16 ちょっとスコップ取ってきます


「うぬぬぬ、あの子の記憶を消すにはどうしたら……」


 隣を歩く綾里が、悩まし気に唸り声を漏らした。

 花火大会の日から数日、幾度となく同じことを真剣な表情で呟いている。

 どうやら、今更ながら、“私が女の子を好きになる” ということを知っているのが自分だけではなかったという事実が気に食わないらしい。

 

「あの子が転校してから全然付き合いとかなかったんだから、別に気にしなくていいのに。今やあの子の中では私なんてどうでもいい存在だよ……たぶん」

「ムカつくムカつくムカつく、ちゃんと覚えてたじゃん。それにどうでもよかったら見かけても話しかけてこないよ」

「確かに……」

「確かにじゃない、自惚れるなバカわんこ」


 ええ、それはちょっと理不尽すぎやしませんかねえ。

 というか、だからと言って他人の記憶を消したいなんて真面目に考えるとか、ご主人様は相変わらず思考がおっかないです。


「全部はかわいそうだから、こう、局所的にできないかな」


 両手を使って何かよくわからないジェスチャーをして、綾里が真面目な顔で言う。

 

「私だけがことりのソレを知っていて且つ受け入れいているという最強のアドバンテージがなくなった。ライバルなんていらないのに」

「いやいや、綾里の最強のアドバンテージは何よりも“先輩ノート”でしょ。あれを存分に振りかざしておいて何を言ってるの。あとあの子は私のことを好きなわけではないんだから、ライバルでもでも何でもないよ」


 綾里が横目を向けて、私をじろりと睨んだ。


「ことり、あの子に敬語使ってなかったでしょ」


 その威圧的な雰囲気に、若干たじろいでしまった。こんなガチめの迫力、綾里にバレたあの日以来のような気がする。

 全身がゾクゾクするような目をしやがる。いや、決してマゾ的な目線からの意味合いではなく。


「だって、小学生のころはまだまともな人間だったからね、たぶん」


 その説明に、綾里は意味が分からないと言いたげに眉根を寄せた。

 ああ、そういえば私が普段から誰にでも敬語を使っているのは敬語キャラに憧れるという中二病的なソレが理由だということを、綾里には話していないのだったか。


「つまり、小学生のころは同級生に対しては普通に皆にタメ口だったの。だからつい」


 綾里が私の肩を乱暴にバシバシと叩いてくる。


「むう、これも私だけの特別だったのに!」

 

 いたいいたい、結構痛いからそれ! 全然加減しようとしないのね! 


「もう、ごめんね、綾里以外にはちゃんと敬語使うから」


 すると、綾里は歩みを止め、私の手首に手を伸ばして首輪に指をひっかけた。


「ことりはあの子のこと、また好きにならない?」

「ならないよ」


 即答しても、尚も物足りないようで、瞳を濡らして顔を寄せてきた。


「絶対だよ?」


 ああもう、この小悪魔ズルいなあ。そうやって分かってるのに、分かってるのに心がググっと引っ張られる。ううう、私の心ってばどうしてこんなにちょろいの。

 ほんの少し顔を逸らし、「ならないってば」と小声で返す。


「それにさ、あの子の中では私たちって……その……」


 口ごもってしまう私を見て、綾里がハッとする。すぐに目を細め、視線で私をなじってくる。


「なあに、わんこ。ちゃんと言ってくれないと分からないよ」


 変わり身はやっ! 本当にすごいなこの小悪魔! 

 くそー、分かってるくせに……言わなければよかった。

 後悔しつつ、観念してゆっくりと口を開いた。


「こ、恋人同士ってことになってるじゃん」


 逸らす私の顔を、綾里が両手でつかんで無理やりに向き合わせた。


「えへへへ、ことりさあ、それを言うだけでどうして顔赤くしてるの? 本当は私のこと好きなんじゃないの? 素直になっていいんだよ」

「なっ……そんなわけないでしょ。赤くなってないし。好きでもないし」


 綾里はニヤニヤと口辺を緩めたまま首をかしげ、「えー、傷つくなあ」とからかう口調で言った。

 

「まあいいや、ことりの可愛い反応見られたから満足」

「勝手にムカムカして勝手に遊んで勝手に満足しやがって……」


 ボソリとつぶやくと、綾里は私の顔から一旦離した両手を元に戻し、また頬を包み込んできた。


「ちゅーしよっか。口が悪いいけないわんこにはちゃんと躾しなきゃね」

「ちょっ、次は両想いになった時って言ってたじゃん! というかここ思いっきり外だし学校だし部室もすぐそこだし先輩たちいるし!」

「躾だもん」


 だもん、じゃないんだよ! えっ、本当にするつもりなんですか? どうしてお顔を近づけてくるんですか?

 

 後ずさりをする私を、綾里が両腕を首にかけて制止する。艶めかしく光る瞳が、私の視線を掴んで離さない。

 この目、マジのやつだ!


 そう思ったのも束の間、綾里の手のひらが顔の前に現れた。その手のひらが私の唇に押し付けられて、手を間に挟んだまま、綾里は自分の手の甲に口づけをした。

 そのまま、数秒間見つめ合った。

 しばらくの後、綾里が顔を離し、手をくるりとひっくり返した。私の口に、今度は手の甲が押し付けられて、綾里もまた同じように、手のひらに口づけをした。


 まるで、本当に唇を奪われたかのような感覚に襲われて、綾里の手をはさんで繋がった唇から全身がしびれてしまうようだった。

 実際に唇同士が触れ合っているわけではないのに、これは……。


 綾里がそっと顔を離す。少しして、ようやく私の口からも手を退かしてくれた。

 

「これ、やば……」


 つい漏らした声に、「ことり、ぽわーってして可愛い」と綾里が嬉しそうに微笑んだ。

 私は口元を手で覆って、ニコニコする綾里に目を向けた。


「どこで覚えてきたの」

「さあ、思いついたからやってみた。これなら毎日ちゅーできるね」


 「うん」と答えてから、ハッとして我に返る。


「いやいや、ダメだって。これ初めのうちはいいけど、そのうち生殺しでつらくなるやつだよ」

「ふうん、ことり、したいんだ」

「ちがっ、今のは言葉の綾というやつで」

「私はしたいよ。でも、ことりの方から『綾里好き好きー大好きー、ちゅーしよ』って言ってくるまでは我慢するの」

「ええ……それは一生できないやつでは」

「言うよ、ことりはきっと言う。絶対に言う」


 どこからそんな自信が湧いて出てくるんですかねえ、謎すぎます。

 そうこうやり取りをしつつ、私たちはまた歩き始めて部室に向かった。


 部室が近づいてきて、私の視線は自然と窓に向いていた。

 反対側の窓に二つの人影が浮いて見えた。その人影は、抱き合うように重なり合っていた。

 私と綾里はここにいて、顧問の先生も今日は来ていないから、その二人が誰なのか、可能性は一つしかなかった。

 

 何かが手首に触れる感覚がして、見てみると綾里の指が首輪に引っかかっていた。

 綾里の顔を見ると、丸くした目で私を見返してきた。

 

「見た? ことり吐血する? 大丈夫?」


 どうしてそうなったし!


「どうしよう、引き返す? それとも対抗して私たちもぎゅってする?」


 綾里が両手を広げて、私を胸に迎え入れようとする。

 対抗って何だよ。やばいな、ご主人様の思考回路がやばい。……いや、最近だと割と普通のことか。

 

 その時、部室の方から甲高い叫び声が聞こえ、続いてガチャリと音がして、西原部長がものすごい勢いで飛び出してきた。

 そして、まっすぐに私に向かって突進して、あげく、思い切り抱きしめられた。

 ……何だこれ。一体何が起こっているんだ。


「ちょっと部長! ことりにぎゅってしていいのは私だけですから! 離れてください!」


 綾里が「もー!」と言いながら、私に抱き着く部長さんの背中を叩いたり腕を引っ張ったりする。


「ゴキブリが出たぞ! みんなヤられる前に逃げろ!」


 部長さんが耳元で大声をあげた。

 なんだ、先輩と抱き合っていたように見えたのもこういうことか。そりゃそうだよな、うん。別に期待とかしてたわけじゃないですよ、断じて、はい。


「部長いい加減にしてください! 本気で怒りますよ! ちょっとスコップ取ってきます!」


 そう言い放って、綾里が部室に向かって全速力で駆けて行った。

 待って、そのスコップ何に使うつもりなの! 綾里が言うとシャレにならないから!


「部長さん、離れてください! 命が! 命が危ないから!」

「なに、殺人事件?」

「そうなりかけてます! 犯人はあの人です!」


 部室の外壁に立てかけられたスコップを手にした綾里を指さす。

 部長さんが振り返って、即座に私から距離をとった。


「緋野ちゃんステイ! ほら、夢川ちゃんを抱きしめて落ち着きなさい!」


 部長さんが私の背中を押して、さながら人質のように差し出された。

 綾里がスコップを放り出して、一切の迷いなく抱き着いてきた。胸に顔をスリスリと擦りつけてくる。


「上書きには数時間かかります」

「勘弁してください」


 私たちの様子を見て、部長さんが額の汗をぬぐった。


「ふう、殺人事件は回避されたか」


 綾里がクスリと笑って、「まあ、冗談ですけどね」と言った。

 本当かどうか非常に疑わしい……が、まあいいか。たぶん早急に私と部長さんを引き離すためだったのだろう。

 めちゃくちゃ怖かったですけどね!


「で、ゴキブリはどうなったんです?」

「まだ退治できてないんだよ、こえー」

「部長ってほんとゴキブリ苦手ですね」

「苦手じゃないやつがどこにいるんだ! あたしはヤツが退治されるまで部室には戻らんぞ!」


 そんな部長さんを後ろにして、私と綾里は部室のドアを開けて中を覗いた。

 窓際で佇んで背中を向けていた古水先輩が、ゆっくりと首をまわして入り口の私たちを見遣った。


 先輩の横顔を見た瞬間、私は言葉を失った。ほんの一瞬、先輩が今までに見たことのない表情をしていたから。


 自らの身体を抱きしめるような格好で、顔を耳まで紅潮させて目を潤ませる先輩は、あまりにも現実離れしていて、それが現実の先輩なのだと理解するまでに、ひどく時間がかかった。


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