9 キスして
綾里のいない部活を終えて、三時ごろから夕方の今まで、ひとり駅で佇んでいた。
「あーやーりー!」
改札を通る綾里の姿を見るや、気落ちした心持ちを慰めてもらおうと待ちに待っていた私は、さながらご主人様の元へ駆ける犬のように突進した。
正面から飛びついて、綾里の首に巻き付いた。
「わっ、ど、どうしたのことり……命令してないのに抱き着くなんて……っていうかここ駅だから! 人が見てるから!」
「命令してええ……いつもみたいにぎゅってしてって命令してえええ……」
「えっと、ぎゅってして」
「うううう、もうしてたあ……」
「ええ……」
綾里に手を引かれて、駅前の公園にやってきた。木陰のベンチに並んで座る。
「で、どうしたの。夜の電話じゃダメだったの?」
「どうしても綾里に会いたかった」
「ふ、ふーん……そうなんだ」
茜色の西日に目を細めて、綾里が俯く私の顔を下から覗き込んだ。
「何かあった?」
綾里の左手が、膝の上で組んでいた私の両手に重ねられた。その手がスッと手前におりて、綾里から貰った首輪とともに右手首を包んだ。
「私、部長×先輩ではじめて萌えられなかった……」
「なに、そんなことにショック受けてるの?」
綾里が苦笑して、訊き直した。
「尊いを通り越して、自己嫌悪に陥っちゃったよ。部長さんと古水先輩、私が思ってた以上に深い仲で強い繋がりがあるのかも。なんか、罪悪感で死にそう……」
『それから楓ちゃんだな、私の元気の源は』。そう言った時の部長さんの表情が頭にこびりついて離れない。
すごくすごく大事そうに発せられたあの言葉は、私なんかが勝手な妄想の餌にしていいものじゃなかった。
「部長さんのあんな表情、はじめて見た」
「ふーん、詳しくは聞かないけど、ヤキモチではないの?」
綾里の手が、きゅっと手首を握り締めるのがわかった。
少々間があいて、私は「えっ」とこぼした。
「ううん……やっぱりヤキモチではないと思う。なんか、どちらかというと、羨ましい……って感じかなあ」
「羨ましい?」
「私はさ、そういう人に一生出会えっこないんだよ。たぶんね、部長さんの想う古水先輩みたいな人に私が出会えたとしても、私にとってその人は、きっと恋の相手だから。想いの意味が違いすぎて、隔たりを感じて辛いだけだよ」
不意に、手首に鋭い痛みが走った。私の手首を握る綾里の手が小刻みに震えていた。
「あの綾里、つ、爪が――」
「どうして決めつけるの……」
綾里の顔を見ると、地面に目を落として、いつかの放課後にしていたように、下唇を噛みしめていた。
「ことりの気持ちも分かるよ、『怖い』『バレたくない』って。小学生の時の経験も聞いた、それはいいよ、ことり自身のことだもん。でも、もしかしたら相手も同じかもしれないのに、ことりのことをそういう目で見る人もいるかもしれないのに、その気持ちがある可能性を最初から排除するのは……ひどいよ」
「……だって、期待して、結局苦しむのは自分だよ」
「だから他人の本心を知ろうともしないで、初めから決めつけるの?」
綾里の問いに、私はためらいつつも正直に頷いた。
綾里の手が、私の手首から離れた。その解放感と共に、巨大な
「もういい、今までずっと我慢してたけどことりのことなんて知らない。私も私のためにはっきり分からせてやるから」
そう言って、綾里はベンチから立ち上がって、私を見下ろした。
綾里が深呼吸をして、私の肩に手をかける。そして、ゆっくりと、左膝をベンチに乗せ、続けて右膝をベンチに乗せ、下腹部を私の身体にぴたりと寄せ、太ももに腰を下ろし、両膝で私のお尻を挟み、両手で頬を覆うように私の顔を持ち上げて、顔を近づけてきた。
額と額がぶつかって、鼻先と鼻先が触れ合って、
「命令だよ。キスして」
心臓が暴れて、息が詰まった。
『そういう目で見る人もいるかもしれない』、『今まで我慢してた』、『分からせてやる』。綾里の声が頭の中で反響して、私はどうしようもなく
「あや――」
「黙って。命令って言ったでしょ。言うこと聞けるよね?」
私の言葉を遮り、綾里の熱っぽい吐息が唇をくすぐる。
今、私に求められているのは、綾里の本心を確かめることでも、こんなことをする理由を聞き出すことでもない。ただ命令に従いさえすればいい。
綾里が求めるからそれをする。まったくもって嫌なんかじゃなくて、むしろすんなり受け入れてしまえることに困惑した。
軽く顎をあげるだけで、互いの唇が触れ合った。その間にも、私たちは目を見つめ合っていた。綾里の唇は、熱くて、柔らかくて、そして少し震えていた。
綾里が顔を離し、とろんとした目をしてほっと息をついた。
パチパチとまばたきをして、頬を紅潮させたままニヤニヤとして雰囲気を一変させた。
「ことりとちゅーしちゃった」
「しちゃった、じゃないよ、もう。ここ公園なんだけど」
「でも嫌そうじゃなかったよ」
「い、嫌じゃなかったもん」
「えへへ。ねえ、さすがにおばかわんこでも私の気持ち分かってくれたよね?」
訊きながら、綾里が私の頬をさすった。くすぐったさに目を細めて、私は一瞬口ごもった。
「わ、分かったけど、私は……」
「それは言わないで、まだなことくらい私だって分かってる。だからことりにわんこになってもらったんだし」
「えっ、何、どういうこと?」
綾里が私の上からおりて、またベンチに座り直した。そして再び手首を握って、横目でからかうような視線をくれた。
「ことりは私のものでしょう?」
「う、うん……うん? うん」
「ことりが女の子を好きになるっていうことは私たちだけの秘密なの」
「はい」
「私はね、その約束でことりを縛ったの。まあ、ことりは他人にバレたくないわけだし、単なる予防線だけど。ことりのそれは、私だけが知ってることで、私だけの特別」
「は、秘密にするのってもしかして私への命令でもあったわけ?」
「そうだよ、気づくの遅いよ」
ええ……このご主人様マジか……。
まあ綾里の言う通り、綾里の他に打ち明けるなんてことは絶対にしないが。
「その特別はね、私にだけことりとそういう関係になることを許してくれるの。だから今は、ことりを独り占めして私のことを好きにさせようとしてる最中なんだよ。今はっていうか、一生独り占めするつもりだけどね」
綾里が私に肩を寄せて、頭を傾けた。
「早く私のこと好きになってよ。もちろん恋愛として、ね」
「それは……命令?」
私の問いに、綾里は澄ました顔をしてブンブンと首を横に振った。
「違います。命令で好きって言われたって嬉しくない」
「そっか……いや、綾里からの好意はずっと前からひしひしと感じてたけど、そういう意味だとは思ってなかった」
「はああ……こうなる前から好きになってもらおうとアピール頑張ってたのにさ」
「あの頃の綾里は無邪気で純粋であざと可愛かったなあ、『勘違いするなよ!』って何度自分に言い聞かせたことか」
「ばか。それで、あのノートを見つけて、悔しくて悔しくて吐きそうなくらい悔しくて、あんなことになっちゃった。だから、丁度いいから先に私のものにしてやろうって思ったわけ」
「はは、こわー、本性を暴いてやったぜ」
お道化て言うと、綾里の肩が私の身体をぐいと押してきた。
「最初はね、こんな関係をつくりあげて、嫌われるだけかもしれないって思ってた。でもことり、前に言ってくれたよね、嬉しいって、距離が縮まった気がするって。結果的に、今の方が良かったって思ってる」
「うん、私もそう思うよ」
綾里がコクリと頷いて、
「そろそろ落ち着いた?」
と小首をかしげて微笑んだ。
私に向けられたその微笑みを目の前にすると、たった今起きた出来事に動揺しているはずなのに、途方もない安心感に包まれるようだった。
「いやむしろ色々と動揺が重なったけど……でももう大丈夫。急に電話したのに来てくれてありがとう」
「ほんとだよ、泣きそうな声してたから何事かとびっくりしてとんできちゃった」
「あ、おばあちゃんの家に行ってたんだよね、よかったの?」
「うん、もともと今日の夜には帰る予定だったし、大した用事があったわけでもないから」
私の手首を包む綾里の手の上に、私はそっと左手を重ねた。
「そっか、本当にありがとう……綾里のコレのおかげで部活が終わるまで平静を保てたよ」
「束縛の首輪、ね」
「あはは、色々聞いたあとだと重みが違うなあ」
手首をつかむ綾里の左手を、上にのせていた手でそっと
綾里が「ん」と小声を漏らした。
「ことりから自主的にこういうことされると、胸がキュってなる。好きでもない子にこんなことして、いけないんだ」
「いつも命令して色々やらせてるのはどこのどなたですかねえ」
「それはご主人様の命令だから、いいの」
「横暴だ……」
ふと思いついて、ふふん、と挑発的に笑ってみせた。
「それに、仲良しは手を繋ぐものだって、綾里が言ってたことだよ」
すると綾里は、握った手にぎゅっと力を込めた。
「生意気」
そう言って体重をかけてくる綾里に対抗して、私も足を踏ん張って押し返した。
「ふん、絶対好きになんてなってあげないから」
「うわムカつく! だったらもう一生わんこのままでいなさい!」
はっ、確かにそうなるのか! やばいなコレ、私は一体どうすればいいんだ……。
「やっぱご主人様こわいわ……」
「怖くないよ、ちゃーんと可愛がってあげてるでしょ?」
おおおお、この笑顔の圧迫感、落ち着きます!
肩を寄せて、私たちは夏の夕暮れの公園で静かに笑い合った。
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