言ってあげるね。私、明日の部活、出られないんだ」


 ひいいい、笑顔が怖い! 笑顔が怖い! 圧がすごい! とにかく圧がすごい!


「そ、そうなんだ! わ、あや、綾里と会えなくて寂しいなあ!」


 綾里の笑顔に威圧されながら、必死に言葉を絞り出した。

 私ってばやればできる子! ご主人様のご機嫌をとってえらいなあ、あはは!


 私の頬を挟んだままの両手が、ぐにぐにと乱暴に動かされる。

 か、顔が崩れる……! ほっぺた剥がれ落ちる……!


「いまさら取り繕っても信じられないんだけど」


 えええ、私にどうしろと!


「さうぃしいのあおんと」

「何を言ってるのか全然わかりません」


 だったらそのほっぺたぐにぐにやめてください! それ結構痛いです!

 綾里の肩を二度叩く。すると、意外にもあっさりとぐにぐにをやめてくれた。


「寂しいのはほんとだから!」

「ほんとにー?」

「もちろんです、その証拠にほら、目尻に涙が」


 自分の目を指さして言う。綾里が顔を近づけて、私の目を凝視した。

 あっ、ご主人様近いですわ。相変わらず睫毛がお長いこと。

 少しして、綾里が怪訝に眉をひそめた。


「それ、ことりのほっぺたいじめたからでしょ」

「あは、バレましたか」

「はあ、私はこんなに悲しんでるのに、わんこときたら」

「心から悲しいです! ご主人様への忠誠心に誓って!」


 ふむ、一日会えないだけで悲しいとか、このご主人様はどれだけ私のことが好きなんだ。もしくは、私をおちょくれないのが悲しいのか。はたまたどっちもか。

 いやまあ、私も本心から寂しいとは思うけども……だって園芸部に入ってからはほぼ毎日一緒にいるわけだし、それに先輩たちを見てキャッキャする心の行き先はいつだって綾里のところだから! もう私には綾里しかいないのよ!

 大変お世話になっております。

 

 綾里がなじるように湿っぽい目を向けて、「ふーん」と言った。


「わかった。じゃあ、そんなお利口なわんこに、プレゼントあげる」

「えっ、随分いきなりだね。誕生日でもないのに」

「うん、昨日思いついて、急いで買ってきたの」

「へ、へえ、ありがとう」


 わあ、ご主人様からのプレゼントですって。それもこんなタイミングでとか、なんか恐ろしさを抱いてしまうのですが。

 綾里がバッグをまさぐって、プレゼントとやらを取り出した。

 そして、私に空いた左手を差し出し、


「わんこ、お手」


 と言った。

 素直に右手を乗せる。綾里の手が、何かを確認するように私の手を揉んだ。

 親指でさすってきたり、軽く握ってきたり……ムズムズする。


「ことりの手って綺麗だよね」

「へ、そうかな。ありがとう」

「じゃあそのまま浮かせておいて」


 お手はなんだったんだ! この小悪魔め、意味のないことをやらせやがって。

 

 綾里が手を離し、私の手首にひも状の何かを巻いて、ベルトを締めた。

 パッと両手を開いた綾里は、「はい、どうぞ」と言って嬉しそうに笑った。

 私の手首には、赤色のベルト式のバンドのようなものが巻かれていた。


「なにこれ、ブレスレット?」

「ううん、小型犬用の首輪」


 なんですって?


「なんですって?」

「小型犬用の首輪だよ。わんこがご主人様のいないところで他人に色目を使わないように、そ・く・ば・く」


 ははあ、さてはこの小悪魔、今日絶好調だな? 


「ペットショップで一番いいやつ買ったんだからね」

「ブレスレットならよかったものを……どうして首輪買ったかなあ」


 綾里が肩をすぼめて、上目遣いに私を見つめる。


「だってわんこはわんこだもん」


 だもん、じゃないんだよ! そんなに可愛く言われたらコロッと騙されちゃうよお!

 シュンと表情を暗くして、手を伸ばしてくる。


「ごめんなさい、いらないならいいや、返して……」


 その綾里の手を、思わず掴んでいた。

 

「ま、まあ、首輪だって知らなかったら見た目はそれほど悪くない、かもしれないし……綾里がせっかく私のために買ってくれたんだから、もらっておく。ありがとう」


 すると、綾里はパアッと顔を輝かせた。


「よかったあ、本当はね、普通のブレスレットにしようと思ってたんだけどね、どこのお店に行っても良いのがなかったの。それで、なんとなくペットショップに寄ったら、コレだー! ってなったの」


 綾里は、心底嬉しそうに肩を揺らしながら話した。


「どうしてペットショップに寄っちゃったかなあ。どうして『コレだー!』ってなっちゃったかなあ」

「うちのわんこより可愛いわんこはいないだろうなあ、っていう気持ちで」

「ご主人様、私は人間だよ」

「えへへ、知ってるー」


 はあ、こんな嬉しそうな姿を見せられたら何も言えないし、否応なく私も嬉しくなってくる。主従とか関係なく、私ってやつは綾里に弱いんだなあ……。


「あっ、でも、最初から束縛の意味を込めるためにブレスレットを探してたんだからね。首輪を買ったから理由を後付けしたとかじゃないから」


 わあーい、その補足説明は必要だったんですかねえ。

 なんだか綾里が愛の重たい恋人みたいだ。綾里が恋人……綾里が私の……恋人?


 はッ、いやいや、綾里は親友兼ご主人様だから! 何を想像しているんだ、バカわんこ!


「というかそもそも、私には部活と先輩たちを見て癒されるという予定しかないよ。そんな心配いらないと思う」

「それはどうかなあ、うっかり古水先輩とふたりきりになろうものなら、ことりはすぐ恋する乙女になるよ、私知ってる」

「いやまあ……どうしようもなく緊張したりはすると思うけど……。どうしよう、綾里がいないの不安になってきた。“そういうの”、もう絶対バレたくないよ」


 私の尻すぼみなか細い声に、綾里が優しく微笑む。


「うん、わかってる。だから、それをつけて私がそばにいるものと思って。『ふたりだけの秘密』っていう約束を思い出せるように、ね?」





 翌日。

 私は、古水先輩ではなく、西原部長とふたりきりになっていた。

 部長さんによると、しばらく放置されていた中庭の一画を整備して園芸に使ってくれ、との依頼があったらしい。

 

「はあー、これを見越して夏前には自主的に草取りしておくべきだったな。せめて楓ちゃんが生徒会長のときに言ってくれよなあ」


 中庭といっても、端っこも端っこ、わざわざ誰も足を運びそうにない場所だった。

 かろうじて、ここから見て一番手間側の教室から目が届くくらいか。

 土で薄汚れたレンガが円形に敷かれ、一応花壇のようなものがある。まあ、夏草が大喜びで生い茂っているが。


「こんなになるまで放っておくなら、どうして早く貸してくれなかったんですかね」

「さあねえ、こんな敷地の端っこが寂れてても誰も気にしないし、本来は用務員さんの領分だしな。無駄な予算とか出したくなかったんじゃないの、だから楓ちゃんが会長を退いてから依頼してきた、とか」

「うわあ、狡猾こうかつですね」

「あははっ、あたしとしては嬉しいけどね、ここを自由に使っていいなんて最高だよ。はりきってデザインしようぜ夢川ちゃん!」

「えっ、私もですか?」

「当たり前だろ、どういう風にするのかはみんなで考えんとな」


 部長さんがため息をついて、「でもまずは草取りからだな」と肩を落とした。


「よし、夢川ちゃん、とりあえず適当に抜いていくぞ!」

「はい、適当にやります!」


 私のごとに、部長さんがケラケラと笑った。軍手をはめ、拳を握り締める。

 すると、部長さんが私を見て、何かに気が付いたように「おっ」と言って人差し指を向けてきた。


「その手首につけてるやつ、外さなくていいの? 汚れるかもしれないぞ」

「えっ、あっ、これはその……多少乱暴に扱っても問題ありません! 本来そういうものなので! むしろつけていないと大問題です!」


 つけていないと、ご主人様が不機嫌になるんです、命令ですからね。きっと今頃、心の目で私を監視していることでしょう。

 部長さんが地面に屈んで、ニヤニヤと私を見上げる。


「なんだあ? あたふたして怪しいなあ」

「そそそ、そんなことないですよ、これをつけていると、なんというか、力が湧いてくるんです」

「へえ、それつけてるの、初めて見たが」


 うぐっ、部長さん鋭い……! 結構ちゃんと見てくれているんだなあ。


「まあでも、その気持ちわかるよ」


 話しながら、部長さんが足元の雑草の根元を束にして、ぐいと引っこ抜いた。


「あたしにとっては、こうやって植物と触れあっている今がそうだなあ。って、思いっきり草取りしながら言うとちょっと笑えるな」


 ケラケラと可笑しそうに笑っているはずの部長さんは、どこか遠い目をしていた。


「植物と、それから楓ちゃんだな、あたしの元気の源は。だからずっと近くにいるんだな」


 そう言う部長さんの表情は、本当に大切なものを慈しむように優しかった。

 

「夢川ちゃんのそれと同じだよ。つまりあたしにとって楓ちゃんは外せないアクセサリーだったわけだ」


 部長さんが冗談めかして、白い歯をのぞかせた。

 ドクンと心臓が大きく跳ねて、私は口を固く結んだ。


 手首に巻いた赤い首輪に、無意識で手のひらを重ねていることに気が付いたのは、少しの間をおいてすぐのことだった。


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